新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

カソネットの最後の歌

 ロバート=E=ハワードに"Casonetto's Last Song"という短編がある。1973年まで日の目を見なかった作品で、現在はThe Horror Stories of Robert E. Howardで読めるものの邦訳はない。

 スティーヴン=ゴードンのもとに郵便物が届き、その差出人はジョヴァンニ=カソネットだった。用心したほうがいいと友人のコスティガンが忠告する。カソネットは世界的なオペラ歌手だったが、実は暗黒教団の指導者という裏の顔があり、大勢の人間を生贄に捧げていた。彼の正体を暴いて処刑台に送ったのはゴードンだったのだ。
「爆弾か何かじゃないかとは僕も思ったがね」とゴードンはいった。「こんな薄っぺらい封筒では、そんなものは入らないだろう。開封するよ」
 コスティガンとゴードンといえば「スカルフェイス」の主人公とその相棒だが、そちらに登場するのはジョン=ゴードンなので別人だろう。似たような名前をハワードが使い回すのは珍しいことではない。ただし彼が「スカルフェイス」の続編を書こうとしていたことは事実だ。*1
 ゴードンが封筒を開けると、中から出てきたのはレコードだった。「我が友人スティーヴン=ゴードンへ、独りで聴くこと」と書状が添えてある。すでに刑死して、この世にいないカソネットからの贈物だった。どうしても聴くつもりなら、せめて自分が隣にいることにするとコスティガンは言い張り、ゴードンは承知した。レコードを再生すると、かつて世界を陶酔させたカソネットの声が聞こえてきた。
「スティーヴン=ゴードン!」
 己の犯罪行為をゴードンに知られ、逮捕されて死刑になることを覚悟したカソネットは、警官隊が到着するまでのわずかな時間にその声を録音したのだそうだ。もっと他にすべきことがあったのではないかとも思うが、逃亡を試みるには有名すぎるし、証拠を隠滅しようにもゴードンが有能すぎて無理だったのだろう。そうやって制作したレコードをカソネットは信頼する部下に託し、自分が処刑された後でゴードンに送るようにと遺言したのだった。
「我が友よ、サタンの大祭司が最後に歌うにはふさわしい舞台だ! いま私がいるのは黒き教会、おまえが我が秘密の洞窟に乱入してきて私を驚かし、無能なる教団員どもがおまえを取り逃がしてしまった例の場所だよ」
 ヨグ=ソトースやナイアーラトテップの名前が出てくることもなく、カソネットが崇めているのはサタンなのでクトゥルー神話色は薄い。カソネットは歌いはじめ、ゴードンの眼前に暗黒教会の光景が甦る。回転するレコードからは、凝縮された煉獄の精髄がカソネットの美声に乗ってゴードンのほうへ流れ出すかのようだった。
 ゴードンは冷汗をかきながら立ち尽くしていた。自分が生贄の祭壇に横たわり、いまにも短剣が振り下ろされるのではないかという気がするが、聴くのを止められない。魂を地獄に引きずりこむような美声に苦悶するゴードンだったが、気力を振り絞って叫んだ。そのときコスティガンが鋼の拳でレコードを粉砕し、あの恐るべき黄金の声を永遠に葬り去ったのだった。
 ゴードンの精神に後遺症が出ないか心配になるが、ひとまず親友のおかげで救われたところで物語は終わっている。悪魔の歌声に打ち勝つのも筋肉というあたりがハワードらしい。なお市販されていたカソネットのレコードは彼自身の希望ですべて回収され、破壊されたということになっているのだが、こっそり手許に留めておいた愛好家も結構いそうだ。ならば彼の歌が現代に甦る可能性もあるのではないか。