新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

『エイボンの書』の訳本

 The Fantasy Fanは1933年から35年までチャールズ=D=ホーニグが発行していたファンジンだが、その1933年11月号をプロジェクト=グーテンベルクが無償公開している。
www.gutenberg.org
 この号でホーニグはクラーク=アシュトン=スミスに取材し、『ネクロノミコン』や『エイボンの書』の英語版はあるかと質問している。いずれも架空の書物だと回答した上でスミスは次のように述べた。

暗澹たる古の伝承を集めた書物が実体のある真正のものでないとは実に遺憾なことですね! 僕は少々この埋め合わせをさせていただこうと思いまして、『エイボンの書』の1章をまるごと作り上げようとしているところです。まだ完成しておりませんが、題名は「白蛆の襲来」といいます……。『エイボンの書』で語られた妖蛆はルリム=シャイコースといって、異様にして巨大な絶対零度の氷山に乗って極地からやってくるのです。

 「白蛆の襲来」が発表されたのは1941年だが、『エイボンの書』からの抜粋であるという設定は1933年には公開されていたわけだ。この設定の初出はおそらくスミスがラヴクラフトに宛てて送った1933年9月16日付の手紙だろう。

エイボンの書』の第9章は、ガスパール=デュ=ノールによるフランス語の手稿から訳し終えましたよ。覚えておられるかもしれませんが、「イルーニュの巨人」の登場人物です。

 The Fantasy Fanの記事よりも情報量が多く、原書ではなくフランス語版からの翻訳であることと、フランス語版の訳者がガスパール=デュ=ノールであることが語られている。その前年、ラヴクラフトは1932年1月28日付のスミス宛書簡でラテン語版の存在に言及していた。

聖燭節まで後5日しかありませんので、『エイボンの書』に記された呪文を注意深く復唱しているところです――ミスカトニック大学図書館から借りてきたフィリッポス=ファベルの中世ラテン語版が出典です。

 1933年の秋に話を戻すと、ラヴクラフトの作品集をクノップ社から出版する計画が頓挫するという出来事があった。1933年10月10日付のラヴクラフト宛書簡におけるスミスの反応。

クノップとかいう俗物野郎にLe Livre d'Eibonの呪いを全部かけ、いまは『ナコト写本』で新しい呪詛を探そうとしているところです! 僕の9章の翻訳がひどすぎなかったのは欣快の至りです。ツァトゥグアの絵を描きましたので、次の手紙でお送りいたしましょう。

 ラヴクラフトを認めようとしない世俗に対する怒りで魔人化するスミス。それはともかく『エイボンの書』フランス語版の題名が出てきた。一方、ラテン語の題名であるLiber Ivonis*1ラヴクラフトがスミスに宛てて書いた1933年12月13日付の手紙が初出らしい。

フラウィウス=アレシウスの著作にある有名な記述はもちろん御存じでしょう。アヴェロン人(アクイタニア人と同じく暗黒の種族です)は、海中に没した西方の大地からやってきたのです。アレシウスは恐るべき石板への心そそられる言及もしておりまして――すなわちアヴェロン人が所蔵していたLiber Ivonisですが、彼らの故地である失われた古代の地からもたらされたものだということです。12世紀にガスパール=デュ=ノールが(これまでのところ)不明な言語からアヴェロワーニュ方言のフランス語に翻訳したLivre d'Eibonがこれと同一のものであるかは、学者たちがいずれ取り組まねばならない課題でしょう。

 『エイボンの書』がフランス語に翻訳されたのは12世紀とあるが、「イルーニュの巨人」によるとガスパール=デュ=ノールは13世紀の人だ。リン=カーターの「エイボンの書の歴史と年表」でも、12世紀というのはラヴクラフトの誤りとされている。
 Liber Ivonisというのは『エイボンの書』のラテン語版なのか、ここでのラヴクラフトの書き方は曖昧だ。きっとスミスに決めてもらいたかったのだろうと思うのだが、1937年1月25日付のフリッツ=ライバー宛書簡では同一視しているように見える。

ガリア時代まで遡るアヴェロワーニュの偽史をCASが作るのを私は手伝ったことがあります。当時、海中に没した西方の地からアヴェロン人が移住してきて、後にLiber IvonisもしくはLivre d'Eibonとして知られることになる禁断の書をもたらしたのです。
(中略)
御存じのように、12世紀にガスパール=デュ=ノールがLiber Ivonisを中世フランス語に翻訳した(底本がラテン語だったかハイパーボリアの原文だったかは定かでありません――彼の事跡は朧です)結果は恐るべきものでした――ある種の儀式と呪文が普及していき、アヴェロワーニュは濃厚な魔術の影を受容することになったのです。そして今日もその影から脱しておりません。

 フランス語版はLiber Ivonisからの翻訳であるという設定が出てきたが、カーターはこの設定を無視してフランス語版の底本をギリシア語版とした。余談だが、ヒポカンパス=プレスの書簡集によるとラヴクラフトはこの手紙でツァトゥグアをSadagaiと綴っている。他では見かけることのない表記だ。

Letters to C. L. Moore and Others

Letters to C. L. Moore and Others

  • 作者:Lovecraft, H P
  • 発売日: 2017/08/01
  • メディア: ペーパーバック

2020年11月4日追記
 ウィアードテイルズに掲載されたボードレールの詩を翻訳したのがスミスだったことに気づいた。*2もしかして『エイボンの書』のフランス語版をわざわざ作ったのは、自分に訳せる言語の版を「白蛆の襲来」の底本にしたかったからではないだろうか。だとしたらスミスらしい拘りだと思う。

*1:ラテン語で『象牙の書』を意味する。フィリッポス=ファベルによるラテン語版というのがこれのことなのかは不明。

*2:彼らは甦るべし - 新・凡々ブログ