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主にクトゥルー神話のことなど。

モートンという男

 ラヴクラフトのジェイムズ=F=モートン宛書簡集がアマゾンで注文できるようになっている。

Letters to James F. Morton

Letters to James F. Morton

 モートンは1870年生まれなので、ラヴクラフトより20歳上ということになる。ハーバード大学を優秀な成績で卒業したそうだが、ずっと定職に就かず、執筆活動や講演で生計を立てていた。黒人の人権問題に取り組むなどラジカルな人物として知られ、またエスペランチストでもあった。
 ラヴクラフトモートンの交流が始まったのは1915年、チャールズ=D=アイザックソンという人が人種差別廃絶を訴えたのをラヴクラフトが批判し、それに対してモートンが反論を加えたのがきっかけだった。モートンは次のように述べている。

真の保守主義者はいつでも尊敬に値するものだ。真の保守主義者は望ましく必要な社会的影響の代表者であり、それは世の中の不正をただそうとする急進派の動きが行き過ぎるのに歯止めをかけるものである。ラジカリズムの擁護者として、私は上記のことを認めるにやぶさかでないし、まともな保守主義者を根絶できるとしても、そのようなことはするまい。急進派は進歩を促進し停滞を避けるために必要だし、保守派は均衡を守り革新の最中に秩序を維持するために必要である。(中略)ラヴクラフト氏は、常識とか主流といったものを墨守しようとしているだけでなく、過ぎ去った時代の偏見へと回帰しようとしている。それは保守ではなく反動というのである。

 ラヴクラフトの痛いところを突いている。言い返せなくなったラヴクラフトは「モートンという人はハーバード大学で勉強しすぎたに違いない」などとぼやいた。要するに、友好的な雰囲気のもとで始まった付き合いではなかったのだが、にもかかわらず彼らは20年以上にわたって親友であり続けた。ラヴクラフトがアルジャーノン=ブラックウッドの作品を読むようになったのもモートンの薦めによるものならば、プロ作家になったのも彼の励ましのおかげだったという。
 モートンは1925年にニュージャージーのパターソン博物館の館長となり、以後15年間その職にあった。1925年から26年にかけて、ラヴクラフトをパターソン博物館の助手にするという話が持ち上がっていたそうだ。またラヴクラフトは「クトゥルーの呼び声」でパターソン博物館に言及し、名前こそ出していないもののモートンカメオ出演させている。
 多くの点でラヴクラフトと異なっていたものの、知性においてラヴクラフトに匹敵し、彼と不変の友情で結ばれていたモートン。褒むべきかな、ジェイムズ=F=モートン! 彼とロバート=バーロウは我が国ではほとんど知られていないが、「ラヴクラフト・サークル」を語る上で決して外せないだろう。