新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

ペルトンヴィルの恐怖

 昨日に続いてリチャード=A=ルポフの作品を紹介したい。2004年に発表された"The Peltonville Horror"という短編だ。クトゥルー神話色が濃厚な話で、現在ではThe Doom That Came to Dunwichに再録されている。

 大恐慌の時代、ポールとデリアはドライブを楽しんでいた。二人は若く愛し合っているのだが、空前絶後の不況の最中とあっては結婚もままならない。道は霧深く、あられ混じりの雨が降ってきた。宵闇の中に赤く輝く点がいくつも見えたとデリアはポールにいった。
 道路沿いに酒場を見つけた二人は食事をすることにした。クリストポロスという名のバーデンターが彼らに話しかけ、嵐で橋が決壊してしまったと教えてくれる。引き返せない以上、先に進むしかない。ペルトンヴィルまで行けば宿屋もあるだろうとポールは考えた。
 ペルトンヴィルを通るなら用心したほうがいいとクリストポロスは忠告する。ペルトンヴィルにはユダヤ教徒が大勢いたのだが、あるときラビを追放してシナゴーグを乗っ取った者がいた。そのときを境に、まともな信徒は町から逃げ出してしまったという。それでも他に手立てがないので、ポールとデリアはペルトンヴィルに向かった。
「部屋を二つ取れるといいんだが」というポール。将来を誓い合った仲なのに、結婚するまでは寝室も別々だ。この辺が時代を感じさせる。
 果たせるかな、ペルトンヴィルの町は寂れ果てていた。宿屋は見つかったものの、営業している気配がない。灯りがついている建物がひとつだけあったので、ポールとデリアは休ませてもらおうと立ち入った。そこは礼拝堂らしく、人々が集まっている。床には六芒星があり、その中央に描かれているのは触手に覆われた魔神の頭部だった。どう見てもクトゥルーだ。
 ポールとデリアは邪教徒に捕まってしまった。祭司は手の代わりに鉤爪があり、その周りでは触手がのたくっている。赤く輝く星が上空に現れた。デリアが見たのと同じものだろうが、それは星などではなく巨大な魔物の眼だった。
 祭司はポールとデリアを魔物に捧げようとするが、そのときクリストポロスが礼拝堂の中に踏みこんできた。彼は酒場にいたときよりも大きく、神々しく見えた。追放されたラビというのは彼のことだったのだ。邪教徒は算を乱して逃げ惑い、後には人外の祭司だけが残った。
 祭司はポールとデリアを放し、クリストポロスと戦いはじめた。取っ組み合う二人を魔物の触手が絡めとり、さらっていく。ポールはクリストポロスを助けようと彼の脚をつかんだが、酸性の粘液が滴り落ちて手を焼いた。ひるんだ隙に手が離れてしまい、魔物は祭司とクリストポロスを連れて姿を消す。自分に抗うものも、崇めるものも等しく貪り尽くすというのは実にクトゥルー神話の神様らしい。
 ポールとデリアは礼拝堂から脱出した。その直後、稲妻が礼拝堂を直撃した。ガスに引火したらしく、建物は炎に包まれる。二人は自動車に乗り、次の町を目指すことにした。今度こそ安全な宿屋が見つかるに違いない。
「そこに泊まることにしよう」とポールはいった。「部屋がひとつしかなくても」
「私たちに必要な部屋はひとつだけよね」とデリアはいうのだった。
 恋人たちが絆を再確認したところで終わっているが、単純なハッピーエンドではなく、やや苦みを感じさせる余韻がある。なお、自分がこの作品を書いたのはジム=ハーモンの依頼によるものだったとルポフは後書きで明かしている。 ハーモンの作品では「シカゴのあった場所」*1が邦訳されているが、彼はまたラジオドラマにたいそう造詣の深い人でもあった。この"The Peltonville Horror"も往年のラジオドラマを彷彿とさせることを意図して書かれたというが、なるほど朗読すれば非常に雰囲気が出そうだ。

幻夢郷ものがたり

 リチャード=A=ルポフに"Villaggio Sogno"という短編がある。2004年にマイク=アシュリーが編んだThe Mammoth Book of Sorceror's Talesが初出の作品で、題名はイタリア語で「夢の村」を意味する。
 主役はマルゲリータと、その親友のフランチェスカ。二人とも12歳、自分たちだけでヴィラジオ=ソーニョの町に出かけていいという許しを親からもらったので浮き浮きしている。馬車に乗ってヴィラジオ=ソーニョに着いた少女たちは日本料理店で食事をし、街角の物売りから銀のピンバッジを買って互いに贈り合った。マルゲリータフランチェスカのために買ったのはピッコロ、フランチェスカマルゲリータのために買ったのは本の形をしたピンバッジだ。はしゃいで抱き合う少女たち。
 マルゲリータがヴィラジオ=ソーニョに来たのは、お父さんの誕生日の贈物を買うためだった。マルゲリータのお父さんは本と音楽を愛する寡黙な大男。マルゲリータもお父さんの影響を受け、フルートを吹くのが上手だ。マルゲリータのお父さんがもっとも好んで読むのはジャコポ=ムルシーノの作品だった。それは宇宙の誕生から終末までを描いた壮大な叙事詩で、全16巻ということになっているのだが、最後の巻だけは現存していない。
 新しい本より古本のほうがお父さんへの贈物には向いているとお母さんが助言してくれたので、マルゲリータフランチェスカと連れ立って古書店に入った。店の主人はエットーレ=マリピエロという男で、商売する気があるのかないのか、新しい本を買いに行けばいいではないかなどとマルゲリータにいう。古本がいいのだと少女たちは言い張った。
 マリピエロは二人を五角形の部屋に案内した。天井は見えないほど高く、本棚になった壁は書物で埋め尽くされている。マリピエロがマルゲリータフランチェスカに奇妙な粉を吹きつけると、周囲の景色が揺らいだ。少女たちがいるのはもう古書店の一室ではなく、一面が灰色に覆われた死の世界だ。正体を現したマリピエロはトカゲに似ていた。
 二人の子供が横たわっていた。やはりトカゲのような姿をしているが、女の子だとわかる。マリピエロの娘たちなのだろう。彼は娘たちを死の世界から救い出し、マルゲリータフランチェスカを身代わりにするつもりなのだ。妖かしのものは幻を見せて人を惑わすことがあるけれども、そんなときには幻を打ち払う音楽があると学校の先生が教えてくれたことをマルゲリータは思い出した。その曲の旋律はよく覚えているが、声が出ない。ああ、自分のフルートさえあれば――とマルゲリータは思った。
 マルゲリータは無我夢中で手を伸ばし、フランチェスカの服につけてやったピンバッジをとった。ピッコロの形をしているが、所詮はおもちゃだ。だがマルゲリータが口に当てて吹くと音が出て、たちまち異界の景色は消えた。マルゲリータフランチェスカがいるのは古書店ですらなく、仕立屋だった。競合店が送りこんできたスパイだろうと店の主人に疑われた少女たちは這々の体で逃げ出す。
「マリピエロさんのこと、気の毒だと思う」とマルゲリータは呟いた。
「あの人、娘さんを助けたかっただけなのよ」とフランチェスカもいった。
「私たちを身代わりにしてね」
「うん」
「でも、あの子たちが私たちの身代わりになったんだ」
 怪しげな男が現れ、ラグノ=ディストルトーレと名乗る。自分のところに来ればジャコポ=ムルシーノの本もあると彼はいい、フランチェスカは乗り気になるが、マルゲリータは彼女の手を引いて逃げ出した。そもそも本を買おうとしているのはマルゲリータのほうなのだが、マルゲリータの喜ぶ顔が見たいフランチェスカと、フランチェスカを危険にさらしたくないマルゲリータの対比がおもしろい。
 もう夕刻だ。フランチェスカと二人して帰りの馬車に乗ったマルゲリータは昼間の日本料理店から日本に思いを馳せ、いつかは自分も広い世界に出て行くのだろうかと思った。日本を訪れ、そこに住む人々に会えるだろうか……。冒険して疲れたマルゲリータフランチェスカの肩に頭をもたせかけ、まどろみに落ちたのだった。
 非常に美しく夢幻的な物語。ハッピーエンドだが、同時に切なさを感じさせる。舞台になっているのは一応イタリアだが、むしろ「どこにもない町」という印象を受けるし、事実これはルポフ自身の夢が基になった作品だそうだ。
 ルポフは1935年生まれ。クトゥルー界の最長老ともいうべき作家だったが、昨年の10月に85歳で他界した。幻夢境に迎え入れられた彼の日々が楽しくあらんことを願う。

ラヴクラフトのブラックウッド論

 昨日の記事*1で申し上げたように、アルジャーノン=ブラックウッドのStrange Storiesラヴクラフトとダーレスの文通で話題になったことがある。このとき、1930年1月下旬から2月上旬の間にラヴクラフトが書いた手紙では好きな作品として「エジプトの奥底へ」が挙げられ、またブラックウッドの卓越している点が論じられている。

アルジーが何をしようとしているのか私にはわかりますし、とても共感を覚えます――その成果は不完全なものであることを余儀なくされていますが、それでも今までの誰よりも彼は遙かに優れているのだというのが私見です。私なんかでは、どんなにがんばったところで及びもつきませんよ! 何が目的かといえば、捉えどころがなく言いようのない感覚を把握することです。感受性と想像力が豊かな人なら多かれ少なかれ誰でも備えている、乱れた次元や現実や時空の要素の幻影を創造するための感覚です。これは自ずと大仕事になりますし――そんなことに本気で取り組む根性のある人を他には一人も知りません。その過程には君だって強く共感を覚えるでしょう。それはまさしく君が追い求めている理想の一段階なのですから――人工的な様式の下にあるものに辿りつき、玄妙な印象と様々な段階の雰囲気を突き止めたいという今日的な願望です。怪奇なものに対する人間の感覚を伝統的な客観的方法で取り扱う者は――超自然に対する出来合いの概念を踏襲し、作品を統合的かつ説話的に外部から表現するようでは――どんなに芸術的な完成度だったとしても、現実の心理表現に関する限り、遊び半分に事をなそうとする皮相的な創作者に過ぎません。マッケンやビアスですら、この方向にはそこまで遠くへ行っていません。ポオは挑戦しましたが、特別な気質が欠けていました。私も挑戦していますし、その気質がありますから、自分が何に挑んでいるのか知っています。でも私には技術がないので、価値のあるものを何も読者に伝えられません。ブラックウッドは――彼は真っ只中に飛びこんでいき、たまに失敗するのも恐れませんから――私たちの誰よりも遠くまで到達しています。絶好調の時のブラックウッドが表現したり示唆したりするものは他の誰にも再現できません――これほどまでに比類なき勝利を収めているのですから"The Extra Day"とか"The Garden of Survival"とか"The Wave"といった善意から発してはいるものの痛ましい駄作も大目に見てあげていいでしょう。もしも私が「柳」と『信じがたき冒険』を書けたら、もはや作家としての本分は果たしたと感じ、後顧の憂いなど残らないでしょう。ええ、本当に――君の『ジョン=サイレンス』を送ってくださるのであれば恩に着ます……それから『信じがたき冒険』もありがたいです。でも、もしも君に分別があれば『信じがたき冒険』は手放さないはずですよ。あの一冊だけでもM.R.ジェイムズの生涯の全作品に匹敵するのですから!

 相変わらずブラックウッドを愛称で呼ぶラヴクラフト。それはさておき、この手紙で述べられていることは彼のブラックウッド論として重要だと思う。ここで描き出されているのは、座興や逃避でない本気の挑戦を恐れずに前進していく英雄的なブラックウッド像だ。ダーレスの文学的理念の向かう先にはブラックウッドの実践しているものがあるとラヴクラフトが指摘しているのも興味深い。
 また、皮相的でない怪奇幻想の真髄に迫ろうとするラヴクラフトの腐心も窺える。後年「忌まれた家」を読んだブラックウッドはダーレス宛の手紙で「宇宙的驚異」の欠如を指摘しているが、その辺をどう文章で表現するかはラヴクラフトの悩みの種でもあったのだろう。*2
 ダーレスが『心霊博士ジョン・サイレンスの事件簿』をラヴクラフトに贈ったことは以前の記事で申し上げた。*3一方Incredible Adventuresのほうはラヴクラフトの蔵書目録にないので、ダーレスは彼の忠告に従ったらしい。なお「M.R.ジェイムズの生涯の全作品」とあるが、この時点では彼はまだ生きていた。すなわち将来ジェイムズが何を書こうと絶対にブラックウッドは超えられないという意味だ。英国怪奇文学の三傑といっても、ブラックウッドとジェイムズではそれくらいラヴクラフトの評価に差があったわけだが、こんなところで引き合いに出されてしまうとはジェイムズもいい面の皮だ。

海神が来る夜

 アルジャーノン=ブラックウッドにStrange Storiesという短編集がある。この本が1929年にハイネマンから刊行されたとき、興味を覚えたラヴクラフトは1929年12月15日付のダーレス宛書簡で「『柳』と『ウェンディゴ』が収録されているといいんですけどねえ」と希望を語った。その後、ダーレスが彼に内容を知らせたらしい。

  • 木に愛された男
  • The Sea Fit
  • 雪女
  • 約束した再会
  • 岸の彼方へ
  • 客室の先客
  • ホーラスの翼
  • 水で死んだ男
  • Malahide and Forden
  • Alexander Alexander*1
  • もとミリガンといった男
  • まぼろしの我が子
  • The Pikestaffe Case
  • Accessory Before the Fact
  • The Deferred Appointment*2
  • Ancient Lights
  • 小鬼のコレクション
  • ランニング・ウルフ
  • 獣の谷
  • 打ち明け話
  • エジプトの奥底へ
  • 古えの魔術
  • You May Telephone from Here

 目次は上記のとおりで「ウェンディゴ」は収録されていない。「持っておく価値がありそうです。でも収録作については、もっと賢明な選び方があったかもしれませんね」というのがラヴクラフトの見解だった。彼の蔵書目録には見当たらないので、買うのは見合わせたのだろう。
 収録されている未訳作品のうち"The Sea Fit"を紹介させていただく。物語の舞台はイングランド南部のドーセット。復活祭の夜、砂丘に建てられた平屋の家には二人の人物が招かれていた。リース砲兵少佐と、その半兄弟であるマルコム=リース医師だ。家の主人はエリクソン船長といって、彼らは十年来の親友だった。また召使いのシンバッドもいた。エリクソンと数々の航海を共にしてきた忠僕で、合わせて4人ということになる。
 エリクソンはバイキングが現代に甦ってきたような男で、陸で億万長者になるより海で平水夫の仕事をしたいという信念の持ち主だった。財産はほとんどなく、いま住んでいる家も小屋といったほうがよさそうだ。満月だからなのか彼は饒舌で、愛する海のことを延々と喋り続けていた。エリクソンが海の話をすると止まらなくなってしまうのをリース医師は"sea fit"と名づけており、これが作品の題名になっている。fitは発作という意味なのだが、どう訳したらよろしきや。
 古の神々は死んではおらず、真の信徒がひとりでもいれば再び人の世に現れるだろうと熱弁を振るうエリクソン。我が身を神に捧げることは死ではなく神との合一なのだ――何やら不穏な気配が漂ってきた。少佐と医師は船長の熱狂を鎮めようとするが、彼らの努力も功を奏さない。そのとき、ノーデン神父が到着した。エリクソンの甥に当たるイエズス会士で、船長の精神状態を案じたシンバッドが密かに電報を打って呼び寄せたのだ。だが神父は事の重大さに気づいていないようで「最初この家がよく見えなかったんですよ。全体が海霧に包まれて隠れているみたいで」などと口走って逆効果になるのだった。
「軍隊に教会に医者に労働者――」とエリクソンが呟いたのを聞いていたのはリース医師だけだった。「何という立派な成果、何という華々しい捧げ物! 無価値なのは俺だけのようだな――」
 家の中に冷気が満ち、駆けこんできたシンバッドが「来ます、神よ救いたまえ、入ってくるんです……!」というようなことを叫ぶ。砂塵か波飛沫か、はたまた濡れた巨大な海藻が窓ガラスに打ちつけられるような音がした。「彼が来るぞ!」とエリクソンは大音声で宣言し、開け放った窓から夜の砂丘に飛び出していった。
 少佐たちは慌てて後を追った。エリクソンは波打ち際で頭を垂れて腕を広げたが、その次に起きたことを正確に語れるものは誰もいなかった。何かがエリクソンを包んで半ば覆い隠し、海水に濡れて光る砂浜の上を彼は進んでいった――そして姿を消した。ノーデン神父は跪き、エリクソンが神の御許に召されるようにと祈る。
 エリクソンの遺体が発見されることはなかった。少佐たちが家に引き返すと室内は一面が海水で濡れており、家の外にも巨大な波が押し寄せてきたような跡があった。その晩、高潮が観測されたことは事実で、プール港が氾濫したという。そして遙か内陸でも海の音が聞こえ、その音は勝ち誇って歌っているようだった……。
 古の神が信徒を迎えに来る話だが、陸で生きられなかった男が海へ去っていく物語だと捉えることもできるだろう。もし仮にダーレスがこの題材で書いたとしたら、エリクソンの内面描写にもっと文章を費やしたかもしれない。

ラヴクラフトが行きたがった外国

 ラヴクラフトが行ったことがある唯一の外国はカナダだ。だいぶ気に入ったらしく、三度もケベックを訪れている。だが寒いのが苦手な彼としてはむしろ南の国に関心があったのではないか――と思っていたら、1930年1月14日付のジェイムズ=F=モートン宛書簡で話題になっていた。

ご旅行の件ですが、もっとも広範かつ洒脱な形で計画が実現しますように。いま私が行きたいのはアレクサンドリアフレデリックスバーグかリッチモンドかウィリアムズバーグですね――知識のある場所を観光したいのです――もっといいのはチャールストンセントオーガスティンかニューオーリンズバミューダかジャマイカです。もしもプロヴィデンスを出て行く元気があれば――あるいは、あの忌々しい蛮族どもが私の目の前で古都を破壊するようなことがあれば――バミューダかジャマイカに住みたいものです。メキシコやキューバや南米には心が惹かれません――望むのは南国の気候に加えて我がアングロサクソンの文明です。バミューダにはジャマイカにもジョージ王朝時代の家屋がありますから。国王陛下万歳!

 モートンが南部に旅行するというので、ラヴクラフトも自分の希望を語っている。原文は南部訛りっぽい綴りになっているのだが、訳文に反映させるのは止めておいた。余談だが、この手紙の出だしは「計り知れざる蛍光の眩き富士山」だ。ボストンかプロヴィデンスの美術館で見かけた富士山の浮世絵でも思い出しながら書いたのではないかと思うのだが、蛍光とは何のことだろうか。
 行くなら英領バミューダかジャマイカがいいというラヴクラフト。その理由が彼らしいが、ここで名前を挙げられた地名のうち国内への旅行はほとんどが後に実現した。たとえば1932年6月6日にはニューオーリンズからダーレスに手紙を出し、ミシシッピ川を臨みながら「この川の向こう岸が君の『木蓮林の家』*1の舞台に違いありませんね」などと感想を述べている。
 当時ニューオーリンズにはホフマン=プライスが住んでいたが、ラヴクラフトは彼の住所を知らなかった。だがラヴクラフトが滞在しているホテルをロバート=E=ハワードがプライスに電報で教えたので、プライスはそこに駆けつけてラヴクラフトと一緒に遊ぶことができたという。二人の語らいは12日の午後9時半から13日の午後11時まで25時間半にも及び、ハワードの粋な計らいにラヴクラフトは1932年6月14日付の手紙で感謝している。なお、このときのプライス側の証言については『定本ラヴクラフト全集』(国書刊行会)3巻所収の「ラヴクラフトと呼ばれた男」を御参照いただきたい。
 18日にニューオーリンズを発ったラヴクラフトはモービルとモントゴメリーを経てリッチモンドに到着した。リッチモンドにはかつてエドガー=アラン=ポオが住んでいたことがあり、ラヴクラフトにとっては一種の聖地巡礼なので興奮気味だ。21日にはメイモント公園の日本庭園でダーレス宛の葉書を書き、庭園の美しさを「見ることがかなわなければ、せめて辿り着こうとして身を滅ぼすべき生ける夢の地」と称えている。
maymont.org
 この風景をラヴクラフトも見たのだろう。また、たまたま南部同盟の退役軍人団体が年次式典を開催していたため、町中で南軍旗が翻っていたという記述もある。南北戦争で実際に従軍した兵士が当時はまだ存命だったのだ。

デュマとダンセイニと

 ラヴクラフトがロマンス小説を受け付けようとしないことに対し、C.L.ムーアは1935年12月7日付の手紙で意見を述べている。

幻想文学に対する先生の愛情や理解と対照的なロマンスへの嫌悪について申し上げたいことがございます。デュマが書いたものを本気にする必要はありませんし、それはダンセイニの作品を真に受ける必要がないのと同じことです。もちろん、何もかも薔薇色の眼鏡で見たがる人は大勢いるでしょうけど、それをいったらラムレイ老だって自分の幻想を愚直に信じているわけです。美形のヒーローとヒロインだけが住む素敵な青春の世界があり、人生は不愉快なものが一切ひっついてこない遊戯のような冒険の時間だと読書の間だけ信じてみることは、時空と自然の法則はシャンブロウやCthulhu(正しく綴れているでしょうか?)の存在を許容できるほど柔軟なのだと読書の間だけ信じるのと同じくらい楽しいことだと私には思えるのです。もちろん、世間に公表する文学作品として通用するためには、作中の出来事は信じがたいほど自然現象の外にあるべきで、反するものであってはならないというのが先生の論点なのでしょう。でもハワードの豪華絢爛なコナン伝説も大部分は純然たるロマンスですし、ああいう作品を楽しんでいては自尊心を保てないなどということがあるでしょうか?

 手紙の中でクトゥルーに言及するたびに「綴りは正しいですか?」と確認するのはムーアが好んだ冗談だったようだ。ラムレイ老というのはラヴクラフトと「アロンソタイパーの日記」を合作したウィリアム=ラムレイのことで、ラヴクラフトと愉快な仲間たちの間ではオカルト好きの人物として有名だった。
 ロマンス小説を茶化した「可愛いアーメンガード」をラヴクラフトは書いている。ロマンスを嫌っているというよりは見下しているといったほうがよさそうだが、だからこそムーアとしては反駁したくなったのだろう。アレクサンドル=デュマとダンセイニ卿を並べて引き合いに出すあたりが彼女らしい。デュマといえば『ダルタニャン物語』だが、ウィアードテイルズ三銃士という称号を後に奉られたと知ったらラヴクラフトはどう思っただろうか。
 自然現象に反するのではなく自然現象の外側にあるべしというのはラヴクラフトの持論をうまく要約している。たとえば「闇に囁くもの」なら、ミ=ゴが出てくる点以外はすべて事実だと読者に思わせたいということだろう。ラヴクラフトが細かい数字や名前にやたらとこだわるのも、そのためだった。*1そのことを踏まえた上で、本を読んでいる時間だけダルタニャンや三銃士の存在を受け入れるのはペガーナの神々を受け入れるのより難しいですか? とムーアは問うているのだが、結局は好みの問題に帰結してしまうので説得は難しかったのではないか。
 ところでロマンスとは別の問題になるが、ラヴクラフトはエロには意外と寛容だった。ウィアードテイルズといえばマーガレット=ブランデージの表紙絵だが、毎回のように裸の美女では雑誌の品位が下がるとウィリス=コノヴァーが主張したことがある。そんなのは些事だというのがラヴクラフトの見解で、1936年9月23日付のコノヴァー宛書簡で理由を説明している。

WT誌の表紙ですが――「些末」だと私が見なしたのは、そもそも完璧からは程遠い雑誌なのだから表紙の問題が加わったくらいで大勢に影響はないというのが理由です。平均すると、読む価値のある作品は1号あたり多くて二つ、しかも一つしかないほうが普通です。年間12号が発行されるうち3号か4号は完全に取り柄がありません。作品の冒頭を飾る「芸術」と来たら、ランキンや(最近は)フィンレイががんばってくれている以外は冗談も同然です……こんな惨状ではブランデージの表紙絵などバケツ一杯の水に一滴が加わるようなもので、誰が気にするでしょうか? いつだって私はパルプ雑誌に最悪しか期待せず、クラーカシュ=トンやムーアやハワードの作品が稀な例外として現れれば感謝する有様です。しかしながら――ブランデージ問題に実際的かつ功利的な側面があることは認めます。厳格な御両親の恐怖とか、潔癖で不慣れな友人たちの訝しげな眼差しといった問題です。

 この手紙が書かれたとき、コノヴァーはまだ15歳だった。ウィアードテイルズはおっぱい丸出しの美女を売り物にするのではなく、もっと硬派な存在であるべしという少年の主張に「まあ親御さんに見られたら困りますもんねえ」と苦笑気味で返事をするラヴクラフト。ちょっと微笑ましい光景だ。

海の呪い

 ロバート=E=ハワードの初期の作品に"Sea Curse"という短編がある。1926年の初秋にウィアードテイルズの編集部に受理され、1928年5月号に掲載された。現在では公有に帰しており、ウィキソースなどで原文が無償公開されている。
en.wikisource.org
 物語の舞台はフェアリングという港町。船乗りのジョン=クルレックとカヌールは町の不良たちから一目置かれる存在だ。魔女だという評判のあるモール=ファレルの姪がジョン=クルレックに弄ばれた挙句、溺死体となって浜辺に打ち上げられるという事件があった。自殺か他殺か、いずれにしてもジョン=クルレックのせいで死んだことは火を見るより明らかだ。少女の遺体を見ても平然としているジョン=クルレックに向かってモール=ファレルは叫んだ。
「呪われよ! 貴様がむごたらしい死に方をし、100万と100万さらに100万年の間、地獄の炎の中でのたうち回るように。そして貴様は」モール=ファレルはカヌールを指さした。「ジョン=クルレックに死をもたらし、ジョン=クルレックが貴様に死をもたらすであろう!」
 ジョン=クルレックとカヌールは航海に出かけていったが、帰ってきたのはカヌールだけだった。クルレックはスマトラの港で船を下りたとカヌールは説明するが、外国どもの漕ぐ幽霊船がそのとき現れ、ジョン=クルレックの死体を運んでくる。死体の背中にはカヌールの短剣が突き刺さっていた。
 幽霊船は跡形もなく消え、カヌールは恐れおののいて罪を認めた。彼がジョン=クルレックを刺し殺し、死体を海に投げこんだのだ。ジョン=クルレックの死体を見下ろして高笑いしながら、モール=ファレルは血を吐いて前のめりに倒れた。そして絶え間なく寄せては返す波の彼方に朝日が昇ったのだった……。
 ダーレスが書いたといわれても通りそうな因果応報のお話だが、魔女の婆さんが姪の仇を呪う場面のすさまじさはハワードならではだ。フェアリングを舞台にした作品をハワードはもう二つ書いているが、どちらも発表されたのは彼の死後だった。ひとつは"Out of the Deep"という短編で、水死者に化けてフェアリングにやってきた魔物の恐怖を描いている。
 船乗りのアダム=ファルコンが海で死に、亡骸がフェアリングの浜辺に打ち上げられた。彼だけがこんなに早く戻ってくるとは奇妙なことだと囁き交わす住民たち。許嫁のマーガレットはアダムの亡骸を抱きしめて口づけするが、途端に悲鳴を上げて後ずさりした。
「アダムじゃない!」と叫ぶマーガレット。彼女は悲しみのあまり錯乱しているのだろうと人々は思ったが、通夜の最中にマーガレットは殺害され、アダムは姿を消す。その晩、フェアリングでは次々と犠牲者が出た。無名の主人公は独り浜辺に赴き、アダムの姿をしたものと戦って勝利を収める。アンデッドに刃物は通用しないだろうと思いきや、死人に化けた海魔だったのでナイフで刺し殺すことができたのだ。息の根を止められた怪物は正体を現し、昇る朝日に照らされながら波に運び去られていくのだった。微妙にクトゥルー神話っぽい話だが、ラヴクラフトとの文通で話題になったことはない。
 もうひとつは"A Legend of Faring Town"という詩で、丘の上に住んでいたメグという老婆のことが綴られている。彼女は昔かわいらしい娘を連れてフェアリングに引っ越してきたのだが、その子はいなくなってしまった。おそらく亡くなったのだろうと人々は考え、メグは船の帆綱を修繕して生計を立てていた。
 ある晩、メグの家から火の手が上がった。彼女は家から出てこず、駆けつけた人々が中に入ると、ベッドに子供の骸骨が寝ていた。メグはその上に屈みこんでおり、人々は彼女を子殺しの罪で縛り首にした。だが、その後で見つかった本にはメグの拙い字で真相が書いてあった。メグの娘は病気で亡くなり、彼女は我が子と離ればなれになりたくないと願うあまり、ずっと遺体と共に暮らしていたのだった……。
 非常に陰鬱な内容で、ハワードの作品としては習作の部類に入るだろうが、読む者を圧倒する力のこもった文章には彼らしさが感じられる。どちらもThe Horror Stories of Robert E. Howardに収録されている。