新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

頌春

 新年あけましておめでとうございます。
 丑年に因んだ記事でも書こうかと思ったのだが、クトゥルー神話に出てくる牛を思いつかない。しばらく本棚を漁ったら、ナイアーラトテップの化身として「黒い雄牛」が『マレウス・モンストロルム』に載っていた。1992年にドイツで刊行されたTRPGのシナリオが元ネタらしいが、あいにく私は読んだことがない。

 気を取り直して100年前のラヴクラフトの話をしよう。1921年といえば彼がダンセイニ卿の模倣にいそしんでいた時期で、「イラノンの探求」などの作品を執筆している。しかしながら、この作品に対するラヴクラフト自身の評価は高くなかった。タイプライタで清書したいとドナルドワンドレイが申し出ると、1927年9月11日付の手紙に原稿を同封して送ったものの「嫌になるほど甘ったるくて感傷的な駄作です」と述べている。それでも、せっかくワンドレイが骨を折ってくれたのだからと清書稿をウィアードテイルズに提出したのだが、受理されることはなかった。ライト編集長がひどく侮辱的な態度で没にしたとラヴクラフトは1927年12月17日付の手紙でワンドレイに知らせている。「イラノンの探求」がウィアードテイルズに掲載されたのは1939年になってからで、そのときにはもうラヴクラフトは世を去っていた。
 1934年、ペンシルヴェニア州レディングでThe Galleonなる文芸誌が創刊され、その編集長はラヴクラフトの知人だったロイド=アーサー=エシュバックだった。寄稿を求められたラヴクラフトが送ったのが「イラノンの探求」で、同誌の1935年7-8月号に掲載された。なお同じ号にダーレスの詩も載ったという。ワンドレイの努力が8年越しで報われたことになるが、ラヴクラフトは1935年4月23日付のダーレス宛書簡で次のように述べている。

我らの友人エシュバックは採用の基準を引き下げつつありますよ。あの感傷的な「イラノン」が受理されました。かつて私のために原稿を清書してくれたのは君でしたね――それから「ユゴス星より」の詩も2編*1The Galleonに載せるそうです。

 実際に清書したのはワンドレイなのだが、なぜかラヴクラフトの記憶の中ではダーレスの仕事になっている。ダーレスもやたらとラヴクラフトの原稿を清書したがっていたので、つい混同してしまったのだろうか。この二人が後に力を合わせてアーカムハウスを立ち上げたことを思うと、奇妙な感慨を覚える。
 こうして「イラノンの探求」は日の目を見たが、その肉筆原稿はロバート=バーロウの手に渡っていた。実はドナルド=A=ウォルハイムも欲しがっていたのだが、彼との先約を度忘れしたラヴクラフトがバーロウにあげてしまったのだ。「本当に申し訳ありません」とラヴクラフトは1935年11月13日付のウォルハイム宛書簡で謝り、代わりに「闇の跳梁者」の肉筆原稿を贈ったが、その所在はウォルハイムの没後わからなくなっているそうだ。もっともバーロウも「超時間の影」の肉筆原稿をメキシコに持っていったきり行方不明にしてしまい、1995年にハワイでようやく見つかったという出来事*2があったりするので、その点ではウォルハイムと甲乙つけがたい――というか丙丁つけがたい。
 とりとめがなくなってきたところで今年最初の記事を終えたい。皆様、どうか本年もよろしくお願い申し上げます。

*1:「背景」と「港の汽笛」。ただし実際に掲載されたのは前者のみ。

*2:風雲千早城(149): 新・日記代わりの随想

スミスの怪談講評

 The Best Ghost Storiesというアンソロジーを読んだ感想をクラーク=アシュトン=スミスが1932年3月4日付のダーレス宛書簡で述べている。

すべて読み通し、M.R.ジェイムズの「アルベリックの貼雑帖」が収録作の中で一番よかったという印象を受けました。次に優れていたのはE.F.ベンスンの「遠くへ行き過ぎた男」とブルワー=リットンの「幽霊屋敷」そしてビアスの「あん畜生」です。ただし「あん畜生」はいつだって超自然というよりは科学小説であるように感じられますね。「幽霊屋敷」には説得力があり、実は催眠術だったという最後の種明かしでもほとんど損なわれていません。どういうわけか、ブラックウッドの「幽霊の館」にはあまり興が乗りませんでした。心霊主義的な色合いと道徳主義的な含意のせいではないかと思います。たぶん、超自然的なものを心霊主義的もしくは疑似科学的に取り扱った作品全般が僕はあまり好きではないのでしょう。M.R.ジェイムズの扱い方が僕には理想的に見えます。「ハルピン=フレイザーの死」のような作品におけるビアスもたいへん納得がいくものです。もしも僕がアンソロジーを編纂することがあれば、真っ先に収録したいのは「赤死病の仮面」と「壁の中の鼠」ですね。

 The Best Ghost Storiesはプロジェクト=グーテンベルクで公開されている。もっともスミスが言及しているのは邦訳のある作品ばかりだし、今さら原書で読む必要性は稀薄だろう。
www.gutenberg.org
 「幽霊の館」になじめなかった理由が興味深い。ラヴクラフトとブラックウッドは思想的には水と油だとS.T.ヨシはそのラヴクラフト伝で指摘しており、霊的世界の探求者ブラックウッドと物質主義者のラヴクラフトでは確かにそうだろうと思うのだが、スミスも同じところが引っかかったというのは意外だった。もっともスミスの場合は心霊主義そのものを拒絶しているわけではなく、文芸作品に持ちこまれるのが彼の美意識に反していたようだ。1932年3月25日付のダーレス宛書簡でスミスは近ごろ読んだ本としてブラックウッドのTongues of Fire*1The Garden of Survival*2を挙げ、どちらもたいへん好きだと述べつつ「幽霊の館」を再び批判した。そして「僕は職業的オカルティズム――とりわけ教訓的な側面のものを強く嫌っているので偏見があるのです」と説明しているのだが、スミスはラヴクラフトと違ってガチガチの唯物論者というわけではなく、1937年4月13日付のダーレス宛書簡では次のように持論を披露している。

純粋な精神の世界がいくつか、もしくはたくさん存在するというのが僕の持論です(科学者には気に入ってもらえませんけど!)。個々の肉体を構成する原子が一般的な元素へと分解されるように、個々の精神は死に臨んで共通の源へと還っていきます。ですから、いかなる想念も宇宙から失われることはありません。生者の精神は感受性の程度と種類に応じて、その源と無意識のうちに接触できるのかもしれません。脳が物理的に破壊されれば意識も消滅するとHPLなら論じたことでしょう。しかし彼の意見に反論して、エネルギー・物質と脳髄・観念はどう変化しようと完全には消滅しないと主張してもよいのではないでしょうか。至高存在の海は不変であり、ただ個々の実在物という波が永遠に寄せては返すばかりです。生と死に関する真実は僕たちが思っているより単純かつ複雑なのかもしれません。

 永遠の世界がどこかにあるはずだという夢想。ラヴクラフトが世を去った直後の手紙であることを思うと切なさが感じられる。

*1:短編「炎の舌」ではなく、1924年に刊行された作品集Tongues of Fire and Other Sketchesへの言及と思われる。

*2:未訳の長編小説。1918年刊。

ポオとダンセイニとムーア

 ラヴクラフトに宛てた1935年5月27日付の手紙でC.L.ムーアがダンセイニとポオの話をしている。

私が何かを薦めるときはいつだってワーズワース風にたなびく栄光の雲で見る眼が曇っているのだろうということを御了承ください。私が十代の頃は、とてもたくさんのものがほとんど耐えがたいほど美しかったものです。ダンセイニの『エルフランドの王女』を読んだときは純然たる至福で眼が潤みました――暑く静謐な夏の午後に読んだのです。ダンセイニ卿の本そのもののように濃厚な魔法に満ちたひとときだったので、私は物語の中に迷いこんだきり出られなくなってしまうのではないかという気がしました。痛々しいまでに感受性の鋭敏な時期が永遠に続かないというのは悲しいことですね。それとも慈悲深いことなのでしょうか!

 この手紙にある「たなびく栄光の雲」はウィリアム=ワーズワースの「霊魂不滅のうた」からの引用。ムーアは少女時代の美しい記憶を語っているが、一方ラヴクラフトが初めてダンセイニの作品を読んだのは1919年だ。つまりダンセイニに対する彼の傾倒には思い出補正が一切なく、その点ではムーアと対照的といえるだろう。

私は15歳の時に重病を患いました――猩紅熱とはしかと乳様突起炎が一緒にやってきたのです――もっとも多感な年頃に長期間の譫妄と高熱で苦しまなければなりませんでした。至極ありふれた物事もねじくれて感じられたのですが、だから私はポオの作風が好きになれないのかもしれません。恐怖・陰湿・瘴気といった雰囲気を何時間も経験し続けるのがどういうことか私は知っており、天才の言葉であっても思い出したくないのですよ。蔦の葉が窓にぶつかる音や、看護師が絨毯を踏んで歩く音が耐えがたいほど騒々しく聞こえるときもありました。時として太陽の光は見たこともないほど醜く、けばけばしい黄色に映りました。そして緑の草の葉はまるで毒物のようでした。だから狂うというのがどういうことか私にはわかります。あらゆるものが混乱して怖ろしく、何もかもひどく間違っていると気づくばかりで何もできないときのことを知っているのです。そんなわけで私がポオを好きになれないといっても、ひとえに個人的なことでしかありません。思うに、ポオが雰囲気を作り出す天才でありすぎることが問題なのでしょう。彼が天才であるからこそ私は彼が嫌いなのです(ほら! 天才が不滅であることの証拠です。このお喋りの間中ずっと私はポオのことを現在形で語っているのですから)。

 ダンセイニに対する愛着と、ポオに対する反感がきれいな対称形になっている。ムーアに対するダンセイニの影響については識者の御意見を待ちたいが、それにしても現実を異様に歪める文学的効果を受け付けないようではラヴクラフトの小説を読むことができたのだろうかと心配になる。1935年11月12日付のラヴクラフト宛書簡を見てみよう。

先生の作品は本当にすばらしいものばかりで、どれがもっとも楽しかったか決めるのは難しいです。「霧の高みの不思議な家」はもちろんダンセイニを思い出させますが、もっと満足させてくれるものです。ダンセイニは常に満足がいくまで彼の幻想を展開してくれるとは限らないからです――読者を宙ぶらりんにし、じれったい思いのまま放置するのです。その点「不思議な家」に住んでいるもののことを過不足なく説明している先生はまさに中庸を得ておられます。この題名には長らく心を惹かれていたのですが、寸毫たりとも失望しなかったと申し上げることができて嬉しいです。

 怪奇幻想小説は説明しすぎれば野暮だし、説明が足りなかったら焦れったい。ダンセイニは後者に傾きがちだが、ラヴクラフトはちょうどいいという評価。

インスマスを覆う影」を読みながら私は興奮のあまり椅子の腕を叩いてばかりおりました。異種婚には私も前々から興味があったのですが、先生はいくつかの作品でたいそう美しく描き出しておられますね。彼らの家庭生活は一体どのようなものなのでしょうか! そして「戸口に現れたもの」のおかげで、以前は理解できていなかったことがはっきりしました。婚約者に私の作品を薦めたら「シャンブロウ」だけ読んでもらえたのですが、その時に彼が私を変な眼で見た理由がいまならわかります。こんなことを考えつけるのはどういう人間なのだろうか? と思われていたのですね。精神交換の話自体は古くからあるので、朽ちていく死骸の中に生者の精神を入れることを誰もまだ思いついていなかったのは奇妙です。疑いようもなく、これまでに私が読んだ中で一番ぞっとさせられる作品であります。

 どうやらムーアはラヴクラフトの作品を普通に楽しんでいたようだ。なお婚約者というのは当然ヘンリー=カットナーではなく別の人なのだが、1936年2月に銃の暴発事故で死亡している。この事件はムーアにかなり影響を及ぼしたらしく、彼女とラヴクラフトの文通は3カ月も中断することになった。

暗黒のファラオの呪い

 本棚の片隅で埃をかぶっていたThe Nyarlathotep Cycleを久々に引っ張り出してみた。1997年にケイオシアムから刊行されたアンソロジーだが、この本にはダンセイニ卿の『ペガーナの神々』から「予言者アルヒレト=ホテップ」と「探索の悲しみ」の2編が収録されている。前者ではアルヒレト=ホテップが、後者ではマイナルティテップが言及されているからだが、正直なところ名前が似ているだけという気がしなくもない。だがアルヒレト=ホテップが畢竟ペテン師であったことはラヴクラフトによるナイアーラトテップの描写に反映されているのではないかとロバート=プライスが指摘しており、そうだとすれば旧神ビームで吹っ飛ばされるラムレイ作品のナイアーラトテップは一周回って原点に近いのかもしれない。

The Nyarlathotep Cycle

The Nyarlathotep Cycle

 The Nyarlathotep Cycleにはリン=カーターの"Curse of the Black Pharaoh"が収録されている。カーターはこの作品を長編とするつもりだったそうだが、実際には中編程度の長さしかない。1952年から53年にかけて書かれたというが、当時カーターは朝鮮戦争で出征していたはずだ。もしや戦場で執筆していたのだろうか。
 物語の舞台は英国。エジプトでピラミッドの発掘調査を行った探検隊のメンバーが次々と怪死し、ミイラの呪いではないかと巷では噂されていた。5人目のキャリントン教授が惨殺され、調査に同行していたシェンストーン伯爵から事情を聴取するためにスコットランドヤードの警官が派遣された。この警官の名はジェイムズ=ブラント、階級は警部補(inspector)なのだが、直属の上司がイートン警視長だというのが引っかかる。警部補と警視長では4階級も違うのだが、もしかしてカーターはinspectorという階級を米国式に警視正の意味で使っているのではないだろうか。スコットランドヤードには存在しないはずのlieutenant*1が登場するあたりも怪しい。
 ブラントが面会するとシェンストーン伯爵は見るからに憔悴しきった様子で、エジプト探検の顛末を語った。秘中の秘とされる「失われたピラミッド」を伯爵と教授は見つけ出し、そこに埋葬されていたファラオ・コテップのミイラを英国に持ち帰ったのだが、そのピラミッドの在処が謎とされていたのには理由があった。コテップが崇拝していたのはエジプトの神々ではなくレムリアの邪神だったのだ。その名を混沌の帝王イアオ=タムンガゾスというが、後年のカーターならきっとナイアーラトテップやハスターやヨグ=ソトースを持ち出したことだろう。
 探検隊がピラミッドの中に入ると、壁にずらりと描かれているのは逆輪頭十字だった。死の象徴――といっても、アンクをひっくり返すと死の象徴になるというのが本当かどうか私は知らないのだが、識者の御意見を待ちたい。話を戻ると、ミイラ自体も変だった。普通なら内臓は壺に収めてミイラと一緒に埋葬するが、その壺がどこにも見当たらない。どうやら、このミイラは内臓を抜き取られていないらしい……。
 そんなこんなで探検隊はミイラを運び出したのだが、事故やら奇病やらで隊員が次々に死んでいく。キャリントン教授も博物館で喉を切り裂かれて殺され、おまけにミイラが行方不明になってしまった。その現場に居合わせた職員は狂乱しきっており、ミイラが起き上がって教授を殺すのを目撃したと証言するのだった。のっぴきならぬ事態だと判断したブラントは、旧知の間柄であるアントン=ザルナックに助けを求めることにした。
 ザルナック博士は開業医だったが、妻子を人狼に殺されたのをきっかけとして魔物との戦いに立ち上がったという。ハーフムーン通りにあるザルナックの住居をブラントとシェンストーン伯爵が訪問すると、彼の部屋は珍しい本や物品で一杯だった。プライス博士によると、ザルナックの部屋として描写されているのはカーター本人の部屋に他ならないそうだ。
 ミイラと一緒に埋葬されていた宝石「セトの星」を伯爵は携えていた。甦ったミイラの目的はセトの星を奪い返すことだとザルナックは指摘する。セトの星さえ手に入れば暗黒のファラオは昔日の絶大な魔力を取り戻し、再び地上に君臨できるのだ。ミイラが目指すのは、セトの星が保管されている伯爵の館。しかし、伯爵の姪であるアドリエンヌも館に向かっていたのだった……。
 後はザルナックとブラントが伯爵の姪や宝石をミイラ男から守って戦う場面が続く。ザルナックがセトの星を囮にしてミイラ男をおびき寄せ、魔法の粉末を燃やした炎の輪で封じこめようとするも、破れた窓から吹きこんできた暴風雨で火が消えてしまって窮地に陥るといった間抜けな一幕もあるが、どうにかこうにかミイラ男は滅ぼせた。後はブラントとアドリエンヌが結婚し、めでたしめでたし。
 いかにカーターの作品とはいえ、いささか若書きの感があることは否めない。それでもピラミッドを暴く序盤の場面はなかなか迫力があっていいのだが、これは序盤だけカーターが後から書き直しているからかもしれない。クトゥルー神話用語はまったく出てこないが、オカルト探偵アントン=ザルナックが初めて登場した作品であり、彼を通じて神話大系と関連づけられた形になっている。
 その後カーターはさらに2編ザルナック博士の話を書いた。その片方である「夢でたまたま」は『クトゥルーの子供たち』に収録されている。もうひとつは"Dead of Night"といってズシャコンの話だが、今のところ未訳だ。弊ブログでは8年前に粗筋だけ紹介したことがある。
byakhee.hatenablog.com

*1:米国では警部補に相当する。

アヌビスとの対話

 LORE: A Quaint and Curious Volume of Selected Storiesの収録作からもうひとつだけ紹介させていただく。ハーラン=エリスンの"Chatting with Anubis"という作品だ。1995年度のブラム=ストーカー賞を短編部門で獲得しているが、邦訳はない。
 アフリカの北部で大地震があり、サハラ砂漠に巨大な地割れが生じて地下の遺跡が明らかになった。ゴビ砂漠トリケラトプスの化石を発掘していた王自裁は急遽アフリカへ飛び、その遺跡を発掘するための国際合同チームに参加する。なお王自裁という漢字は私が適当に当てたものではなく、エリスン自身が作中でちゃんと説明している。何も考えずに中国人の名前をでっち上げていたロバート=E=ハワード*1はえらい違いだが、これはハワードとエリスンの差というよりは1930年代と90年代の作品の差なのだろう。
 その遺跡はアモンの神殿であるとも、かつてアレクサンドロス大王が訪れた「予言者の谷」であるともいわれていた。本格的な調査が始まる前夜、王は同僚のエイミー=ギターマンと密かに語らい、地下800メートルの遺跡に二人きりで降りていった。そこには広大な部屋があり、王や神々の巨像が建ち並んでいる。突如として眩い光が部屋を満たし、その光の中から咆吼とともに現れたのはアヌビス神だった。
 死を覚悟したギターマンと王だったが、アヌビスは二人を殺さなかった。征服王が舞い戻ってきたのかと思ったという冥神。自分はアレクサンドロス大王ではないと王自裁がいうと、アヌビスは笑った。もちろん違うであろうな、なぜなら余が大いなる秘密を彼に明かしたのだから。どうして彼が戻ってこようか? その軍勢を全速で後退させたきり二度と戻ってこないに決まっているではないか?
 大いなる秘密を教えてほしいと願う王。自分が誰の墓所を守っているのかとをアヌビスは二人に語り、霧の中に消えていった。ギターマンと王は互いに手を貸しながら地上に戻る。夜が明けたが、いまから調査しても地底は空っぽだろう。
 予言者の谷から帰った後しばらくしてアレクサンドロス大王は謎の死を遂げたという。自分たちも同じ運命に見舞われることを予感しつつ、王は殷代の文字で真相を書き記して地中に埋め、後世の人間に対する警告とした。
 神々が死ぬとき、それは人間の信仰を失ったときだとアヌビスは告げたのだ。オシリスやイシスやホルスから人間の眼を背けさせ、彼らに死をもたらした人間がこの墳墓にいる。アヌビスはお喋りな神であり、秘密を守ることは彼の本分ではない。彼の本分は復讐。エジプトの神々を殺した人物を天国にも地獄にも行かせず、ずっと地底の墓所に留めておくという復讐だ。紅海を割り、十戒の刻まれた石板をシナイ山頂から持ち帰った彼を……。
 というわけで、アヌビスの守護する墓に葬られていたのは実はモーセだった。わけがわからないが、身震いしたくなるような迫力に満ちた作品だ。私は"The Challenge from Below"*2が目当てでLORE: A Quaint and Curious Volume of Selected Storiesを買ったのだが、この"Chatting with Anubis"だけでも十分に元が取れたという気がする。だが同書はいまでは絶版なので、エリスンの作品集で読むほうがいいだろう。

乗り物

 昨日に続いてLORE: A Quaint and Curious Volume of Selected Storiesから1編を紹介したい。ブライアン=ラムレイの"The Vehicle"という短編で、Loreの8号(1997年秋季号)が初出だ。
 とある英国の沼にフリトニ星人の宇宙船が不時着した。宇宙船といっても、その全長は6インチ(約15センチ)しかない。極小の異星人が地球にやってくるSFといえばジョン=ウィンダムの「宇宙からの来訪者」があるが、あれはとても哀しい話だった。ラムレイの作品はずっと脳天気だ。

時間の種 (創元SF文庫)

時間の種 (創元SF文庫)

 宇宙船に乗っているのはサール・クリー・インスの3人。彼らの船は動力が尽き、飛び立つことができない。フリトニ星人は動力源を調達することにするが、乗り物になってくれる生物は不時着の際の衝撃で死んでしまった。やむなく彼らは地球上の生物を乗り物として使うことにする。宇宙船は少しずつ沼に沈んでおり、急がなければならなかった。
 そこへやってきたのはハリー=コーギンという凶悪犯。身長190センチ以上、体重100キロ以上という巨漢で、生まれついての悪知恵と腕力で暗黒街の顔役にのし上がった男だ。逮捕されて終身刑を宣告されたものの脱獄し、現在は逃亡中だった。フリトニ星人はコーギンの頭の中に制御装置を打ちこみ、彼の体を乗っ取ってしまった。制御装置にはサールが乗りこんで操縦を行う。
 フリトニ星人に操られたコーギンは宇宙船のエネルギーを手に入れるために出かけていき、パトカーを見つけてバッテリーを強奪する。彼は警官や刑事を蹴散らし、銃弾を体に打ちこまれながらも宇宙船まで帰り着いた。エネルギーを確保したフリトニ星人は無事に宇宙船を離陸させるが、新しい乗り物として使うために蝶を連れていった。その蝶の脚に付着しているのは何かの花粉だ。もしもフリトニ星人が異星で蝶を乗り回せば、ゆくゆくは地球の花との交配種がそこで咲き乱れることになるかもしれない。
 異星人の宇宙船の動力源になるのが自動車のバッテリーとは、いかにもラムレイらしい。仮にもロア傑作選と銘打たれた本に収録されているのがこれでいいのかというのが率直な感想だ。1997年に発表された作品にしては古めかしい感じがするのだが、実は1976年に書いたものが21年がかりで日の目を見たのだとラムレイが公式サイトで語っていた。
www.brianlumley.com

 1976年2月に僕は"The Vehicle"を書き上げた。元々はKadathに掲載される予定だったと思う。Kadathというのはフランチェスコ=コヴァが発行していたイタリアのファンジンだが、すでに世を去って久しい。そしてフランチェスコも……零細出版社とその経営者を呑みこむ虚無の中へ消えていったのだ。その後、Amuletという英国のファンジンに"The Vehicle"は半分だけ(?)掲載された。Amuletもまた魔神に呪われし虚無に呑みこまれた。同誌は僕の手許にはなかった。あったとしても、大きなトランクにしまってある2000ページ分の旧作の直中に埋もれてしまっていた。
 1997年にプロヴィデンスで第3回NecronomiConが開催され、僕はロバート=H=ノックスに会った。"The Vehicle"がAmuletに掲載されたときにイラストを描いてくれた人だ。"The Vehicle"のことを覚えているかと彼は訊ね、まだ現物を持っているといった――しかもイラストの原画まで残っていたのだ! そして同じ大会で、Loreの編集長にして発行人であるロッド=ヘザーにも僕は会ったのだった。

 待てば海路の日和ありということだろう。なおラムレイはKadathをファンジンとしているが、The FictionMags Indexによるとセミプロ誌だそうだ。
www.philsp.com

地底からの挑戦

 C.L.ムーアがラヴクラフトに宛てて書いた1935年10月8日付の手紙から。

ファンタジー誌の企画のリレー小説ですが、なんという混乱でしょう。先生の御負担が軽いものであればいいのですが。序章はなるべく奇怪かつ独創的にしてほしいとシュワルツ氏からは頼まれたのですが、私が実際に書いたものはさほど奇怪でも独創的でもありません。少なくとも話の進行につれて改善する余地はたっぷりありました。正直なところ、顕著に新奇なものを考えつけたとしても無料で提供する気はありません。何にせよ、あんなに貧弱な出だしを他の方々がどう処理してくれるか見物するのは興をそそられることでしょう。

 ムーアが話題にしているのは「彼方からの挑戦」だ。ジュリアス=シュワルツが編集していたFantasy Magazineの1935年9月号に掲載された全5章のリレー小説で、第1章をムーアが、第3章をラヴクラフトが担当した。邦訳は『新編 真ク・リトル・リトル神話大系』の2巻に収録されているものが手に入りやすいだろう。

 自嘲と居直りが混ざったようなことをムーアはいっているが、実際これは怪作と見なされがちだ。そんな「彼方からの挑戦」を範とする企画が1990年代に持ち上がったことがある。その名も"The Challenge from Below"といって、Loreという季刊誌の3号から6号にかけて連載された。章は全部で四つ、それぞれ下記の作家が担当している。

  1. ロバート=プライス
  2. ピーター=キャノン
  3. ドナルド=R=バールスン
  4. ブライアン=マクノートン

 マクノートン以外は作家というより研究者として有名な人ばかりで、早くも不安な気分になる。とにかく粗筋を紹介させていただこう。

第1章

 誰かが不思議な手記を読んでいる場面から物語は始まる。師匠である「灰色の鷲」が行方不明になったと聞いた語り手はオクラホマへ赴き、地底世界クン=ヤンに足を踏み入れた。そこで「灰色の鷲」と再開した語り手が知ったのは、自分の師が実はクン=ヤン人に征服されたヨス人の最後の生き残りであるということだった。
 クン=ヤン人の祈りのせいでクトゥルーが覚醒しそうになっていることに気づいた自分は地底からニョグタを招喚し、クン=ヤンの文明を破壊したと「灰色の鷲」は語る。しかし結局クトゥルーの復活は不可避だった。
 ニョグタが降臨したときクン=ヤン人は精神転移によって遙かな未来に逃亡し、その時代に栄えている甲虫の身体に宿ったというのだが、どうもイースの大いなる種族の設定と意図的に混同しているようだ。君も逃げるべきだと勧められた語り手は書き置きを残し、「灰色の鷲」から教わった精神転移の術で未来に旅立った。
 手記を読んでいたのが実は未来世界の甲虫であることがここで明らかになる。彼の名はズカフカといって、かつて自分が二足歩行する類人猿だったという奇怪な夢に悩まされていた。だが、いまやズカフカは理解した。それは夢などではなく記憶であるということを……。主人公は遙かな未来で甲虫となり、自分が人間であったことを忘れていたのだ。

第2章

 クン=ヤン人は甲虫の体を乗っ取ったものの、その居心地の良さに己の由来すら忘れ去り、文明の水準が甲虫と同程度まで低下していた。甲虫たちの教義は創造論であり、他種族の文明が以前に存在したという思想は弾圧されている。前章で手記を読んでいた甲虫ズカフカも思想警察に逮捕され、異端審問にかけられることになった。
 有罪を宣告されて処刑されることになったズカフカを、クズウェイグという甲虫が助けてくれた。クズウェイグの正体は「灰色の鷲」で、未来に逃げるという自分の方針は間違っていたらしいと語る。やはりクトゥルーの復活は阻止すべきだったのだといわれたズカフカはクズウェイグに連れられて20世紀に戻ったが、2人とも甲虫の姿のままだった。

第3章

 未来から帰ってきたズカフカとクズウェイグが現れたのは英国のセヴァーン渓谷だった。ケム=ベイ=ラムセスというホラー作家が登場するが、モデルはたぶんラムジー=キャンベルだろう。ラムセスはブリチェスター大学図書館で『グラーキの黙示録』を閲覧するが、そこにはズカフカの話も書いてあるということになっている。
 湖の畔でグラーキを招喚するラムセス。ズカフカとクズウェイグはとりあえずラムセスの体を借りることにするが、グラーキ降臨の混乱によって3人の精神が混ざってしまった。しかも腹の部分にはグラーキが取り憑いているという有様だ。

第4章

 甲虫ズカフカになった主人公が元々はカーミット=アーミティッジ教授という名前であったことが終章でようやく判明する。前章の終わりでぐちゃぐちゃな状態になったアーミティッジは精神病院に収容されたが、そこで彼の面倒を見るのはジェフ=コムズという看護師。これまたモデルが歴然としている。
 アーミティッジの著作の愛読者であるコムズは自前で秘薬を調合し、彼のところに持っていく。秘薬を受け取って飲んだアーミティッジは再び時間を遡り、20世紀初頭のプロヴィデンスに住んでいる売れない怪奇作家の体に宿った。つまりラヴクラフトの小説は、彼に取り憑いていたアーミティッジの影響を受けたものだったのだ……。

 何といったらいいのか、クトゥルー神話の新解釈としてもバカ話としても中途半端な印象を受ける。これに比べたら「彼方からの挑戦」のほうがおもしろいような気がするのだが、やはり最大の違いはロバート=E=ハワードの存在だろう。彼が担当した第4章は宇宙的恐怖も蛮勇でぶっ飛ばせば何とかなると言わんばかりの内容だが、ああいう展開にしたのは決して間違いではなかったのだと今では思える。
 なおLoreに掲載された作品から選りすぐったLORE: A Quaint and Curious Volume of Selected Storiesというアンソロジーがあり、"The Challenge from Below"も収録されている。プライスとマクノートンが書いた分はそれぞれの作品集に再録されているのだが、1章から4章まで通して読めるのはこの本しかないはずだ。

Lore: A Quaint and Curious Volume of Selected Stories

Lore: A Quaint and Curious Volume of Selected Stories

  • 発売日: 2011/11/04
  • メディア: ペーパーバック