新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

『無名祭祀書』余話

ドイツ語の原題をつけることを思い立ったハワード・フィリップス・ラヴクラフトオーガスト・ダーレスの助言を得て、Unaussprechlichen Kulten命名した。同時に、著者のフォン・ユンツトにフルネーム設定「フリードリヒ・ヴィルヘルム」が付与される。

無名祭祀書 - Wikipedia

 こんな記述をWikipediaで見かけたのだが、『無名祭祀書』の原題と著者フォン=ユンツトのフルネームの設定が「同時」であったとする根拠が謎だ。
 『無名祭祀書』にドイツ語の原題をつけてくれないかとラヴクラフトは1932年1月28日付の手紙でダーレスに頼んでいる。ダーレスは2月1日に返事を出し、これがUnaussprechlichen Kultenの初出ということになる。ちなみにラヴクラフトが最初に自分で考えた題名はUngenennte Heidenthumeだった。

 一方フォン=ユンツトの名前だが、ラヴクラフトは1933年のロバート=ブロック宛書簡でファーストネームを付与したとThe Call of Cthulhu and Other Weird Storiesの註釈にある。より厳密には1933年6月の下旬頃に送られた手紙だが、もっと古い例はS.T.ヨシも見つけていないのだろう。したがって『無名祭祀書』の原題とフォン=ユンツトの名前は今のところ初出に1年4カ月もの開きがあることになり、これを同時と呼ぶのはちょっと無理があるのではないか。 くだんのラヴクラフト書簡はブロックの"The Madness of Lucian Grey"を講評するものなのだが、ブロックがフォン=ユンツトのファーストネームを勝手にコンラートとしてしまったことに苦言を呈している。

君はハワードのフォン=ユンツトにコンラートと名をつけていますが、彼の名はフリードリヒであると明言した作品(私がゴーストライターの仕事で顧客の原稿を書き直したものです!)が少なくともひとつ発表済みです。興味深いことに、ハワード自身はフォン=ユンツトにファーストネームを与えたことがありません(それとも私の記憶違いでしょうか?)。

 裏設定ならともかく、公開済みの設定を変更されては困るということだろう。だが実はラヴクラフトはフォン=ユンツトのフルネームを作中で明かしたことが一度もない。顧客の原稿の書き直し云々は「永劫より」を念頭に置いたものだろうが、そこでも『無名祭祀書』の著者名は単にフォン=ユンツトとなっている。つまり設定が表に出ているというのはラヴクラフトの勘違いだし、発表済みだと主張するこの手紙こそが現時点での初出なのだ。
 "The Madness of Lucian Grey"とは『ドリアン=グレイの肖像』のパロディっぽい題名だが、今日に至るまで日の目を見ていないらしい。この作品はフォン=ユンツトの件以外にも「『ネクロノミコン』は大部な書物だから、主人公が一晩で読破したという記述はおかしい」などとラヴクラフトから突っ込みを入れられているので、ブロックも発表を断念せざるを得なかったようだ。旧神がビームを撃っても褒めるのに、『ネクロノミコン』のページ数は気にするあたりがラヴクラフトらしい。
 プロの作家になりたいならダーレスに助言してもらうといいとラヴクラフトはブロックに勧め、彼は「作家としての基礎体力がつくまでクトゥルー神話は禁止」などと厳しい指導をダーレスから受けることになる。状況を知って「ダーレスがあんまり厳しいものだからJ=ヴァーノン=シェイは心が折れちゃいましたけど、ブロック君は大丈夫ですよね」などと鬼畜なことを言い出すラヴクラフト*1同じ「ラヴクラフト・サークル」の若手連中でも、スターリングやバーロウがラヴクラフトからもらう手紙はゆるふわ日常系の世界なのに、ブロックだけ男塾か虎の穴に放り込まれたようなものだ。

Letters to Robert Bloch and Others

Letters to Robert Bloch and Others

  • 作者:Lovecraft, H P
  • 発売日: 2015/07/18
  • メディア: ペーパーバック
 ところでフォン=ユンツトのファーストネームとミドルネームを考えたのはラヴクラフトだとThe Cthulhu Mythos Encyclopediaのフォン=ユンツトの項にあるが、ヨシのほうは「ファーストネームを付与した」と述べているだけでミドルネームの話はしていない。私がラヴクラフト書簡集をざっと漁ったところ、ミドルネームへの言及は確かに見当たらないのだが、フリードリヒ=ウィルヘルム=フォン=ユンツトのウィルヘルムは一体どこから来たのか。御存じの方がいたら御教示ください。

追記

 森瀬繚氏と調べたところ、ラヴクラフトは1937年1月10日付のウィリス=コノヴァー宛書簡で「フリードリヒ=ウィルヘルム=フォン=ユンツト」に言及していた。

ミュルダー教授が御存命だとは知りませんでした――願わくは研究成果を公表した後も健在であってほしいものですが、なにしろヨグ=ソトースは執念深い性格で有名ですからね。ミュルダー教授の住所を知りたいのですが――もちろんハイデルベルクの旧居ではいけませんよ。彼のような学究はナチス政権下では祖国を追われるに決まっているからです! 傲岸不遜に過ぎた同国人フリードリヒ=ウィルヘルム=フォン=ユンツト博士が1世紀近く前にたどった運命を教授が免れますように! 『ゴール=ニグラル』のような書物に記される知識には代償がつきものだからです!

 フリードリヒだけでなくウィルヘルムもラヴクラフトによる命名だったわけだが、森瀬さんが非常に興味深い指摘をしてくれた。フォン=ユンツトのフルネームは原文では"Friedrich-Wilhelm von Junzt"となっており、フリードリヒとウィルヘルムがハイフンでつながれている。すなわち、これは二重名だというのだ。


 ウィルヘルムはファーストネームの一部だった。道理でヨシがミドルネームの話をしないわけだ。しかしながら、リン=カーターの「陳列室の恐怖」などではハイフンは取り除かれており、こちらの表記のほうが今日では一般的になっているのだった。ともあれ謎は解けたわけで、森瀬さんに感謝する次第だ。