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主にクトゥルー神話のことなど。

ラヴクラフトの自称弟子

 アーカムハウスから刊行されたラヴクラフトとゼリア=ビショップの合作集についてボビー=デリーが記事を書いている。
deepcuts.blog
 1937年にラヴクラフトが亡くなり、ダーレスたちが彼の代作や合作を探し回るところから話は始まるのだが、そのとき助言を行ったのがロバート=バーロウだった。バーロウによる1937年3月31日付のダーレス宛書簡をウィスコンシン州立歴史協会が所蔵しているそうだが、その引用がなかなか興味深い。

H.P.は6編ばかり書いており、中には文書で証明できるものもあります。ブロック(僕の名前は出さないでくださいよ――彼とは友好関係を維持したいので)・ヒールド・リード・ラムレイのは完全な代作ですし、ライメルらのは原稿を手直ししてやろうとした結果すっかり書き改めることになりました。これらの作品は――収録に値するものもありますが――彼自身の単行本に入れるべきではありません。自分の作品集には合作は含めないと彼は何度もいっていましたから、こういうものを書いたのを悔やんでいたことは確かです。今のままでも作品はたっぷりありますし。

 わずか18歳のバーロウがダーレスに意見しているというのが結構すごいが、当時はそれくらい情報が不足していたわけだ。バーロウの知識も完全ではなく、ロバート=ブロックのクトゥルー神話作品をラヴクラフトが代筆してやったと勘違いする始末だった。そう指摘されたらブロックが機嫌を損ねるに違いないから自分の名前は出さないでほしいとダーレスに釘を刺しているが、誤解が生じたのは「ブロックが自分で書いたにしては上手すぎる」と思ったからなのだろうか? そうだとすれば"The Madness of Lucian Grey"*1にさんざんダメ出しされて原稿を破棄した4年前から彼が長足の進歩を遂げていたことの証といえるかもしれない。
 そこで本題のビショップだが、バーロウのダーレス宛書簡で「リード」と呼ばれているのが彼女だ。ラヴクラフトとビショップの「合作」としては「イグの呪い」「メデューサの呪い」「墳丘」の3編があるが、この時点で発表されていたのは「イグの呪い」だけだった。
 「メデューサの呪い」はウィアードテイルズの1939年1月号に、「墳丘」は同じく1940年11月号に掲載されたが、いずれもダーレスが手を加えたことが知られている。批判されがちな改変だが、この時期のダーレスはビショップのエージェントとして活動していたのだろうとデリー氏は推測している。まずはビショップの希望通りに作品の掲載まで漕ぎつけなければならず、そのためには長い文章を短く切り詰めることも厭っていられなかったのだろう。
 ラヴクラフトとビショップの「合作」をすべて収録したThe Curse of Yigは1953年に出版されたが、その表紙にはビショップの名前だけが印刷されている。また、この本は"H. P. Lovecraft: A Pupil's View"と題する回想記の初出でもある。Lovecraft Rememberedに再録されたものを読んだことがあるのだが、「ラヴクラフトは私の自信や天与の才を損なっていた」などと恨みがましく述べていたので驚いた。それはさておき、その回想記でビショップが訴えようとしていることは「ある弟子の見解」という題名が端的に言い表している。自分はラヴクラフトに代作を依頼した顧客ではなく、彼の指導のもと自力で作品を書き上げた弟子なのだ――という主張だ。
 ダーレスをラヴクラフトの「自称弟子」と呼ぶ向きがある。ラヴクラフトは俺の師匠だぞとダーレス自身が発言したことはないはずだが、もしもラヴクラフトの自称弟子と見なせる人物がいるとしたらビショップだろう。ただ、今となってはビショップの気持ちもわかるような気がする。