新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

海神が来る夜

 アルジャーノン=ブラックウッドにStrange Storiesという短編集がある。この本が1929年にハイネマンから刊行されたとき、興味を覚えたラヴクラフトは1929年12月15日付のダーレス宛書簡で「『柳』と『ウェンディゴ』が収録されているといいんですけどねえ」と希望を語った。その後、ダーレスが彼に内容を知らせたらしい。

  • 木に愛された男
  • The Sea Fit
  • 雪女
  • 約束した再会
  • 岸の彼方へ
  • 客室の先客
  • ホーラスの翼
  • 水で死んだ男
  • Malahide and Forden
  • Alexander Alexander*1
  • もとミリガンといった男
  • まぼろしの我が子
  • The Pikestaffe Case
  • Accessory Before the Fact
  • The Deferred Appointment*2
  • Ancient Lights
  • 小鬼のコレクション
  • ランニング・ウルフ
  • 獣の谷
  • 打ち明け話
  • エジプトの奥底へ
  • 古えの魔術
  • You May Telephone from Here

 目次は上記のとおりで「ウェンディゴ」は収録されていない。「持っておく価値がありそうです。でも収録作については、もっと賢明な選び方があったかもしれませんね」というのがラヴクラフトの見解だった。彼の蔵書目録には見当たらないので、買うのは見合わせたのだろう。
 収録されている未訳作品のうち"The Sea Fit"を紹介させていただく。物語の舞台はイングランド南部のドーセット。復活祭の夜、砂丘に建てられた平屋の家には二人の人物が招かれていた。リース砲兵少佐と、その半兄弟であるマルコム=リース医師だ。家の主人はエリクソン船長といって、彼らは十年来の親友だった。また召使いのシンバッドもいた。エリクソンと数々の航海を共にしてきた忠僕で、合わせて4人ということになる。
 エリクソンはバイキングが現代に甦ってきたような男で、陸で億万長者になるより海で平水夫の仕事をしたいという信念の持ち主だった。財産はほとんどなく、いま住んでいる家も小屋といったほうがよさそうだ。満月だからなのか彼は饒舌で、愛する海のことを延々と喋り続けていた。エリクソンが海の話をすると止まらなくなってしまうのをリース医師は"sea fit"と名づけており、これが作品の題名になっている。fitは発作という意味なのだが、どう訳したらよろしきや。
 古の神々は死んではおらず、真の信徒がひとりでもいれば再び人の世に現れるだろうと熱弁を振るうエリクソン。我が身を神に捧げることは死ではなく神との合一なのだ――何やら不穏な気配が漂ってきた。少佐と医師は船長の熱狂を鎮めようとするが、彼らの努力も功を奏さない。そのとき、ノーデン神父が到着した。エリクソンの甥に当たるイエズス会士で、船長の精神状態を案じたシンバッドが密かに電報を打って呼び寄せたのだ。だが神父は事の重大さに気づいていないようで「最初この家がよく見えなかったんですよ。全体が海霧に包まれて隠れているみたいで」などと口走って逆効果になるのだった。
「軍隊に教会に医者に労働者――」とエリクソンが呟いたのを聞いていたのはリース医師だけだった。「何という立派な成果、何という華々しい捧げ物! 無価値なのは俺だけのようだな――」
 家の中に冷気が満ち、駆けこんできたシンバッドが「来ます、神よ救いたまえ、入ってくるんです……!」というようなことを叫ぶ。砂塵か波飛沫か、はたまた濡れた巨大な海藻が窓ガラスに打ちつけられるような音がした。「彼が来るぞ!」とエリクソンは大音声で宣言し、開け放った窓から夜の砂丘に飛び出していった。
 少佐たちは慌てて後を追った。エリクソンは波打ち際で頭を垂れて腕を広げたが、その次に起きたことを正確に語れるものは誰もいなかった。何かがエリクソンを包んで半ば覆い隠し、海水に濡れて光る砂浜の上を彼は進んでいった――そして姿を消した。ノーデン神父は跪き、エリクソンが神の御許に召されるようにと祈る。
 エリクソンの遺体が発見されることはなかった。少佐たちが家に引き返すと室内は一面が海水で濡れており、家の外にも巨大な波が押し寄せてきたような跡があった。その晩、高潮が観測されたことは事実で、プール港が氾濫したという。そして遙か内陸でも海の音が聞こえ、その音は勝ち誇って歌っているようだった……。
 古の神が信徒を迎えに来る話だが、陸で生きられなかった男が海へ去っていく物語だと捉えることもできるだろう。もし仮にダーレスがこの題材で書いたとしたら、エリクソンの内面描写にもっと文章を費やしたかもしれない。