新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

デュマとダンセイニと

 ラヴクラフトがロマンス小説を受け付けようとしないことに対し、C.L.ムーアは1935年12月7日付の手紙で意見を述べている。

幻想文学に対する先生の愛情や理解と対照的なロマンスへの嫌悪について申し上げたいことがございます。デュマが書いたものを本気にする必要はありませんし、それはダンセイニの作品を真に受ける必要がないのと同じことです。もちろん、何もかも薔薇色の眼鏡で見たがる人は大勢いるでしょうけど、それをいったらラムレイ老だって自分の幻想を愚直に信じているわけです。美形のヒーローとヒロインだけが住む素敵な青春の世界があり、人生は不愉快なものが一切ひっついてこない遊戯のような冒険の時間だと読書の間だけ信じてみることは、時空と自然の法則はシャンブロウやCthulhu(正しく綴れているでしょうか?)の存在を許容できるほど柔軟なのだと読書の間だけ信じるのと同じくらい楽しいことだと私には思えるのです。もちろん、世間に公表する文学作品として通用するためには、作中の出来事は信じがたいほど自然現象の外にあるべきで、反するものであってはならないというのが先生の論点なのでしょう。でもハワードの豪華絢爛なコナン伝説も大部分は純然たるロマンスですし、ああいう作品を楽しんでいては自尊心を保てないなどということがあるでしょうか?

 手紙の中でクトゥルーに言及するたびに「綴りは正しいですか?」と確認するのはムーアが好んだ冗談だったようだ。ラムレイ老というのはラヴクラフトと「アロンソタイパーの日記」を合作したウィリアム=ラムレイのことで、ラヴクラフトと愉快な仲間たちの間ではオカルト好きの人物として有名だった。
 ロマンス小説を茶化した「可愛いアーメンガード」をラヴクラフトは書いている。ロマンスを嫌っているというよりは見下しているといったほうがよさそうだが、だからこそムーアとしては反駁したくなったのだろう。アレクサンドル=デュマとダンセイニ卿を並べて引き合いに出すあたりが彼女らしい。デュマといえば『ダルタニャン物語』だが、ウィアードテイルズ三銃士という称号を後に奉られたと知ったらラヴクラフトはどう思っただろうか。
 自然現象に反するのではなく自然現象の外側にあるべしというのはラヴクラフトの持論をうまく要約している。たとえば「闇に囁くもの」なら、ミ=ゴが出てくる点以外はすべて事実だと読者に思わせたいということだろう。ラヴクラフトが細かい数字や名前にやたらとこだわるのも、そのためだった。*1そのことを踏まえた上で、本を読んでいる時間だけダルタニャンや三銃士の存在を受け入れるのはペガーナの神々を受け入れるのより難しいですか? とムーアは問うているのだが、結局は好みの問題に帰結してしまうので説得は難しかったのではないか。
 ところでロマンスとは別の問題になるが、ラヴクラフトはエロには意外と寛容だった。ウィアードテイルズといえばマーガレット=ブランデージの表紙絵だが、毎回のように裸の美女では雑誌の品位が下がるとウィリス=コノヴァーが主張したことがある。そんなのは些事だというのがラヴクラフトの見解で、1936年9月23日付のコノヴァー宛書簡で理由を説明している。

WT誌の表紙ですが――「些末」だと私が見なしたのは、そもそも完璧からは程遠い雑誌なのだから表紙の問題が加わったくらいで大勢に影響はないというのが理由です。平均すると、読む価値のある作品は1号あたり多くて二つ、しかも一つしかないほうが普通です。年間12号が発行されるうち3号か4号は完全に取り柄がありません。作品の冒頭を飾る「芸術」と来たら、ランキンや(最近は)フィンレイががんばってくれている以外は冗談も同然です……こんな惨状ではブランデージの表紙絵などバケツ一杯の水に一滴が加わるようなもので、誰が気にするでしょうか? いつだって私はパルプ雑誌に最悪しか期待せず、クラーカシュ=トンやムーアやハワードの作品が稀な例外として現れれば感謝する有様です。しかしながら――ブランデージ問題に実際的かつ功利的な側面があることは認めます。厳格な御両親の恐怖とか、潔癖で不慣れな友人たちの訝しげな眼差しといった問題です。

 この手紙が書かれたとき、コノヴァーはまだ15歳だった。ウィアードテイルズはおっぱい丸出しの美女を売り物にするのではなく、もっと硬派な存在であるべしという少年の主張に「まあ親御さんに見られたら困りますもんねえ」と苦笑気味で返事をするラヴクラフト。ちょっと微笑ましい光景だ。