新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

ラヴクラフトのブラックウッド論

 昨日の記事*1で申し上げたように、アルジャーノン=ブラックウッドのStrange Storiesラヴクラフトとダーレスの文通で話題になったことがある。このとき、1930年1月下旬から2月上旬の間にラヴクラフトが書いた手紙では好きな作品として「エジプトの奥底へ」が挙げられ、またブラックウッドの卓越している点が論じられている。

アルジーが何をしようとしているのか私にはわかりますし、とても共感を覚えます――その成果は不完全なものであることを余儀なくされていますが、それでも今までの誰よりも彼は遙かに優れているのだというのが私見です。私なんかでは、どんなにがんばったところで及びもつきませんよ! 何が目的かといえば、捉えどころがなく言いようのない感覚を把握することです。感受性と想像力が豊かな人なら多かれ少なかれ誰でも備えている、乱れた次元や現実や時空の要素の幻影を創造するための感覚です。これは自ずと大仕事になりますし――そんなことに本気で取り組む根性のある人を他には一人も知りません。その過程には君だって強く共感を覚えるでしょう。それはまさしく君が追い求めている理想の一段階なのですから――人工的な様式の下にあるものに辿りつき、玄妙な印象と様々な段階の雰囲気を突き止めたいという今日的な願望です。怪奇なものに対する人間の感覚を伝統的な客観的方法で取り扱う者は――超自然に対する出来合いの概念を踏襲し、作品を統合的かつ説話的に外部から表現するようでは――どんなに芸術的な完成度だったとしても、現実の心理表現に関する限り、遊び半分に事をなそうとする皮相的な創作者に過ぎません。マッケンやビアスですら、この方向にはそこまで遠くへ行っていません。ポオは挑戦しましたが、特別な気質が欠けていました。私も挑戦していますし、その気質がありますから、自分が何に挑んでいるのか知っています。でも私には技術がないので、価値のあるものを何も読者に伝えられません。ブラックウッドは――彼は真っ只中に飛びこんでいき、たまに失敗するのも恐れませんから――私たちの誰よりも遠くまで到達しています。絶好調の時のブラックウッドが表現したり示唆したりするものは他の誰にも再現できません――これほどまでに比類なき勝利を収めているのですから"The Extra Day"とか"The Garden of Survival"とか"The Wave"といった善意から発してはいるものの痛ましい駄作も大目に見てあげていいでしょう。もしも私が「柳」と『信じがたき冒険』を書けたら、もはや作家としての本分は果たしたと感じ、後顧の憂いなど残らないでしょう。ええ、本当に――君の『ジョン=サイレンス』を送ってくださるのであれば恩に着ます……それから『信じがたき冒険』もありがたいです。でも、もしも君に分別があれば『信じがたき冒険』は手放さないはずですよ。あの一冊だけでもM.R.ジェイムズの生涯の全作品に匹敵するのですから!

 相変わらずブラックウッドを愛称で呼ぶラヴクラフト。それはさておき、この手紙で述べられていることは彼のブラックウッド論として重要だと思う。ここで描き出されているのは、座興や逃避でない本気の挑戦を恐れずに前進していく英雄的なブラックウッド像だ。ダーレスの文学的理念の向かう先にはブラックウッドの実践しているものがあるとラヴクラフトが指摘しているのも興味深い。
 また、皮相的でない怪奇幻想の真髄に迫ろうとするラヴクラフトの腐心も窺える。後年「忌まれた家」を読んだブラックウッドはダーレス宛の手紙で「宇宙的驚異」の欠如を指摘しているが、その辺をどう文章で表現するかはラヴクラフトの悩みの種でもあったのだろう。*2
 ダーレスが『心霊博士ジョン・サイレンスの事件簿』をラヴクラフトに贈ったことは以前の記事で申し上げた。*3一方Incredible Adventuresのほうはラヴクラフトの蔵書目録にないので、ダーレスは彼の忠告に従ったらしい。なお「M.R.ジェイムズの生涯の全作品」とあるが、この時点では彼はまだ生きていた。すなわち将来ジェイムズが何を書こうと絶対にブラックウッドは超えられないという意味だ。英国怪奇文学の三傑といっても、ブラックウッドとジェイムズではそれくらいラヴクラフトの評価に差があったわけだが、こんなところで引き合いに出されてしまうとはジェイムズもいい面の皮だ。