新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

ラヴクラフトが行きたがった外国

 ラヴクラフトが行ったことがある唯一の外国はカナダだ。だいぶ気に入ったらしく、三度もケベックを訪れている。だが寒いのが苦手な彼としてはむしろ南の国に関心があったのではないか――と思っていたら、1930年1月14日付のジェイムズ=F=モートン宛書簡で話題になっていた。

ご旅行の件ですが、もっとも広範かつ洒脱な形で計画が実現しますように。いま私が行きたいのはアレクサンドリアフレデリックスバーグかリッチモンドかウィリアムズバーグですね――知識のある場所を観光したいのです――もっといいのはチャールストンセントオーガスティンかニューオーリンズバミューダかジャマイカです。もしもプロヴィデンスを出て行く元気があれば――あるいは、あの忌々しい蛮族どもが私の目の前で古都を破壊するようなことがあれば――バミューダかジャマイカに住みたいものです。メキシコやキューバや南米には心が惹かれません――望むのは南国の気候に加えて我がアングロサクソンの文明です。バミューダにはジャマイカにもジョージ王朝時代の家屋がありますから。国王陛下万歳!

 モートンが南部に旅行するというので、ラヴクラフトも自分の希望を語っている。原文は南部訛りっぽい綴りになっているのだが、訳文に反映させるのは止めておいた。余談だが、この手紙の出だしは「計り知れざる蛍光の眩き富士山」だ。ボストンかプロヴィデンスの美術館で見かけた富士山の浮世絵でも思い出しながら書いたのではないかと思うのだが、蛍光とは何のことだろうか。
 行くなら英領バミューダかジャマイカがいいというラヴクラフト。その理由が彼らしいが、ここで名前を挙げられた地名のうち国内への旅行はほとんどが後に実現した。たとえば1932年6月6日にはニューオーリンズからダーレスに手紙を出し、ミシシッピ川を臨みながら「この川の向こう岸が君の『木蓮林の家』*1の舞台に違いありませんね」などと感想を述べている。
 当時ニューオーリンズにはホフマン=プライスが住んでいたが、ラヴクラフトは彼の住所を知らなかった。だがラヴクラフトが滞在しているホテルをロバート=E=ハワードがプライスに電報で教えたので、プライスはそこに駆けつけてラヴクラフトと一緒に遊ぶことができたという。二人の語らいは12日の午後9時半から13日の午後11時まで25時間半にも及び、ハワードの粋な計らいにラヴクラフトは1932年6月14日付の手紙で感謝している。なお、このときのプライス側の証言については『定本ラヴクラフト全集』(国書刊行会)3巻所収の「ラヴクラフトと呼ばれた男」を御参照いただきたい。
 18日にニューオーリンズを発ったラヴクラフトはモービルとモントゴメリーを経てリッチモンドに到着した。リッチモンドにはかつてエドガー=アラン=ポオが住んでいたことがあり、ラヴクラフトにとっては一種の聖地巡礼なので興奮気味だ。21日にはメイモント公園の日本庭園でダーレス宛の葉書を書き、庭園の美しさを「見ることがかなわなければ、せめて辿り着こうとして身を滅ぼすべき生ける夢の地」と称えている。
maymont.org
 この風景をラヴクラフトも見たのだろう。また、たまたま南部同盟の退役軍人団体が年次式典を開催していたため、町中で南軍旗が翻っていたという記述もある。南北戦争で実際に従軍した兵士が当時はまだ存命だったのだ。