新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

火竜ラヴクラフト

 1931年6月5日、ラヴクラフトは滞在先のフロリダ州ダニーデンからダーレスに葉書を送り、ヘンリー=S=ホワイトヘッドの家の玄関に蛇が現れたことを知らせている。ホワイトヘッドはその蛇を標本にしてラヴクラフトへの贈物としたそうだが、手ずから蛇を捕えたホワイトヘッドの豪胆さにラヴクラフトは感銘を受けたらしく、彼のことを「悪魔をも怖れぬ人物」と称賛していたとロバート=バーロウの備忘録にある。
 ラヴクラフトが直接ホワイトヘッドに会ったのは1931年のフロリダ旅行の時が最初で最後だ。ホワイトヘッドが病身であることをラヴクラフトは知っていたが、1931年5月29日付のダーレス宛書簡では「快方に向かっています。1週間で体重が5ポンドほど増えましたし、お医者さんの話では手術は不要だそうです」と述べている。しかし、その翌年の11月23日にホワイトヘッドは帰らぬ人となり、ラヴクラフトが書いた弔辞がウィアードテイルズの1933年3月号に掲載された。
 ラヴクラフトは1932年11月26日付のダーレス宛書簡の追伸でホワイトヘッドを悼んでいるので、彼のもとに訃報が伝わるのは早かったらしい。「84歳になるホワイトヘッドの御尊父はさぞやお嘆きでしょう」とあるので、その人がラヴクラフトに知らせたのかもしれない。
 標本をラヴクラフトに贈ったのはホワイトヘッドだけではなく、ロバート=E=ハワードも1934年5月に蜘蛛をプロヴィデンスへ郵送している。*1ハワードがホワイトヘッドと蛇の逸話を知っていたかは不明だが、彼を文武両道の英傑として尊敬していたらしいことが1933年3月6日付のラヴクラフト宛書簡から読み取れる。
 ところで1931年6月5日付のダーレス宛の葉書にはホワイトヘッドも書きこんでいる。この箇所はアーカムハウスラヴクラフト書簡集には収録されていないが、割と興味深いことが述べられていると思うので参考までに訳出してみよう。

今晩ラヴクラフトは北へ発ちます。ダーレス君のことをたいそう褒めておりましたよ。それにしても彼はサラマンダーですな。自分も暑さには強いつもりだったのですがね。フロリダの気候は熱帯のそれに酷似することがしょっちゅうあるのですが、もっとも暑くなる午睡の時間ですらラヴクラフトはまるっきり気にしていないのです。

 ラヴクラフトといえば寒さに弱かったことが有名だが、これはスプレイグ=ディ=キャンプによる誇張だとケネス=スターリングは"Caverns Measureless to Man"で指摘している。スターリングによると、ラヴクラフトは寒さが苦手といっても決して病的なものではなかったそうだ。華氏20度より低い気温は好きではないとラヴクラフトから聞いたことはあるそうだが、この温度は摂氏に換算すると氷点下7度なので我慢できなくても不思議ではないだろう。なお、真冬のプロヴィデンスは実際にそれくらい寒くなることがあるらしい。
 ただしダーレス宛の葉書におけるホワイトヘッドの言葉を見る限り、ラヴクラフトが快適に感じる気温は他の人より高めではあったのかもしれない。ラヴクラフト本人も「暑ければ暑いほど私は元気になるようです」*2と語ったことがあり、とりわけフロリダは北国にいるときの3倍の活力が得られるとしてお気に入りの旅先だった。ホワイトヘッドが世を去った後はバーロウがラヴクラフトを宿泊させ、彼がフロリダに長逗留できるようにしている。

ラヴクラフトの聖樹

 ラヴクラフトが1934年12月30日に書いたダーレス宛の手紙より。

ダーレス君の27日付の手紙が届いたとき、ちょうど一筆したためようとしていたところだったのですよ。ハワード=ワンドレイから君の病気のことを聞いたばかりで、どれほど深刻な容態なのか、どこまで快復したのだろうかと気になっていたのです。思ったほどひどくなかったようで重畳です。天然痘のような症状が出たら警戒しなければなりませんが、ワクチンの接種を受けた後で罹患する仮性のものなら怖れるに足らないと思います。そんなに軽度で済んだとは幸運でしたね――私だったら、もっと重症になっていただろうと思います。接種は2歳半の時に受けたきりですし、加齢につれてワクチンの効力は消失しているでしょうから。

 ワクチンは大事だよという話をしているラヴクラフト。その少し前にダーレスが天然痘のような発疹を起こしたのだが、ワクチン接種済だったので仮痘で済み、倦怠感すら生じなかったという。

賑やかなユールを過ごしておられることと思います。うちでもツリーを飾りましたよ――この四半世紀で初めてのことです。古い飾り付けはもちろん散逸していましたが、安価な新品をウールワースの店で仕入れてきました。完成したツリーですが――きらきら光る星も飾り玉も取りつけましたし、枝からはサルオガセモドキのように金糸を垂らすようにしました。確かに見物でしたよ! 仕上げに十二色の電飾も入手しました。

 というわけでクリスマスツリーを飾るラヴクラフトは実在したのだが、ずいぶん気合いが入っていたようだ。ちなみにウールワースというのは当時の米国にあった日用雑貨のチェーン店らしい。

さて、これからマンハッタン行きの駅馬車に乗るところです。もう一度、私の若き孫であるベルナップの客人になりにいくのですよ。今回はずいぶん大規模な催しになりそうです。何しろ長旅を済ませてアヴェロワーニュから戻ったワンドレイが来てくれますし、ボビー=バーロウ少年もワシントンから駆けつけてくる予定ですから。

 ワンドレイというのが兄弟のどちらなのかラヴクラフトは明言していないが、アヴェロワーニュはクラーク=アシュトン=スミスが住んでいるカリフォルニア州オーバーンのこと。この年の11月、ドナルド=ワンドレイはスミスを訪問しており、彼との連名でカリフォルニアからラヴクラフト宛の手紙を出している。そのことはダーレスも知っていたのでラヴクラフトファーストネームを省略したのだろう。なおニューヨークでの新年会には弟のハワード=ワンドレイも参加した。
 駅馬車とあるが、実際にはもちろん長距離バスだ。ダーレス宛の手紙を書き終えたラヴクラフトは乗車場に出かけていった。寒さのせいで心臓が苦しくなったが、どうにか生きてバス乗り場まで辿りつくことができたと書かれた葉書を彼はニューヨークから叔母に送っている。ラヴクラフトがバスに乗りこんだとき、もう真夜中だった。
 バスの中は幸いにも暖房が効いており、隣に誰もいなかったのでラヴクラフトはゆったりと座ることができた。バスがニューヨークに到着したのは12月31日の午前7時、110番地はまだ夜が明ける兆しすらなかった。ラヴクラフトはそう叔母さんに報告しながら「クリスマスツリーが恋しいです!」と書いているので、よほど気に入っていたのだろう。
 ラヴクラフトは無事にロング一家と会い、その日の午後にはバーロウとも落ち合った。「すべての海が」をバーロウと合作したのは、この時のことだ。年が明けてからはニューヨークの古書店を回り、マシュー=グレゴリー=ルイスの『マンク』を買ったとダーレスに手紙で知らせている。*1

神の通過

 ラヴクラフトが初めてロバート=バーロウに手紙を書いたのは1931年6月25日、サウスカロライナ州チャールストンを旅行中のことだった。フロリダを訪れてヘンリー=S=ホワイトヘッドに会ったばかりだったので、バーロウ宛の手紙にも彼への言及がある。その一部を訳出してみよう。

もしもアドベンチャー誌を置いている売店が近くにあるようでしたら、ホワイトヘッドの新作を見逃さないようにしなさいよ――「黒い獣」といいます。私見では、これまでウィアードテイルズに載った彼の作品を凌駕する傑作でして、例外はかの比類なき"Passing of a God"だけです。

 ホワイトヘッドの"Passing of a God"はウィアードテイルズの1931年1月号に掲載された。彼が1933年に亡くなったときの追悼文でもラヴクラフトは同作を最高傑作としているが、未だに邦訳はない模様だ。
 "Passing of a God"の舞台は西インド諸島、語り手はジェラルド=ケインヴィンだ。彼が友人のペルティエ医師を自宅に招き、話を聞いているところから物語は始まる。ペルティエ医師が語るのは、アーサー=カースウェルという患者にまつわる奇妙な体験談だった。
 ウィリアム=シーブルックのThe Magic Islandを読んだことはありますか? とペルティエ医師はケインヴィンに訊ねる。シーブルックは米国のオカルティストで、ハイチを題材にした旅行記であるThe Magic Islandはゾンビを米国の大衆文化に導入するのに寄与したという。最後は酒に溺れて1945年に自殺したそうだが、それはさておきThe Magic Islandで紹介されているハイチの風習には神が人に憑くというものがあった。憑代となったものは周りの人々から崇められるが、神が去っていけば礼拝はぴたりと止むのだそうだ。
 シーブルックの著作を前振りにしてから、ペルティエ医師はカースウェルの話に移った。ポルトープランスの病院を訪れた彼は愉快な人物だったが、その身体は妙にぶよぶよした印象を与えるものだった。実は腹部に巨大な腫瘍があったのだ。その腫瘍のせいで仕事を諦め、婚約者とも別れたカースウェルは米国を去ってハイチに来た。沼地で獲ったカモを干し肉にして米国に輸出する商売をしているうちに7年が経ち、彼はすっかりハイチの社会に溶けこんでいた。
 カースウェルは入院して手術を受けることになり、詳しい経緯をペルティエ医師に語る。腫瘍のせいで死に近づいていることは常に意識していたものの、これまで苦痛はなかったそうだ。ところが3日前に卒倒し、目が覚めると神の憑代として現地人に拝まれている最中だった。皆そのうち帰るだろうとカースウェルは考えたが、彼が我に返っていることがわかっても誰一人として立ち去らず、神官や呪医までやってきて恭しく捧げ物をする始末だ。そして腫瘍が痛みはじめたので、カースウェルは病院に行くことにしたのだった。
 『ブラック・ジャック』を読んだことがある人ならおわかりになるだろうが、実は腹部の奇形嚢腫に神が宿っていたのだ。真相が簡単に推測できてしまうにもかかわらず、カースウェルがとても魅力的な人物として描かれているおかげで、彼は果たして助かるのだろうかと手に汗を握りながら読み進めることができる。手術を行って腫瘍を摘出した――ここまで語ったところでペルティエ医師はケインヴィンを自分の家に誘う。
 アッチョンブリケが口癖の幼女がペルティエ医師の家で待っていたらどうしようと思ったのだが、彼がケインヴィンに見せたものは腫瘍をアルコールに漬けた標本だった。ビリケン原文ママ)に似た姿で、手術の直後は呼吸していたそうだ。その双眸は途方もなく邪悪で、測り知れざる太古から崇拝されてきた神の眼だったとペルティエ医師は語るのだった。
 退院したカースウェルを見た人々は喜んでくれたが、もう神として崇めることはなかった。すっかり元気になったものの、カースウェルは帰国しようとはしなかった。恋人もすでに世を去っており、米国での暮らしに未練はなかったのだ。彼はハイチの社会や文化にたいそう精通しているので、現在は高等弁務官の相談役を務めているという。
 落ちが早々とわかってしまうのに楽しめるのは、ホワイトヘッドが丁寧に書いているからだろう。ラヴクラフトが褒めるだけのことはある作品だと思う。マイク=アシュリーによると、アルジャーノン=ブラックウッドもダーレス宛の手紙でホワイトヘッドを高く評価したことがあるそうだ。

サイト更新

 久々に弊サイト「大凡々屋」を更新。ラヴクラフトの親友だったジェイムズ=F=モートンに関する記事に大幅な加筆を行った。
www7a.biglobe.ne.jp
 本当は伝記のカテゴリに移動させたかったのだが、アナーキズムの闘士としてのモートンを掘り下げる作業は私の手に余り、ラヴクラフトの親しい友人としての側面を伝えるに留まったのでエッセイのままとした。
 これまで書き散らしてきたことをまとめただけではあるのだが、出典をひとつずつ確認しなおす作業が思いのほか大変で、普段からきちんとしておくべきだったと反省することしきりだ。ご高覧いただければ光栄に思う。

裁かるるジャンヌ

 クラーク=アシュトン=スミスがダーレスに宛てて書いた1934年7月22日付の手紙より。

僕はおよそ映画の愛好家ではないのですが、ジャンヌ=ダルクの映画は観てみたいですね。映画を鑑賞した夜はいつも眼精疲労から来る頭痛に悩まされるのですが、そういう映画なら頭が痛くなる価値もありそうです。

 ダーレスからもらった7月3日付の手紙に対する返信なのだが、ここでスミスが言及しているのはカール=テオドア=ドライヤー監督の『裁かるるジャンヌ』だ。この映画は「世界四大名画のひとつといわれています」とダーレスの書簡にあるのだが、残りの三つは何なのだろうか。ともあれダーレスは気に入ったようで「これまでに私が観た中では最高傑作のひとつでした」と語っている。
 ところでダーレスが『裁かるるジャンヌ』をどこで観たのかというと、ソークシティから40キロメートルほど離れたスプリンググリーンのフランク=ロイド=ライト邸で、この映画鑑賞の時にダーレスとライトは知り合ったらしい。つまりダーレスはライトの建築学校に行ったのだとダーレス・スミス往復書簡集に註釈がある。小説家であるダーレスが建築学校に通うというのは奇妙に聞こえるが、どうやら彼は教える側として期待されていたようだ。もっとも、建築家相手の講演をライトから頼まれたダーレスはさすがに断ったという。まだ25歳の若造である自分には荷が重いと感じたのだろう。ダーレスとライトの交流は後年まで続き、ダーレスの屋敷をライトが設計したという誤解が広まったりもした。*1
 スミスの手紙に話を戻す。ウィーバーというニューヨークの弁護士に頼んだらヒューゴーガーンズバックから未払いの原稿料50ドルを取り立ててくれたが、まだ691ドルも残っているなどと書いてあるほか、ホフマン=プライスが遊びに来てくれたそうだ。

E.H.プライスが先日の週末にまたオークランドから来てくれましたよ。奥さんも一緒でした。プライスの滞在中、僕の母方のおじが所有している古い銅山を見に行きました。隧道も立坑も色とりどりの鉱石や酸化物や硫化物でいっぱいでした。縞の入った滑石など、わずかながら放射能を帯びているものもありました。プライスはいくらか標本を持ち帰りましたが、ラヴクラフトの友人で博物館長のジェイムズ=F=モートンに渡すそうです。

 モートンニュージャージーのパターソン博物館の館長だった人。*2この博物館にはラヴクラフトも標本を提供したことがある。*3ラヴクラフトと愉快な仲間たちの中でもプライスはとりわけ旅好きだったらしく、ロバート=E=ハワードに会いにテキサスまで行ったこともあるという。*4アーカムハウスから刊行されたBook of the Deadは、世を去った友人たちを偲ぶプライスの回想記だが、クトゥルー神話の三聖やハワードだけでなくモートンのためにも一章を割いている。
www.eldritchdark.com
 プライスがモートンのために標本を採取した銅山は別のところでも重要な役割を果たしている。スミスが彫刻を始めたのは、この銅山で採れた滑石を手すさびに彫ってみたことがきっかけだったそうだ。

「戸口に現れたもの」余話

 1933年8月に「戸口に現れたもの」を完成させたラヴクラフトは清書稿を友達に送って意見を求めた。同年12月4日付の手紙でクラーク=アシュトン=スミスは次のように述べている。

エドワード=ダービーのキャラクターはよく書けていますよ。ひとつ非常に小さな提案があるのですが、我ながら自信がなく躊躇を覚えるものです。アセナスの亡骸を動かすという異常な能力がダービーにあったのは、彼もまた一方ならず黒魔術に精通していたからだと示唆(一文あるいは一言でいいと思います)を付け足すのはいかがでしょうか。とはいうものの、今のままでも暗に示されていることかもしれません。

 スミスはラヴクラフトの原稿をロバート=E=ハワードに転送し、ハワードは読み終えたことを1934年1月頃の手紙でラヴクラフトに報告している。

「戸口に現れたもの」を拝読する機会をくださり、ありがとうございました。とても楽しかったですよ。ラヴクラフトさんが怪奇幻想の達人であることは、この作品でも歴然としています。どの作品でもそうですけどね。

 ところがラヴクラフトは1934年3月11日付のダーレス宛書簡で「二丁拳銃のボブは何も意見をくれません――彼の陽気な性格にとっては退屈すぎる作品だったかもしれません」と愚痴をこぼしている。ただ称賛するだけでは意見のうちに入らないのだろうか。ハワードにしてみればラヴクラフトの小説を講評するなど恐れ多いことだったに違いないが、ラヴクラフトとしては褒めちぎられるよりも欠点を指摘されるほうが安心できたのだろう。面倒くさい人だ。
 ダーレスが意見を述べたラヴクラフト宛の手紙は現存していないが、彼の考えは1934年2月24日付のスミス宛書簡で確認できる。ダーレスは「楽しかった」としながらも、十分には満足していなかったようだ。

化物がまだ生きているのですから、物語は本当に終わったわけではありません。容疑者となった語り手がなぜ逮捕されていないのかという説明もありません。戸口に現れたものはまず精神病院に行ってダービーの肉体を焼却し、それから保釈中の語り手に書面を手渡すということにしてはどうでしょうか。宙ぶらりんのまま終わらせるよりは、そのほうがましではないかと思います。ですが、それ以外の点では申し分のない作品です。

 スミスは3月2日付で返信し、ダーレスの意見も一理あると認めつつ「僕としては今のままが好きです」とラヴクラフトを擁護した。語り手であるアプトンが逮捕されていないというのは明らかにダーレスの勘違いであり、ラヴクラフト自身が3月11日に「あの手記はアーカム拘置所で書かれたものですよ」と訂正している。なぜダーレスはそんな誤解をしたのだろうかと私は首をひねっていたのだが、ラヴクラフトがロバート=ブロックに宛てて書いた1934年4月9日付の手紙を読んだところ理由がわかった。アセナスの死体に入ったエドワードがアプトン宅の戸口に現れるよりも前に、エドワードに乗り移ったアセナス*1エドワード自身が射殺したとダーレスは思いこんでいたというのだ。作中で出来事が語られる順番では確かにそうなっているのだが、迂闊といわざるを得ない。
「まあ多読家が斜め読みするのが当たり前ですし、ましてや私の作品なんて重要じゃないですからね」などとラヴクラフトはブロック宛の手紙で拗ねているが、これは不注意だったダーレスが悪い。ただ、エドワードが自分自身の力で復讐を遂げるという展開も一考に値するのではないだろうか。状況に流されっぱなしだった彼が最後の最後で根性を見せればカタルシスがあるし、実は黒魔術の達人だったとほのめかすというスミスの案と組み合わせるのがよさそうだ。もっとも、人間を描くことに関心がなかったラヴクラフトには不向きな発想だろうし、あくまでもダーレスが「戸口に現れたもの」を書いた場合の結末として興味深いというに留まるだろう。

*1:厳密にいえばエフレイム。いや、本当はエフレイムですらないのかもしれないが。

落ち着きのない水死体

 ラヴクラフトがドナルド=ワンドレイに宛てて書いた1936年12月20日付の手紙より。

近ごろ君の作品が雑誌に載っているとのこと、興味深く思います。"Uneasy Lie the Drowned"に眼を光らせておくことにいたしましょう。いかにも期待できそうな題名ですね! "Black Fog"も魅力的な響きです。ですが何にも増して私が聞きたいと熱望しているのは、君の戯曲が完成したという報せです。この分野に手を染めてみるつもりだと君が話してくれたのはずいぶん前のことですが、とうとう成就しつつあるところを拝めるとは重畳ですよ。疑いようもなく戯曲は偉大な表現分野です――とりわけ人間の性格や心理を描写するときには――そして小説を書くときよりもさらに幅広く高品位であることが求められます。私がこれまで一度も戯曲を書こうとしていないのは、現象や情景ではなく人間の行状を扱おうとしたことがめったにないからです。演劇という形態では怪奇幻想ですら題材として見事に利用できるということは、いみじくもダンセイニの戯曲が証明しているとおりです――「山の神々」や「旅宿の一夜」といった作品ですよ。いつかは君の作品を観劇できますように。ありとあらゆる形態の作品を君は書いたことになりますね――でも台本を完成させた後は叙事詩歴史小説・旅行書・評論・意識の流れ小説・科学解説書などに挑戦してもよいのですよ。あるいは写象主義の詩作とか、ガートルード=スタイン流の言語反復はいかがですか? 絶望するには及びません――文学とは幅広いものなのですから!

 "Uneasy Lie the Drowned"の初出はウィアードテイルズの1937年12月号で、フェドガン&ブレマーから刊行されたDon't Dreamに収録されている。短い作品で、主人公はモース=カルキンズという男。彼がカナダの湖をカヌーで横断していると、水底から浮かんできた水死体が舷にしがみつきながら話しかけてきた。少なくとも数カ月は水に漬かっていたらしく、ぶよぶよになっている。
「まあ話を聞いてくれよお」オールでぶん殴られながら、そいつはいった。「僕はピート=ラロイ。溺れ死ななければ君の友達になっていたはずなんだ」
「消え失せろ! 地獄に戻れ!」
「戻るけどさあ、すべきことがまだ済んでないんだよ」
 ピート=ラロイと名乗る水死体にいわせると、彼とモースは親しくなるものの仲違いするはずだったそうだ。それでも本心を隠しながら友達付き合いを続けていたのだが、一緒にカナダへ旅行したときピートがモースを湖に突き落として殺害する予定だったという。
「ここで溺れ死ぬのは僕ではなく君のはずだったんだ。そういうわけで、君を殺しに来たんだよお」
 激しい雷雨が降りはじめ、カヌーは転覆してしまう。波に飲みこまれながら、モースはまだ水死体と争い続けていた……。見ず知らずの土左衛門が現れて「あったかもしれない未来」を語るという悪夢のような話だ。
 ラヴクラフトの手紙で言及されているワンドレイの戯曲は"Love to Murder"という題名のミステリだが、今日に至るまで出版されたことはない模様だ。3カ月の間、ワンドレイはラヴクラフトへの返事も出さないで執筆に集中し、1937年3月17日付の手紙で意気揚々と脱稿を報告している。

どんなに甘く評価したところで、人生の解釈や演劇界に対する貢献と呼べるような作品ではありません。でも僕は満足しています。最後まで書き上げることができたし、将来の発展につながるコツがつかめたという実感があるだけで嬉しいのです。
(中略)
冬の間はどうしておられましたか? ベルナップのところへ遊びに行かれたのでしょうか、それとも南方で冒険をなさっていたのでしょうか? 何か新作をお書きになったか、あるいは執筆中でしょうか?

 だが、この手紙をラヴクラフトが読むことはなかった。彼は3月15日に世を去っていたからだ。ワンドレイがいつラヴクラフトの死を知ったのかは定かではないが、彼の弟であるハワード=ワンドレイからダーレスが連絡を受けたのが3月18日なので、その頃までには訃報が届いていたと見るべきだろう。