新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

誰にも真似できぬ作家

 ラヴクラフトはエイブラハム=メリットとダンセイニ卿の本をC.L.ムーアに贈ったことがあり、ムーアが1936年1月30日付の手紙でお礼を述べている。

まずは、すばらしい御本をくださったことに尽きせぬ感謝を申し上げます。ダンセイニの本をこんなにたくさん一度にいただけるとは、私の手には余りそうです。その幻想と描写の手法に似せてみたいという衝動は抗いがたいほどですが、どういうわけか紙を無駄にするだけで終わってしまいます。ダンセイニは誰にも真似られませんが、その作品を読んだものは誰でも挑戦してきたのでしょう。メリットの本も素敵ですね。私が『黄金郷の蛇母神』を読んだのは何年も前のことで、ずっと再読しようと探し続けておりました。これまでに読んだメリットの作品で何よりも楽しかったのは「竜鏡の向こうに」だと思います。鏡の描写自体もきわめて力強く、その向こうにある魔法の地での出来事もたいそう巧みで軽やかに処理されているので、このような作品が必要とする甘美なありえなさの雰囲気をよく保っています。思うに、名作たりえているのは簡潔な作品だからでしょう。もしもメリットが話を単行本1冊分に引き延ばし、冒険に次ぐ冒険、山場に次ぐ山場を積み上げていったら、軽妙さも魅力も台なしになっていたはずです。本当にありがとうございました。

 ダーレスがラヴクラフトにアルジャーノン=ブラックウッドを、ラヴクラフトがムーアにダンセイニとメリットを贈っているわけで、各人の好みが垣間見える。ムーアは続けて「S.H.サイムが挿絵を描いている『ウェレランの剣』を先生が入手できますように」と書いているが、結局ラヴクラフトが手に入れることはなかった。なお、この本は現在では公有に帰しており、カリフォルニア大学図書館が提供したスキャンデータがインターネット=アーカイブで公開されている。
archive.org
 『黄金郷の蛇母神』のことはラヴクラフトも1933年2月27日頃のダーレス宛書簡で「決して悪くない作品です」と肯定的に評価している。だが作家としてのメリットのあり方は彼にとって受け入れがたいもので、1937年2月7日付のムーア宛書簡には次のような厳しい意見が見られる。

おわかりかもしれませんが、創作における妥協については私はあなたの御意見にまったく反対です。いったん妥協してしまえば次も妥協するでしょう――そして楽な道を歩むことにした者は二度と戻ってきません。いつかは戻るつもりだと、みんな言うんです――でも戻ってくることはありません。ベルナップは行ってしまいました。もしもスルタン=マリク*1がいかさまから抜け出すことがあれば、ひとえに並外れて鋭利で客観的な知性の比類なき勝利でしょう。エイブ=メリットは――マッケンにもブラックウッドにもダンセイニにもデ=ラ=メアにもM.R.ジェイムズにも(彼らは絶対に黄金の子牛に平伏したりはしませんでしたよ! ……そこまで恥ずかしいことをしなくても衣食住に不自由しないのであれば、誰がするものですか?)なれたでしょうに――あまりにも堕ちてしまったものですから、そのことを理解する能力すら失われている有様です。そんなのばかり――そんなのばかりです。

 ブラックウッドは玉石混淆だとか、ダンセイニは作風が変わってしまったとか不満も多いラヴクラフトだが、彼らとメリットには厳然たる違いがあると考えていた。そうしなければお金が稼げないのでは仕方がないという諦めがにじんでいるのが切ないし、フランク=ベルナップ=ロングまで否定されているのが悲しい。これがラヴクラフトからムーアへの最後の手紙になった。
 余談だが、ダーレスもメリットの作品には興味を示し、アーカムハウスから彼の短編集を刊行することを検討していた。だが数が少ないのが悩みの種で、収録すべき作品として思いつくのが「秘境の地底人」と「樹精の復讐」だけだと1943年4月27日付のクラーク=アシュトン=スミス宛書簡で述べている。「竜鏡の向こうに」と「中世フランス語の幻」もいいのではないかとスミスは提案したが、その4カ月後にメリットは急死し、計画が実現することはなかった。

魔女を焼き殺せ! (ナイトランド叢書2-6)

魔女を焼き殺せ! (ナイトランド叢書2-6)

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  • 発売日: 2017/08/09
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*1:ホフマン=プライスのこと。

カソネットの最後の歌

 ロバート=E=ハワードに"Casonetto's Last Song"という短編がある。1973年まで日の目を見なかった作品で、現在はThe Horror Stories of Robert E. Howardで読めるものの邦訳はない。

 スティーヴン=ゴードンのもとに郵便物が届き、その差出人はジョヴァンニ=カソネットだった。用心したほうがいいと友人のコスティガンが忠告する。カソネットは世界的なオペラ歌手だったが、実は暗黒教団の指導者という裏の顔があり、大勢の人間を生贄に捧げていた。彼の正体を暴いて処刑台に送ったのはゴードンだったのだ。
「爆弾か何かじゃないかとは僕も思ったがね」とゴードンはいった。「こんな薄っぺらい封筒では、そんなものは入らないだろう。開封するよ」
 コスティガンとゴードンといえば「スカルフェイス」の主人公とその相棒だが、そちらに登場するのはジョン=ゴードンなので別人だろう。似たような名前をハワードが使い回すのは珍しいことではない。ただし彼が「スカルフェイス」の続編を書こうとしていたことは事実だ。*1
 ゴードンが封筒を開けると、中から出てきたのはレコードだった。「我が友人スティーヴン=ゴードンへ、独りで聴くこと」と書状が添えてある。すでに刑死して、この世にいないカソネットからの贈物だった。どうしても聴くつもりなら、せめて自分が隣にいることにするとコスティガンは言い張り、ゴードンは承知した。レコードを再生すると、かつて世界を陶酔させたカソネットの声が聞こえてきた。
「スティーヴン=ゴードン!」
 己の犯罪行為をゴードンに知られ、逮捕されて死刑になることを覚悟したカソネットは、警官隊が到着するまでのわずかな時間にその声を録音したのだそうだ。もっと他にすべきことがあったのではないかとも思うが、逃亡を試みるには有名すぎるし、証拠を隠滅しようにもゴードンが有能すぎて無理だったのだろう。そうやって制作したレコードをカソネットは信頼する部下に託し、自分が処刑された後でゴードンに送るようにと遺言したのだった。
「我が友よ、サタンの大祭司が最後に歌うにはふさわしい舞台だ! いま私がいるのは黒き教会、おまえが我が秘密の洞窟に乱入してきて私を驚かし、無能なる教団員どもがおまえを取り逃がしてしまった例の場所だよ」
 ヨグ=ソトースやナイアーラトテップの名前が出てくることもなく、カソネットが崇めているのはサタンなのでクトゥルー神話色は薄い。カソネットは歌いはじめ、ゴードンの眼前に暗黒教会の光景が甦る。回転するレコードからは、凝縮された煉獄の精髄がカソネットの美声に乗ってゴードンのほうへ流れ出すかのようだった。
 ゴードンは冷汗をかきながら立ち尽くしていた。自分が生贄の祭壇に横たわり、いまにも短剣が振り下ろされるのではないかという気がするが、聴くのを止められない。魂を地獄に引きずりこむような美声に苦悶するゴードンだったが、気力を振り絞って叫んだ。そのときコスティガンが鋼の拳でレコードを粉砕し、あの恐るべき黄金の声を永遠に葬り去ったのだった。
 ゴードンの精神に後遺症が出ないか心配になるが、ひとまず親友のおかげで救われたところで物語は終わっている。悪魔の歌声に打ち勝つのも筋肉というあたりがハワードらしい。なお市販されていたカソネットのレコードは彼自身の希望ですべて回収され、破壊されたということになっているのだが、こっそり手許に留めておいた愛好家も結構いそうだ。ならば彼の歌が現代に甦る可能性もあるのではないか。

スカーフェイスとラヴクラフト

 『暗黒街の顔役』という映画がある。アル=カポネの生き様から着想を得たギャング映画だが、原作者のアーミティッジ=トレイルはフランク=ベルナップ=ロングの知り合いで、ラヴクラフトともわずかながら縁があった。

 『暗黒街の顔役』の映画化が決まってハワード=ヒューズが原作の権利をトレイルから買い取り、2万5000ドルもの大金を得たトレイルはロングのところに押しかけた。彼は午前4時まで居座って自慢し続け、美と文学のために執筆するなど愚かで虚しいと主張したという。ロングから話を聞いてトレイルの俗物ぶりに呆れたラヴクラフトは"Lines upon the Magnates of the Pulp"と題する詩を作り、ジェイムズ=F=モートンとモーリス=W=モオに送った。鬱憤を晴らすために書いたような詩であまりおもしろくないが、一部を訳出してみよう。

かつて我らが同胞たる文人たちは戦った
身は餓えても思考を富ませ
富に平伏さず 奢侈に惑わず
彼らに頭脳あり 奴隷の褒美を拒み
貧しく慎ましくとも誇り高く 気品ある筆を執る
(中略)
見よ! 見よ! かつて正直なる夢見人が挑んだところ
美と誇りの斜面を登り 地べたを離れて
転げ回る豚どもが餌を食む泥沼の上高く
天空の蜂蜜酒を得ようとしたところ
新参者の群は真逆の道へと突き進み
自由人も貪欲なユダヤ人の手に落ちる

 拝金主義の作家を揶揄しているのだが、悪い意味でラヴクラフトらしい。こんな詩を書いてモートンに怒られなかったのだろうか。ちなみに、この詩をモートン宛書簡集で読みながら構文がどうしても理解できない箇所があって悩んだのだが、モオ宛書簡集のほうで確認したところ単なる誤植だった。勘弁してほしい。
 ラヴクラフトは1929年11月8日付のダーレス宛書簡でもトレイルの話をしている。ラヴクラフトの手紙によるとトレイルはヴィンセント=スターレットの知人と称していたそうで、そのため1927年にスターレットラヴクラフトを引き合わせたのはトレイルだったのではないかという仮説をヨシ&シュルツがモオ宛書簡集の前書きで披露しているのだが、これはいささか根拠薄弱に感じられる。
 ラヴクラフトはよほどトレイルのことが印象に残っていたらしく、1930年1月になってから話題を蒸し返しているが、実は彼のフルネームを知らなかった。さすがにダーレスは情報が豊富で「そいつはアーミティッジ=トレイルじゃないですか?」と訊ねている。確認しておきましょうとラヴクラフトは返信したが、ダーレスとの文通でトレイルの名前が出ることは二度となかった。
 トレイルは本名をモーリス=クーンズといって、1902年生まれ。Encyclopedia of Pulp Fiction Writersによると、人気作家になってハリウッドに移り住んだ後は酒に溺れ、1930年10月に心臓発作を起こして急死したそうだ。まだ28歳だった。体重が300ポンド(約136キログラム)を超えていたそうで、ラヴクラフトからも繰り返し「デブ」と呼ばれている。筆名でパルプ小説をたくさん書いていたはずなのだが、今日ではまったく知られていない。発掘しようとする人もいないのだろう。

Encyclopedia of Pulp Fiction Writers (Literary Movements)

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  • 発売日: 2002/11/01
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 1933年7月30日付のヴァーノン=シェイ宛書簡にもトレイルのことが書いてあるが、そこでは「自慢屋のデブです――すごい俗物ですが、きわめて利口で、暗黒街の事情に通じています」と微妙に好意的な表現になっている。なおラヴクラフトは現在形で記述しているので、もしかしたらトレイルがすでに亡くなっていることを知らなかったのかもしれない。

バラモンの知恵

 "The Brahmin's Wisdom"という掌編がある。クラーク=アシュトン=スミスの作品としてCrypt of Cthulhuの27号(1984年万聖節号)に掲載されたが、真の作者が誰だったかは後述する。
www.eldritchdark.com
 題名から察しがつくように、インドとおぼしき国の話だ。その密林からは恐るべき絶叫が絶えず聞こえ、僧院の人々を悩ませていた。密林の直中では魔神マドゥの巨大な石仮面が半ば沼地に埋もれており、その泣き声に違いないと人々は言い交わす。王様は恐怖のあまり一族郎党を引き連れて北に逃亡する有様だった。ちなみにマドゥというサンスクリット語の単語は実在するが、本当は「蜂蜜」という意味だそうだ。
 1年に1度、幼童クリシュナのお祭りに参加するために旅をする高僧たちが通りかかるから、そのときに知恵を乞うことにしようと僧院の隠士たちは決めた。祭りの前日、4人の高僧がやってきたので彼らは経緯を話した。4人のうち最年長で、その年齢や名前を誰も知らないほど年老いたバラモンが答えた。
「マドゥであるものか? 悲鳴を上げているのは無知な罪人である」
 その者を鎮めてほしいと懇願されたバラモンは独りで密林の中に入っていった。密林にはマドゥの石像があったが、石仮面は無言で泣くばかりで、涙と見えたものも凝縮した水の滴りに過ぎなかった。
 バラモンが空地に辿りつくと、そこには悔悟する罪人が裸で立っていた。一面に棘が植わった重たい鉄球を右手でしっかりと握りしめ、ひっきりなしに絶叫している。するとバラモンはその場で瞑想し、彼の心臓ですら動きを止めたかと思えるほどだった。
 季節が巡って沼地の草の葉が枯れたが、バラモンはまだ瞑想に耽っていた。齢千歳を数えるサンショウウオが沼から這い出てきて自分の妻と友人のハサミムシに「あの老賢者なら知っている。彼の出生証明書を地底の洞窟で見たことがあるんだ」などと囁きかけ、その後で二匹とも食べてしまった。
 秋から冬になり、バラモンはようやく瞑想を止めた。悔悟する罪人のほうを向いて彼は話しかけた。
「その鉄球を捨てるのです!」
 悔悟者が手放した鉄球は地面を転がり、たちまち苦痛から解放された彼は山羊のように跳びはねながら立ち去ったのだった。
 スミスの遺した文書の中に埋もれていた作品だそうだが、いまいち彼らしくないということはロン=ヒルガーらが指摘していた。ワンドレイかプライスの作品ではないかという説もあったが、実はグスタフ=マイリンクの"Die Weisheit des Brahmanen"を英語に翻訳したものであったと判明している。ちなみに原文は公有に帰しており、Zeno.orgで無償公開されている。
www.zeno.org
 マイリンクはオーストリアの人で、代表作の『ゴーレム』などが邦訳されている。だが、彼の作品の英訳がなぜスミスのところにあったのかは不明だ。スミスはフランス語に堪能で翻訳を手がけることもあったが、ドイツ語もできたという話は寡聞にして知らない。*1
 ラヴクラフト・ダーレス・スミスの書簡集を見るとマイリンクのことは何度か話題になっているが、"The Brahmin's Wisdom"への言及は一切なかった。誰が何のために翻訳してスミスに送ったのかを知る手かがりも見当たらず、いささか謎めいた話だ。

ペルトンヴィルの恐怖

 昨日に続いてリチャード=A=ルポフの作品を紹介したい。2004年に発表された"The Peltonville Horror"という短編だ。クトゥルー神話色が濃厚な話で、現在ではThe Doom That Came to Dunwichに再録されている。

 大恐慌の時代、ポールとデリアはドライブを楽しんでいた。二人は若く愛し合っているのだが、空前絶後の不況の最中とあっては結婚もままならない。道は霧深く、あられ混じりの雨が降ってきた。宵闇の中に赤く輝く点がいくつも見えたとデリアはポールにいった。
 道路沿いに酒場を見つけた二人は食事をすることにした。クリストポロスという名のバーデンターが彼らに話しかけ、嵐で橋が決壊してしまったと教えてくれる。引き返せない以上、先に進むしかない。ペルトンヴィルまで行けば宿屋もあるだろうとポールは考えた。
 ペルトンヴィルを通るなら用心したほうがいいとクリストポロスは忠告する。ペルトンヴィルにはユダヤ教徒が大勢いたのだが、あるときラビを追放してシナゴーグを乗っ取った者がいた。そのときを境に、まともな信徒は町から逃げ出してしまったという。それでも他に手立てがないので、ポールとデリアはペルトンヴィルに向かった。
「部屋を二つ取れるといいんだが」というポール。将来を誓い合った仲なのに、結婚するまでは寝室も別々だ。この辺が時代を感じさせる。
 果たせるかな、ペルトンヴィルの町は寂れ果てていた。宿屋は見つかったものの、営業している気配がない。灯りがついている建物がひとつだけあったので、ポールとデリアは休ませてもらおうと立ち入った。そこは礼拝堂らしく、人々が集まっている。床には六芒星があり、その中央に描かれているのは触手に覆われた魔神の頭部だった。どう見てもクトゥルーだ。
 ポールとデリアは邪教徒に捕まってしまった。祭司は手の代わりに鉤爪があり、その周りでは触手がのたくっている。赤く輝く星が上空に現れた。デリアが見たのと同じものだろうが、それは星などではなく巨大な魔物の眼だった。
 祭司はポールとデリアを魔物に捧げようとするが、そのときクリストポロスが礼拝堂の中に踏みこんできた。彼は酒場にいたときよりも大きく、神々しく見えた。追放されたラビというのは彼のことだったのだ。邪教徒は算を乱して逃げ惑い、後には人外の祭司だけが残った。
 祭司はポールとデリアを放し、クリストポロスと戦いはじめた。取っ組み合う二人を魔物の触手が絡めとり、さらっていく。ポールはクリストポロスを助けようと彼の脚をつかんだが、酸性の粘液が滴り落ちて手を焼いた。ひるんだ隙に手が離れてしまい、魔物は祭司とクリストポロスを連れて姿を消す。自分に抗うものも、崇めるものも等しく貪り尽くすというのは実にクトゥルー神話の神様らしい。
 ポールとデリアは礼拝堂から脱出した。その直後、稲妻が礼拝堂を直撃した。ガスに引火したらしく、建物は炎に包まれる。二人は自動車に乗り、次の町を目指すことにした。今度こそ安全な宿屋が見つかるに違いない。
「そこに泊まることにしよう」とポールはいった。「部屋がひとつしかなくても」
「私たちに必要な部屋はひとつだけよね」とデリアはいうのだった。
 恋人たちが絆を再確認したところで終わっているが、単純なハッピーエンドではなく、やや苦みを感じさせる余韻がある。なお、自分がこの作品を書いたのはジム=ハーモンの依頼によるものだったとルポフは後書きで明かしている。 ハーモンの作品では「シカゴのあった場所」*1が邦訳されているが、彼はまたラジオドラマにたいそう造詣の深い人でもあった。この"The Peltonville Horror"も往年のラジオドラマを彷彿とさせることを意図して書かれたというが、なるほど朗読すれば非常に雰囲気が出そうだ。

幻夢郷ものがたり

 リチャード=A=ルポフに"Villaggio Sogno"という短編がある。2004年にマイク=アシュリーが編んだThe Mammoth Book of Sorceror's Talesが初出の作品で、題名はイタリア語で「夢の村」を意味する。
 主役はマルゲリータと、その親友のフランチェスカ。二人とも12歳、自分たちだけでヴィラジオ=ソーニョの町に出かけていいという許しを親からもらったので浮き浮きしている。馬車に乗ってヴィラジオ=ソーニョに着いた少女たちは日本料理店で食事をし、街角の物売りから銀のピンバッジを買って互いに贈り合った。マルゲリータフランチェスカのために買ったのはピッコロ、フランチェスカマルゲリータのために買ったのは本の形をしたピンバッジだ。はしゃいで抱き合う少女たち。
 マルゲリータがヴィラジオ=ソーニョに来たのは、お父さんの誕生日の贈物を買うためだった。マルゲリータのお父さんは本と音楽を愛する寡黙な大男。マルゲリータもお父さんの影響を受け、フルートを吹くのが上手だ。マルゲリータのお父さんがもっとも好んで読むのはジャコポ=ムルシーノの作品だった。それは宇宙の誕生から終末までを描いた壮大な叙事詩で、全16巻ということになっているのだが、最後の巻だけは現存していない。
 新しい本より古本のほうがお父さんへの贈物には向いているとお母さんが助言してくれたので、マルゲリータフランチェスカと連れ立って古書店に入った。店の主人はエットーレ=マリピエロという男で、商売する気があるのかないのか、新しい本を買いに行けばいいではないかなどとマルゲリータにいう。古本がいいのだと少女たちは言い張った。
 マリピエロは二人を五角形の部屋に案内した。天井は見えないほど高く、本棚になった壁は書物で埋め尽くされている。マリピエロがマルゲリータフランチェスカに奇妙な粉を吹きつけると、周囲の景色が揺らいだ。少女たちがいるのはもう古書店の一室ではなく、一面が灰色に覆われた死の世界だ。正体を現したマリピエロはトカゲに似ていた。
 二人の子供が横たわっていた。やはりトカゲのような姿をしているが、女の子だとわかる。マリピエロの娘たちなのだろう。彼は娘たちを死の世界から救い出し、マルゲリータフランチェスカを身代わりにするつもりなのだ。妖かしのものは幻を見せて人を惑わすことがあるけれども、そんなときには幻を打ち払う音楽があると学校の先生が教えてくれたことをマルゲリータは思い出した。その曲の旋律はよく覚えているが、声が出ない。ああ、自分のフルートさえあれば――とマルゲリータは思った。
 マルゲリータは無我夢中で手を伸ばし、フランチェスカの服につけてやったピンバッジをとった。ピッコロの形をしているが、所詮はおもちゃだ。だがマルゲリータが口に当てて吹くと音が出て、たちまち異界の景色は消えた。マルゲリータフランチェスカがいるのは古書店ですらなく、仕立屋だった。競合店が送りこんできたスパイだろうと店の主人に疑われた少女たちは這々の体で逃げ出す。
「マリピエロさんのこと、気の毒だと思う」とマルゲリータは呟いた。
「あの人、娘さんを助けたかっただけなのよ」とフランチェスカもいった。
「私たちを身代わりにしてね」
「うん」
「でも、あの子たちが私たちの身代わりになったんだ」
 怪しげな男が現れ、ラグノ=ディストルトーレと名乗る。自分のところに来ればジャコポ=ムルシーノの本もあると彼はいい、フランチェスカは乗り気になるが、マルゲリータは彼女の手を引いて逃げ出した。そもそも本を買おうとしているのはマルゲリータのほうなのだが、マルゲリータの喜ぶ顔が見たいフランチェスカと、フランチェスカを危険にさらしたくないマルゲリータの対比がおもしろい。
 もう夕刻だ。フランチェスカと二人して帰りの馬車に乗ったマルゲリータは昼間の日本料理店から日本に思いを馳せ、いつかは自分も広い世界に出て行くのだろうかと思った。日本を訪れ、そこに住む人々に会えるだろうか……。冒険して疲れたマルゲリータフランチェスカの肩に頭をもたせかけ、まどろみに落ちたのだった。
 非常に美しく夢幻的な物語。ハッピーエンドだが、同時に切なさを感じさせる。舞台になっているのは一応イタリアだが、むしろ「どこにもない町」という印象を受けるし、事実これはルポフ自身の夢が基になった作品だそうだ。
 ルポフは1935年生まれ。クトゥルー界の最長老ともいうべき作家だったが、昨年の10月に85歳で他界した。幻夢境に迎え入れられた彼の日々が楽しくあらんことを願う。

ラヴクラフトのブラックウッド論

 昨日の記事*1で申し上げたように、アルジャーノン=ブラックウッドのStrange Storiesラヴクラフトとダーレスの文通で話題になったことがある。このとき、1930年1月下旬から2月上旬の間にラヴクラフトが書いた手紙では好きな作品として「エジプトの奥底へ」が挙げられ、またブラックウッドの卓越している点が論じられている。

アルジーが何をしようとしているのか私にはわかりますし、とても共感を覚えます――その成果は不完全なものであることを余儀なくされていますが、それでも今までの誰よりも彼は遙かに優れているのだというのが私見です。私なんかでは、どんなにがんばったところで及びもつきませんよ! 何が目的かといえば、捉えどころがなく言いようのない感覚を把握することです。感受性と想像力が豊かな人なら多かれ少なかれ誰でも備えている、乱れた次元や現実や時空の要素の幻影を創造するための感覚です。これは自ずと大仕事になりますし――そんなことに本気で取り組む根性のある人を他には一人も知りません。その過程には君だって強く共感を覚えるでしょう。それはまさしく君が追い求めている理想の一段階なのですから――人工的な様式の下にあるものに辿りつき、玄妙な印象と様々な段階の雰囲気を突き止めたいという今日的な願望です。怪奇なものに対する人間の感覚を伝統的な客観的方法で取り扱う者は――超自然に対する出来合いの概念を踏襲し、作品を統合的かつ説話的に外部から表現するようでは――どんなに芸術的な完成度だったとしても、現実の心理表現に関する限り、遊び半分に事をなそうとする皮相的な創作者に過ぎません。マッケンやビアスですら、この方向にはそこまで遠くへ行っていません。ポオは挑戦しましたが、特別な気質が欠けていました。私も挑戦していますし、その気質がありますから、自分が何に挑んでいるのか知っています。でも私には技術がないので、価値のあるものを何も読者に伝えられません。ブラックウッドは――彼は真っ只中に飛びこんでいき、たまに失敗するのも恐れませんから――私たちの誰よりも遠くまで到達しています。絶好調の時のブラックウッドが表現したり示唆したりするものは他の誰にも再現できません――これほどまでに比類なき勝利を収めているのですから"The Extra Day"とか"The Garden of Survival"とか"The Wave"といった善意から発してはいるものの痛ましい駄作も大目に見てあげていいでしょう。もしも私が「柳」と『信じがたき冒険』を書けたら、もはや作家としての本分は果たしたと感じ、後顧の憂いなど残らないでしょう。ええ、本当に――君の『ジョン=サイレンス』を送ってくださるのであれば恩に着ます……それから『信じがたき冒険』もありがたいです。でも、もしも君に分別があれば『信じがたき冒険』は手放さないはずですよ。あの一冊だけでもM.R.ジェイムズの生涯の全作品に匹敵するのですから!

 相変わらずブラックウッドを愛称で呼ぶラヴクラフト。それはさておき、この手紙で述べられていることは彼のブラックウッド論として重要だと思う。ここで描き出されているのは、座興や逃避でない本気の挑戦を恐れずに前進していく英雄的なブラックウッド像だ。ダーレスの文学的理念の向かう先にはブラックウッドの実践しているものがあるとラヴクラフトが指摘しているのも興味深い。
 また、皮相的でない怪奇幻想の真髄に迫ろうとするラヴクラフトの腐心も窺える。後年「忌まれた家」を読んだブラックウッドはダーレス宛の手紙で「宇宙的驚異」の欠如を指摘しているが、その辺をどう文章で表現するかはラヴクラフトの悩みの種でもあったのだろう。*2
 ダーレスが『心霊博士ジョン・サイレンスの事件簿』をラヴクラフトに贈ったことは以前の記事で申し上げた。*3一方Incredible Adventuresのほうはラヴクラフトの蔵書目録にないので、ダーレスは彼の忠告に従ったらしい。なお「M.R.ジェイムズの生涯の全作品」とあるが、この時点では彼はまだ生きていた。すなわち将来ジェイムズが何を書こうと絶対にブラックウッドは超えられないという意味だ。英国怪奇文学の三傑といっても、ブラックウッドとジェイムズではそれくらいラヴクラフトの評価に差があったわけだが、こんなところで引き合いに出されてしまうとはジェイムズもいい面の皮だ。