新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

ラヴクラフト的であるということ

 ダーレスの作品を読んだラヴクラフトが「カトリックの登場人物の名前なのにフィネアスとアブナーは変でしょう。ピーターとかウィリアムにしておいたらいいのではないでしょうか?」と指摘したことがあった。すると「名前のひとつやふたつ、どうでもいいことでしょう」とダーレスから返事があったらしく、ラヴクラフトは1932年11月12日付の手紙で次のように述べている。

こうも長々と私が紙幅を費やしたのは、この一点を修正してほしいからではないのだということはおわかりいただけるでしょう。私が本当にお話ししたいのは、現在の些細な例の裏にある文学的原則のことなのです。

 すなわち、特殊な事情がない限り作家は条理に従い細部を重んじるべきだという主張である。だからといって名前のひとつひとつにまで注文をつけられたのではたまらないとダーレスは思ったかもしれないし、クトゥルーナイアーラトテップの話を書いている人がそれを言うのかと混ぜっ返したくもなる。だが、ラヴクラフトのそのような姿勢が彼の作品世界を形成したのだ。そのことに思いを馳せるとき、ラヴクラフト的という言葉を軽々しく使う気にはなれなくなる。
 とはいうものの、ラヴクラフトが一度も間違えなかったわけではない。オラウス=ウォルミウスが『ネクロノミコン』をラテン語に翻訳したのは1228年のことだとラヴクラフトは「ネクロノミコンの歴史」で述べているが、ウォルミウスは1588年生まれなので13世紀に翻訳できるはずがない。これはラヴクラフトが参考資料を誤読したためであるとS.T.ヨシは指摘している(参照)。