新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

オンライン墓参り

 Find a Graveというウェブサイトがある。
www.findagrave.com
 墓地のデータベースであり、ラヴクラフトと愉快な仲間たちのお墓を見ることができる。オンライン献花も可能だが、検索機能はさほど強力ではないようだ。たとえばダンセイニで検索しても有名な18代目しか出てこない。実は19代目と20代目も登録されているのだが、彼らを見つけるにはプランケットで検索する必要がある。
 墓といったが、より厳密には埋葬場所のデータベースだ。「ラヴクラフト・サークル」の関係者には墓がない人も結構いるが、彼らも登録されている。

クラーク=アシュトン=スミス

 遺体は荼毘に付され、生家の西にある森に散骨された。墓碑はない。スミスが貧乏だったのは有名な話だが、Arkham's Masters of Horrorによると奥さんにはそれなりの財産と定収があり、彼は割と安楽な晩年を送れたそうだ。したがって墓を作る余裕すらなかったということではないだろうと思うのだが……。
www.findagrave.com
 リンク先に掲載されているのは墓ではなく、カリフォルニア州オーバーンのバイセンテニアル公園にある記念碑の写真だ。2003年に建立されたものだという。

フリッツ=ライバー

 アーカムハウスの作家たちの中でもレイ=ブラッドベリと並び、ラヴクラフトとスミスに次ぐほど高い評価をダーレスから得ていた人なのだが、墓はない。Resting Places: The Burial Sites of More Than 14,000 Famous Personsなる本の第3版によるとライバーの遺灰のうち4分の1はサンフランシスコの自宅に、残る4分の3はテキサス州ヒューストンの縁者に送られたそうだ。

 息子のジャスティン=ライバーはヒューストン大学の教授(哲学専攻)だったので、縁者というのは彼のことだろう。
www.findagrave.com
 埋葬は行われたらしいのだが、その場所は「カリフォルニア州の某所」となっている。これでは聖地巡礼もできないが、何か思うところがあったのだろうか。

ロバート=バーロウ

 ラヴクラフトの遺著管理者だった人。将来を嘱望された麒麟児でありながら悲劇的な最期を遂げたことで知られるが、その遺灰は母親と兄に引き渡されたそうだ。
www.findagrave.com
 フロリダの生家の裏手にある湖に散骨されたのだろうと書いてあり、その湖の写真も掲載されている。少年時代のバーロウがラヴクラフトと一緒に遊んだ湖なのだが、この情報は誤りだ。The Search for the Codex Cardonaなどでは彼の遺灰はメキシコのデシエルト=デ=ロス=レオネス国立公園に埋められたことになっており、こちらが正しい。

アルジャーノン=ブラックウッド

 イングランドで亡くなってから数週間後、甥が遺灰をスイスに持っていった。40年の長きにわたって彼が愛し続けたアルプスに散骨されたとマイク=アシュリーのブラックウッド伝にあり、Find a Graveの記述もこれに沿ったものとなっている。
www.findagrave.com
 散骨の場所がザーネンメサー峠だったことは記録に残っているので、欲を言えば写真をつけてほしい。代わりにウィキメディア=コモンズへのリンクを張っておく。
en.wikipedia.org
 これはあまり終の憩いの場という感じがしない。ブラックウッドはまた新たな素晴らしき冒険に旅立っていったとアシュリーも彼の現世での物語を締めくくっている。

「アウトサイダー」余話

 「アウトサイダー」について、ラヴクラフトは1931年6月19日付のヴァーノン=シェイ宛書簡で次のように述べている。

私は無意識のうちにポオを逐一なぞっており、その極致として「アウトサイダー」は代表的なものです。当時は作風を真似るだけでなく、作品の精神まで反映させずにはいられなかったのです。

 所詮は真似事と厳しめだが、ラヴクラフトの自己評価が低いのは毎度のことだ。1921年はラヴクラフト自身が「ダンセイニ模倣期」と呼んだ時期なのだが、ダンセイニではなくエドガー=アラン=ポオに源流があるという点で「アウトサイダー」は異色と見なせるかもしれない。
 ラヴクラフト自身の評価はさておき、彼の友人たちの間では「アウトサイダー」は人気があった。たとえば1930年11月2日付のダーレス宛書簡でスミスは「アウトサイダー」に言及している。

同封してあるのは「アヴェロワーニュの逢引」のカーボンコピーです――君が読みたがっていた吸血鬼の話ですよ。未発表の「サタムプラ=ゼイロスの話」と「死の顕現」も別途お送りしますね。いずれライトが再考してくれない限り、2編とも売り物にはならないだろうと思います。「死の顕現」はいくらかラヴクラフトの「アウトサイダー」を思い出させるかもしれません――でも「アウトサイダー」を読む前に書いた作品なんです。

 影響を受けたわけではないと断りを入れるあたり、それくらい「アウトサイダー」が愛好されていたことが逆説的に窺える。ところで「死の顕現」が書かれたのはラヴクラフトの別の作品がきっかけだった。その作品というのは「ランドルフ=カーターの供述」で、再読して強い感銘を受けたスミスは「死の顕現」の執筆に取りかかって3時間で書き上げたと1930年1月27日付のラヴクラフト宛書簡で報告している。ラヴクラフトは1930年2月2日に返信し、「ランドルフ=カーターの供述」を書いた甲斐があったと喜んだ。
 ドナルド=ワンドレイも「ランドルフ=カーターの供述」に対する「一種の答案」として"The Chuckler"なる短編小説を書いたことがある。*1ただし"The Chuckler"のウォルトンも「死の顕現」のトメロンも墓場に侵入された側であり、いうなれば「ランドルフ=カーターの供述」を逆側から見たような形になっている。その結果として「死の顕現」は「アウトサイダー」に近づいたのだろう。
 また、スミスはアーサー=マッケンの「パンの大神」を読んで「名もなき末裔」の執筆を思い立ったというが、その構想を彼から聞いたラヴクラフトは1931年2月8日付の返信で「ランドルフ=カーターの供述」に言及した。

おぞましい招喚によって魔物が誕生し、その出産に立ち会った医師と母親は二人とも衝撃のあまり死んでしまう――そして見とがめられることなく産屋を脱出した魔物は急速に成長していくという話は私もかつて考えたことがあります。怪物はその地方で夜間の恐怖の源となります――窓を覗きこみ、孤独な旅人を貪り食うのです。ですがマッケンがすでに使用済みだと知ったので断念しました。しかしながら、あなたの構想は斬新です――生まれてきた怪物は、ハリー=ウォーランが古代の墓所の地下で暗闇の中の恐怖から命を落とす寸前に目撃したものの仲間ではないかという気がします。

 "The Chuckler"や「死の顕現」を読むに、それまで「ランドルフ=カーターの供述」はアンデッドの話と見なされていたようなのだが、このスミス宛書簡でラヴクラフトは初めて怪物の正体を食屍鬼の類と断定した。ただし、そういう裏設定が前々から存在していたのか、それとも「名もなき末裔」の構想を聞いたことで急に思いついたのかは定かでない。
 「アウトサイダー」の話をするはずが「ランドルフ=カーターの供述」の話題になってしまったが、この作品からは少なくとも2編の小説が派生していたことになる。「ラヴクラフト・サークル」の面々が互いに刺激を与え合っては作品を生み出していたことの好例だろう。

丘の太鼓

 今から100年前、1921年にラヴクラフトが執筆した小説はかなり数が多いが、そのひとつが「アウトサイダー」だ。ウィアードテイルズの1931年6-7月号に「アウトサイダー」が再掲されたとき、クラーク=アシュトン=スミスは1931年6月6日付のダーレス宛書簡で次のように語っている。

WT誌に君の作品が載るのが楽しみです。「古布巾」の最新号には我らが人気作「アウトサイダー」が再掲されていますし、(少なくとも僕の趣味では)ホワイトヘッドの"Hill Drums"も載っているので、注目に値する内容です。繊細な職人芸の"Hill Drums"は大量の暴力的な「アクション小説」の後では癒やしですよ。

 ちなみに、この号にはスミス自身の「秘境のヴィーナス」も掲載されている。「アウトサイダー」は今さら語ることもないほど有名だろうが、スミスが一緒に言及したヘンリー=S=ホワイトヘッドの作品は1873年のデンマーク西インド諸島を舞台にした短編で、英国総領事のウィリアム=パルグレーブ氏が離任することになった経緯を語ったものだ。今のところ邦訳はない。
 デンマーク西インド諸島の首都はシャーロット=アマリーで、大英帝国総領事館もそこにある。だがパルグレーブはシャーロット=アマリーを気に入っておらず、以前の赴任地であるアルメニアトレビゾンドを引き合いに出しては公然と貶すのが常だった。総領事がそんな態度では現地人の悪感情の原因になるので諫めようとする人も少なくなかったが、パルグレーブは頑なだった。
 総領事の無礼な言動を快く思わなかったのがアフリカ系の住人たちだった。彼らはパルグレーブを揶揄し、トレビゾンドに帰るよう勧める歌を作って広めた。その歌詞の意味をホワイトヘッドは作中で丁寧に解説し、さらには楽譜までつけている。したがって実際に歌うことが可能だ。効果は覿面で、パルグレーブはその歌が頭から離れなくなってしまった。
 ある日、パルグレーブは総督のところへ挨拶に行った。宴会が開かれるので総督府付の楽団が音合わせをしているが、オーボエ奏者が何気なく例の歌を吹き鳴らし、パルグレーブは這々の体で退散した。もはや旋律が聞こえただけでも脳内で自動的に歌詞が補完されてしまうのだ。
 その次の日、早起きしたパルグレーブはペンを手に取って書簡をしたためたが、後から読み返しても自分が書いたという記憶はなかった。パルグレーブはその手紙を捨てるつもりでいたが、いつの間にか見つからなくなってしまった。
 日々は平穏に過ぎていった。パルグレーブはもう歌が気にならず、シャーロット=アマリーに馴染みつつあったが、英本国からの郵便物を運んでくる汽船ハイペリオン号が到着した。そしてパルグレーブが受け取ったのは、自分が出した異動願いが承認されたという外務次官からの書状だった。今さら西インド諸島から立ち去る気にはなれないが、仕方なくトレビゾンドへの引っ越しの支度をするパルグレーブ。御者のクロードがいった。
「閣下は出て行かれるのですね」
「ああ――すぐに発つことになるよ」
 気のない様子でパルグレーブは返事をし、それっきりクロードや他の使用人が彼の異動の話をすることはなかった。ジェノヴァへ行くオランダ船籍の船が3日後に手配できたので、パルグレーブはシャーロット=アマリーに別れを告げることになった。自分が立ち去ることがどうしてクロードにわかったのだろうかと彼は不思議に思うのだった……。
 トレビゾンドに帰れという歌が頭に染みついていたので、無意識のうちに異動願いを出してしまったという話。ようやく西インド諸島での暮らしを受け入れようとしていた矢先に追い出されてしまうのは気の毒な気もするが、身から出た錆ではある。
 短い曲が頭の中で勝手に反復される経験をした人は少なくないだろうと思うのだが、あれは鬱陶しいものだ。軽妙な作品で、癒やしだとスミスがいうのも頷ける。ただ、よく考えると結構おっかない話であるように思われる。

Tales of the Jumbee: And Other Wonders of the West Indies

Tales of the Jumbee: And Other Wonders of the West Indies

アンポイの根

 クラーク=アシュトン=スミスがダーレスに宛てて書いた1931年8月18日付の手紙より。

ガーゴイル像彫刻師」についての御意見はすごくいいですね。ベイツから原稿が返ってくるようなら採用させていただきます。予定どおりに戻されないところを見ると、彼は発行人の反応を見るために保留しているに違いありません。奇妙なことです――僕は何にも増して話の結末を書くのが苦手なようです。不発に終わった作品が今も手許にひとつありまして――「ジム=ノックスと女巨人」というのですが――売り物にしようと思ったら真新しい結末を与えてやる必要がありそうです。

 「ガーゴイル像彫刻師」に関するダーレスの提案は8月14日付の彼の手紙に詳しく書いてあり、現行の結末が彼の案に沿って書き直したものであることがわかる。スミス自身が考えた当初の結末は、ガーゴイルが生きていることに彫刻師が気づくというだけのものだったらしい。
 ベイツというのはアスタウンディング誌の編集長だったハリー=ベイツのこと。彼は結局「ガーゴイル像彫刻師」を没にしたが、新しい結末のほうが良いと意見を述べている。後にウィアードテイルズが受理し、1932年8月号に掲載された。
 「ジム=ノックスと女巨人」は今日"The Root of Ampoi"という題名で知られている短編。サーカスで見世物になっているジム=ノックスという大男が、自分の背が伸びた経緯を巡業先で医者に語るという話だ。まだノックスが人並みの身長だった頃、彼は水夫だった。インドネシアを訪れた彼は、ニューギニアの奥地にあるという不思議な村の話を現地の豪族から聞かされる。その村はたいそう見事な大粒のルビーを産出し、遠来の客に気前よく譲ってくれるというのだが、特筆すべきは男女の体格差だった。男性は普通の背丈なのに、女性は身長が9フィート(2メートル70センチ)もあるそうなのだ。
 ルビーの話に心を動かされたノックスはその村を探す旅に出て、苦難の末に見つけ出した。豪族から聞いたとおり女性は何とも立派な体格をしており、男たちは文字通り小さくなっていた。聞くところによると女性も以前は普通の背丈だったのだが、ある女が不思議な植物の根を食べて体を大きくし、他の女たちも彼女に倣ったのだそうだ。
 女性たちは生まれつき体が大きいわけではなく、その根を食べることによって背が高くなる。しかし彼女たちは根を自分たちだけのものにしておき、男には絶対に在処を明かそうとしなかった。まんまと根を見つけて食べたノックスは大きな体になったが、そのことを知った女性たちは彼を村から追い出してしまった。9フィートもの背丈になって米国に帰ってきた彼は以来ずっとサーカスの大男として暮らしを立てているのだった。
 スミスはこの作品をウィアードテイルズなどに送ったものの受理されず、アーカムサンプラーの1949年春季号が初出となった。実に18年がかりで日の目を見たことになる。アヴェロワーニュやゾティークなどのシリーズに属する作品ではないからか、今のところ邦訳はない。物語の舞台になっているのはカリフォルニア州のオーバーンで、これはスミスの地元でもある。「サーカスがオーバーンにやってきた」で始まる冒頭部がまことにブラッドベリ風なのだが、無論これは話が逆で、実際にはレイ=ブラッドベリがスミスから影響を受けているわけだ。
 余談ながらスミス自身の身長は180センチ、ついでに体重は63キログラムだったという。この数値は天本英世と同じなのだが、そういえば顔もなんとなく似ていないだろうか。

絶対安全キノコ

 ダーレスがラムジー=キャンベルに宛てて書いた1962年5月11日付の書簡より。

1964年に刊行予定のアンソロジーをどうするか計画はあまり固まっていませんが、君の作品は必ず収録を検討させてもらいますよ。ですが第一に君の単行本です。そちらのほうが重要です。雑誌への掲載に挑戦するのは――ひとつには、ラヴクラフト風の作品に興味を示すところが昨今はほとんどありませんが、最終的にはFantasticを当たってみてもいいかもしれません。しかしながら君はまだ細かく書きすぎるきらいがあり、F誌に作品を受理してもらえるようになる前に矯正しておく必要があります。もちろん単行本が出れば編集者への宣伝になりますし、彼らも君の作品をもっと好意的な眼で見てくれるようになるでしょう……ちょうどドン=ワンドレイが到着したところです。10日ほど滞在し、一緒にキノコを採取してくれることになっています。彼はキノコ狩りが一番の趣味でして、ついでに私もそうです(私は水泳やハイキングも好きですけどね)。

 1964年のアンソロジーというのはOver the Edgeのことだろう。この本にはキャンベルの「呪われた石碑」が収録されている。
 毎年5月に仕事を休んでキノコ狩りに行くのはダーレスの習慣で、オーガスト=ダーレス協会の公式サイトにもその写真が掲載されている。ちなみに、そもそもはワンドレイの影響で始めたことだそうだ。
www.augustderleth.org
 リンク先の画像でダーレスが手に持っているのはアミガサタケだが、このキノコを題材にした短編小説を彼は書いている。Ellery Queen's Mystery Magazineの1949年12月号に掲載され、読者から題名を公募するという趣向だったため当初は無題だったが、Dwellers in Darknessに収録されたときは"Fool Proof"と題がついていた。有名な作品とは言いがたい掌編だが、An August Derleth Readerに再録されたものを私も読んだことがある。

An August Derleth Reader (Prairie Classics)

An August Derleth Reader (Prairie Classics)

 物語の主人公はエフレイム=ペック判事。ジョージ=トムソンという男が死亡し、判事はコンシダイン医師とともに現場へ出向く。一見したところジョージの死因は心臓発作だったが、台所にあった食べ残しを調べた判事は、彼がアミガサタケとシャグマアミガサタケを取り違えて食べたらしいと気づく。ともに食用となるキノコだが、後者は猛毒があるのだ。
en.wikipedia.orgen.wikipedia.org
 上がアミガサタケ、下がシャグマアミガサタケだが、普通は見間違えようがないだろう。まさしく"Fool Proof"だ。絶対に安全なキノコなどなく、間違えて毒キノコを食べる危険性は常にあるとコンシダイン医師は指摘するが、少なくともジョージはそこまで迂闊な人物ではなかったはずだというのがペック判事の見立てだった。すなわち、形状の識別が困難なほど潰したシャグマアミガサタケを誰かが料理の中に混入しておいたのだ……。
 ペック判事には実在のモデルがいる。ダーレスの親友だったジェイムズ=ヒル判事という人で、彼は1940年代に退職して弁護士となった後は長らくアーカムハウスの顧問を務めていた。叡智と慈愛に満ちた紳士であったヒル判事の人となりはペック判事に反映されているという。ただし"Fool Proof"におけるペック判事は、物証がないために逮捕できない真犯人を言葉の力だけでじわじわと追い詰めていく姿がとてもおっかない。
 余談だが、この掌編がEQMMに掲載されたときは"About the Sage of Sac Prairie"なる序文がついていた。書いたのはエラリー=クイーンで、彼とダーレスはベイカー街遊撃隊の同志――と私は思いこんでいたのだが、ダーレスが正式に入会したのは1971年になってからだそうだ。1962年に出版された100 Books by August Derlethではダーレスの所属団体としてベイカー街遊撃隊が挙げられているのだが、実は僭称だったということになる。だが誰も問題視せず、それどころか1940年代にエイドリアン=ドイルからの攻撃があったとき、反撃の中心にいたのはダーレスだった。*1ラヴクラフティアンとしてもシャーロキアンとしてもやりたい放題の男、それがダーレスである。

深淵の夢

 今から100年前に書かれた作品として「イラノンの探求」を一昨日の記事で取り上げたが、ラヴクラフトは同じ年に「蕃神」も執筆している。The Fantasy Fanの1933年11月号に「蕃神」が掲載されたとき、ラヴクラフトは1933年11月29日付のクラーク=アシュトン=スミス宛書簡で次のように述べた。

FF誌の最新号はかなり気に入りましたし、あなたの「深淵の夢」が載っているので嬉しいです。私の「蕃神」はダンセイニ模倣期の遺物ですが、思い出して嫌な気分にならずに済む数少ない作品のひとつです。

 「イラノンの探求」よりもちょっとだけ自己評価が高い。「蕃神」は「未知なるカダスを夢に求めて」につながるという意味でクトゥルー神学的に重要な小説だと思うが、それはさておき一緒に掲載された「深淵の夢」はいかなる作品だったのだろうか。
 これは詩で、原題を"A Dream of the Abyss"という。以前にも述べたように*1The Fantasy Fanの1933年11月号はプロジェクト=グーテンベルクで公開されており、"A Dream of the Abyss"も読むことができる。せっかくだから訳してみよう。

深淵の夢
クラーク=アシュトン=スミス

我 最果てに在りと思いたり
我が眼は神秘と夜の直中に在りて
厚く深々と死に包まれたるが如く
はたまた黄泉の淀みの底に沈みたるが如く
灯火も星も 死せる星の幽かな光も見えず
されど我 世界の最果てに在りと思いたり
我は戦々恐々と緩慢に呼吸せり
静謐なる深淵より そは不安と恐怖ばかり
周りは断崖絶壁 奈落へと至る
いずれの方向にも一歩も踏み出せず
さもなくば我は縁より足を踏み外し
果てしなく永遠に墜落するばかり
夜が明ければ巨大なる太陽が我を見送ろう
世界の砦より 虚無を落ち行く我は
太陽の眼差しも届かぬところへと

無限より速やかに 星々の間に住まう
黒く不定にして甚大なる〈恐怖〉が
大いなる冷たき暗黒にて我が心臓を掴みぬ
そのとき深淵より立ち上るは囁き
そして翼を備えたる〈沈黙〉の如きさやめき
我が右手の傍らに
留まりて佇みぬ
いかなる奈落の力か 盲目の黒き大気より生まれ
いかなる無名の魔神か 遙かなる地底の
太陽より逃れ月光より離れて暮らす
そは来たりて我に破滅をもたらすもの
我が聞く間もなく囁きは静まりかえり
より重き暗黒が我に躍りかかると見えたり
そして静寂は跳躍し
我を抱擁した
深淵は一挙に我を捕らえ
崩れゆく峰の頂より我を引きずり去りぬ
未知なる虚空へと
その奈落の領域を落ち行く我は
アザゼルアバドンが我を連れ去るのか
はたまた我独り墜ちるのかも知らず

 題名から察するに、夢の光景を描いた詩だ。世界の果てで足を踏み外したら一巻の終わりだと用心していたのに、結局は深淵に引きずりこまれるように転落してしまった。理不尽だが、悪夢とはそういうものだろう。拙訳ではわかりづらいのだが、原文は一貫して過去形になっており、目を覚ました作者が夢の内容を振り返っているという印象を受ける。
 余談だが、先ほど引用したラヴクラフト書簡の出だしは「凍てつく荒野にて未知なるカダスの頂、耐えがたき光景を見はるかす」となっている。そういえばランドルフ=カーターも「未知なるカダスを夢に求めて」の大詰めでシャンタク鳥の背から飛び降りているが、この時点ではスミスは「カダス」を読んでいないので直接の関係はない。

ラヴクラフトの自称弟子

 アーカムハウスから刊行されたラヴクラフトとゼリア=ビショップの合作集についてボビー=デリーが記事を書いている。
deepcuts.blog
 1937年にラヴクラフトが亡くなり、ダーレスたちが彼の代作や合作を探し回るところから話は始まるのだが、そのとき助言を行ったのがロバート=バーロウだった。バーロウによる1937年3月31日付のダーレス宛書簡をウィスコンシン州立歴史協会が所蔵しているそうだが、その引用がなかなか興味深い。

H.P.は6編ばかり書いており、中には文書で証明できるものもあります。ブロック(僕の名前は出さないでくださいよ――彼とは友好関係を維持したいので)・ヒールド・リード・ラムレイのは完全な代作ですし、ライメルらのは原稿を手直ししてやろうとした結果すっかり書き改めることになりました。これらの作品は――収録に値するものもありますが――彼自身の単行本に入れるべきではありません。自分の作品集には合作は含めないと彼は何度もいっていましたから、こういうものを書いたのを悔やんでいたことは確かです。今のままでも作品はたっぷりありますし。

 わずか18歳のバーロウがダーレスに意見しているというのが結構すごいが、当時はそれくらい情報が不足していたわけだ。バーロウの知識も完全ではなく、ロバート=ブロックのクトゥルー神話作品をラヴクラフトが代筆してやったと勘違いする始末だった。そう指摘されたらブロックが機嫌を損ねるに違いないから自分の名前は出さないでほしいとダーレスに釘を刺しているが、誤解が生じたのは「ブロックが自分で書いたにしては上手すぎる」と思ったからなのだろうか? そうだとすれば"The Madness of Lucian Grey"*1にさんざんダメ出しされて原稿を破棄した4年前から彼が長足の進歩を遂げていたことの証といえるかもしれない。
 そこで本題のビショップだが、バーロウのダーレス宛書簡で「リード」と呼ばれているのが彼女だ。ラヴクラフトとビショップの「合作」としては「イグの呪い」「メデューサの呪い」「墳丘」の3編があるが、この時点で発表されていたのは「イグの呪い」だけだった。
 「メデューサの呪い」はウィアードテイルズの1939年1月号に、「墳丘」は同じく1940年11月号に掲載されたが、いずれもダーレスが手を加えたことが知られている。批判されがちな改変だが、この時期のダーレスはビショップのエージェントとして活動していたのだろうとデリー氏は推測している。まずはビショップの希望通りに作品の掲載まで漕ぎつけなければならず、そのためには長い文章を短く切り詰めることも厭っていられなかったのだろう。
 ラヴクラフトとビショップの「合作」をすべて収録したThe Curse of Yigは1953年に出版されたが、その表紙にはビショップの名前だけが印刷されている。また、この本は"H. P. Lovecraft: A Pupil's View"と題する回想記の初出でもある。Lovecraft Rememberedに再録されたものを読んだことがあるのだが、「ラヴクラフトは私の自信や天与の才を損なっていた」などと恨みがましく述べていたので驚いた。それはさておき、その回想記でビショップが訴えようとしていることは「ある弟子の見解」という題名が端的に言い表している。自分はラヴクラフトに代作を依頼した顧客ではなく、彼の指導のもと自力で作品を書き上げた弟子なのだ――という主張だ。
 ダーレスをラヴクラフトの「自称弟子」と呼ぶ向きがある。ラヴクラフトは俺の師匠だぞとダーレス自身が発言したことはないはずだが、もしもラヴクラフトの自称弟子と見なせる人物がいるとしたらビショップだろう。ただ、今となってはビショップの気持ちもわかるような気がする。