ブラックウッドを布教した人
ラヴクラフトが所蔵していたアルジャーノン=ブラックウッドの著作のうち3冊はダーレスから贈られたものだが、ラヴクラフトにブラックウッドを布教した人といえばジェイムズ=F=モートンだろう。怪奇小説のアンソロジーがダーレスから6冊も送られてきたとラヴクラフトは1933年2月1日頃のモートン宛書簡で報告し、次のように述べている。
そのうちの一冊(ブーン=リンチの"The Best Ghost Stories"という本です)にはブラックウッドの「柳」が収録されておりましてね――まことに喜ばしい出来事でありました。ところで――そもそもアルジャーノンに私の注意を向けさせてくれたのはあなたでしたね。そのことでは未来永劫にわたって感謝する次第です。
ラヴクラフトが初めてブラックウッドの作品を読んだのは1920年のことで、前述したようにモートンの薦めによるものだった。ラヴクラフトは1920年4月のギャラモ*1宛書簡では「ダンセイニの象徴主義は彼をかくも驚異的な作家たらしめているのでありますが、ブラックウッドのはそんなに華麗なものではありません」と語り、当初はあまり惹かれていなかったことが窺える。だが1924年の秋に「柳」を読んだことで真価に気づき、その翌年から1927年にかけて執筆された「文学における超自然の恐怖」ではきわめて高く評価している。
ラヴクラフトがブラックウッドの作品を読むきっかけを作ったモートンだが、彼はジャック=ロンドンの親友でもあった。モートンをモデルにした人物がロンドンの『マーティン・イーデン』には登場するし、ロンドンからもらった服をモートンはずっと大切に着ていたとラヴクラフトは1933年1月21日付のロバート=E=ハワード宛書簡で心温まる逸話を紹介している。*2『マーティン・イーデン』には邦訳があるが、現在では公有に帰しているのでプロジェクト=グーテンベルクで原文を読むこともできる。モートンならぬノートンについて語られている箇所を訳出してみよう。
「ノートンがそこにいればいいんだが」しばらく後、デミジョン瓶2本を取り上げようとするマーティンの奮闘に抗いながらブリッセンデンは喘ぎ喘ぎ語った。「ノートンは理想主義者なんだ――ハーバード大学の出身でね。ものすごく記憶力が優れた男だよ。理想主義が高じてアナーキズムに傾倒し、家族から縁を切られてしまった。お父さんは鉄道会社の社長で億万長者なのに、その息子はサンフランシスコで食うや食わず、アナーキズムの新聞を編集しては毎月25ドルで生活している」
The Project Gutenberg eBook of Martin Eden, by Jack London
ロンドンの小説では父親が鉄道会社の社長となっているが、実際にはフィリップス=エクセター=アカデミーの校長だったらしい。ただしハーバードを出ているというのは本当で、しかも学部卒業の時点で同時に修士号まで授与されるという優秀さだった。
ラヴクラフトとモートンの出会いは1915年、チャールズ=D=アイザックソンという人が人種の平等を訴えたのにラヴクラフトが噛みつき、そのときモートンがアイザックソン側の援軍として現れたのがきっかけだった。*3モートンが張った論陣をS.T.ヨシは「すばらしい」「圧倒的」と称賛しているが、少なくともラヴクラフトが言い返せなくなったことは確かで、モートンはハーバードで勉強しすぎたに違いないとぼやくラインハート=クライナー宛の手紙*4が残っている。一方、モートンはラヴクラフトを次のように評した。
討論中の誌面に見られる例からも明らかなように、ラヴクラフト氏が達人の席に座して威風堂々と裁きの雷を放てるようになるには長く地道な修練が必要だ。氏の美点はその明白な誠実さである。同じように誠実な人々が共有している多くの観点を尊重することの価値をラヴクラフト氏がひとたび認め、特定の事柄をもっと学びさえすれば、その偏狭さと不寛容は消えていくだろう。氏の文章にみなぎる活力に、より幅広い理解に基づいた明瞭な着想が伴えば、すぐれた作家となるはずだ。
当時ラヴクラフトは25歳、モートンは彼より20も年上だった。*5人種主義者の若者をボコボコにしたあげく「ブラックウッドはいいぞ」と薦めてくるおじさん。こう書くだけでも、なかなか濃いキャラだ。
ラヴクラフトがモートンに一喝されて目を覚ましたというのであれば美談だが、そうではなかったらしい。「遺憾ながら、この出来事はラヴクラフトの人種観に何ら影響を及ぼさなかったようだ」とヨシは述べている。しかしラヴクラフトとモートンの友情は終生にわたって続くことになった。1924年から26年にかけてラヴクラフトがニューヨークで暮らしていた時期、彼と友人たちの集まりをケイレム=クラブというが、その中心にいたのはラヴクラフトとモートンだった。*6
ドナルド=ワンドレイの"Lovecraft in Providence"によると、ワンドレイとモートンが1927年にプロヴィデンスを訪れてラヴクラフトに会ったとき、アイスクリームの有名店で大食い競争をしたそうだ。アイスクリーム1種類につき1パイントの分量があり、それを3人で分け合いながら食べていったが、ワンドレイは21種類目で音を上げた。ラヴクラフトとモートンはさらに食べ続け、メニューにある32種類すべてを制覇する気でいたが、そのうち6種類はすでに売り切れていた。この証言から計算すると、ラヴクラフトとモートンはそれぞれ9.5パイント(4.5リットル)ものアイスクリームを平らげたことになるのだが、そんなに入るものなのだろうか。店にとっても26種類完食は壮挙だったらしく、ラヴクラフト・モートン・ワンドレイの署名入りの証明書が壁に掲示されたという。なおモートンは1933年にもラヴクラフトを訪問しており、このときも二人でアイスクリームを食べている。*9
1936年3月にラヴクラフトは入院し、そのまま帰らぬ人となったが、そのとき彼の机の上から発見されたのはモートン宛の書きかけの手紙だった。非常に長い手紙で、おそらく何カ月も前から書き続けていたのだろうといわれている。この手紙にもブラックウッドへの言及があるのだが、あるいはモートンの薦めで彼の作品を読みはじめた昔を思い出していたのだろうか?
*4:1915年11月25日付。