新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

ここから電話するかも

 アルジャーノン=ブラックウッドに"You May Telephone from Here"という短編がある。元々は新聞小説で、1909年2月27日付のウェストミンスターガゼットが初出だ。その後Ten Minute StoriesStrange Storiesに収録されたが、まだ邦訳はない。
 午後10時半、ロンドンのノースケンジントン。夫がパリに発った奥さんは召使いを先に寝かせ、従姉妹のシビルが訪ねてくるのを独り待っていた。時折ブラインドを持ち上げて窓の外を見ると、いつになく濃い霧が立ちこめていた。
 仲良しの従姉妹がようやく到着し、奥さんは大喜びで出迎えた。明日の朝7時には夫はパリに着く予定で、そうしたら真っ先に電話すると約束してくれたと聞いて呆れ顔になる従姉妹。パリからの国際電話は3分間で10シリングもするのだ。
 真夜中を過ぎているが、二人はお喋りを楽しんだ。「ちっとも眠くならなくて」と奥さんは申し訳なさそうだが、従姉妹は平気で付き合っている。彼女が芝居の話をしていると、不意に電話が鳴った。だが微かに聞こえてくるだけで、正常な音ではない。どうやら不具合が生じているようだが、奥さんはびくっとした。
「電話は1週間前に来たばかりなんだけど、あまり好きになれないの」
「気にしちゃ駄目」従姉妹は笑い飛ばした。「まだ慣れていないんでしょう。交換局に連絡して苦情をいわないと。この世の中では、嫌なことがあったら黙ってないで――」
 従姉妹は奥さんの代わりに電話をかけてやり、事情を説明した。短い会話の後で、彼女は手に受話器を持ったまま奥さんのほうを向いた。
「交換手は恐縮してたわよ。混線か何かみたいね。理由がわからないから、朝まで受話器を外しておいてほしいって。そうすれば鳴らないから」
「私ったら臆病だし、どんくさいし」という奥さん。「でも慣れてないの、田舎には電話なんかなかったから。それに今夜はなんだか落ち着かなくて」
 もう午前1時だ。二人は寝ることにしたが、1時間後にまたもや電話が鳴った。ほとんど聞こえないほど小さく、ためらっているかのような音だったが、徐々に大きくなっていく。奥さんの悲鳴を聞いた従姉妹が駆けつけてきた。
「何事? びっくりしたじゃない」
「また電話が鳴ってるの――すごい音」奥さんは蒼白になって囁いた。「聞こえない?」
 従姉妹も唖然としていた。「何も聞こえないわ」といったものの、あまり自信がなさそうだ。だが受話器を外してあるのだから、鳴るはずがない。
「誰か私に用がある人がいるの。誰かが私と話したがってるのよ」奥さんの声は震えていた。「ほら、聞こえるでしょう!」
 奥さんはいても立ってもいられず受話器を耳に当てたが、従姉妹はなすすべもなく立ち尽くしていた。彼女には何も聞こえなかったのだ。
「あなたなの、ハリー!」奥さんは夫の名前を呼んだ。「どうして、こんな早い時間に? ――ええ、聞こえてます。すごく微かだけど。とても遠いところにいるみたい――何ですって? すばらしい旅行? パリにはいないけど?」
 奥さんは悲鳴を上げて受話器を放り投げ、床に頽れた。
「わからない――死、死だわ……!」
 後でわかったことだが、その晩の午前1時過ぎにイギリス海峡で船舶の衝突事故があり、ハリーも遭難していた。彼は救助されたものの数時間は意識不明の状態で、波にさらわれたときに妻と話がしたいと強く願ったことしか覚えていなかったという。眼を覚ましたとき、彼はフランスのディエップにいた。
 翌日、電話の修理人がやってきた。彼の話によると、昨晩は真夜中から午前3時頃まで交換局で電話線が奇妙な火花を散らしていたが、その理由は誰にも説明できていないそうだ。
「奇妙ですな!」10分ばかり調べてから修理人はいった。「この電話におかしなところはありません。かけた側の問題に違いありませんよ」
 夫の思いが電話線を介して妻のもとに届いたというお話。しっかり者の従姉妹の存在が物語にアクセントを添えている。結末で夫が死んだことにしても成立する話だし、途中の夫婦の会話で嫌な予感がしていたのだが、むざむざ登場人物の命を奪わないのがブラックウッドのいいところだろう。なお、この作品が収録されたTen Minute Storiesはデルフィ=クラシックスから復刊されている。

 6000ページ以上のブラックウッド作品が300円ちょっとで買えるというお徳用電子書籍だ。もちろん公有に帰しているのだろうが、ネット上で公開されていない作品もたくさん収録されているので300円の価値はあると思う。

滅ぶべし

 ロバート=E=ハワードに"Delenda Est"という短編がある。西暦455年にあったヴァンダル族のローマ略奪、その直前の出来事を描いた作品だ。題名は大カトーの言葉として有名な"Carthago delenda est"(カルタゴ滅ぶべし)をもじったものだが、ここではローマが滅ぼされる側に回っている。
 ローマで皇帝ウァレンティニアヌス3世が暗殺された。ヴァンダル族を率いるガイセリックは政情の不安定化に乗じてローマへの進軍を決意し、彼が船上で将領たちと酒を酌み交わしている場面から物語は始まる。
 夜が更けていき、将領たちは酒席を去った。独り船室に残ったガイセリックは最後の一杯を飲み干して寝ようとするが、ふと気がつくと目の前に威風堂々たる長身の男が立っていた。刺客かと思ったガイセリックは剣の束に手をかけるが、その人物は敵意を示さなかった。
「貴様を害しに来たのではない!」と彼はいった。深みがあり、力強く響く声だった。
「何者だ?」とガイセリックは問いただした。
「何者でもよい」というのが返事だった。「貴様がカルタゴで出航したときから俺は乗船していたのだ」
カルタゴでおまえと会ったことはないぞ。おまえのような男が群衆の中にいたら、いやでも目につくだろうに」
カルタゴは俺の故郷だ」と見知らぬ人物はいった。「俺も、俺の父祖たちもあの地で生まれた。カルタゴこそは我が命だ!」
 その気迫に気圧されるガイセリック。自分はカルタゴを首都にしようと考えているのであって、破壊活動を行うよう命令を出したことはないし、もしも兵士のせいで損害を被ったのであれば賠償しようと申し出るが、謎の人物は彼を遮った。
「貴様の兵士どもの仕業ではない」その声は厳しかった。「略奪だと? 貴様のような蛮族ですら夢にも思わぬような略奪を俺は見たのだ! 奴らは貴様を蛮人と呼ぶ。俺が見たのは、文明人たるローマ人の所業だ」
「俺の記憶が正しければ、ローマ人がカルタゴを荒らしたことはないはずだが」と困惑気味のガイセリック。紀元前146年にカルタゴを滅ぼしたのはローマなのだが、600年も昔のことなのでガイセリックにはその知識がないのだろう。
「ローマ人の欲望と裏切りがカルタゴを破壊した」謎の人物は拳を机にたたきつけた。逞しいが、日に焼けていない貴族の手だった。「その後、交易によって新しい姿で再建されたのだよ。蛮人よ、今や貴様がカルタゴの港から船出し、その征服者を打ちのめすのだ!」
「誰がローマを打ちのめすなどといったのだ?」さすがのガイセリックも落ち着かない様子だ。「帝位の継承を巡って揉め事が起きたから、俺はその仲裁をしに行くだけで――」
「俺のいっていることが貴様にわかるなら、舳先を再び南に向ける前にあの呪われた都を根こそぎ掃討するだろうにな。貴様が救援しに行く相手は今も貴様の破滅を画策している――そして貴様の船には裏切り者が乗っているのだぞ!」
「何の話だ?」いつものように感情を見せない声でガイセリックは質問した。
 これが信頼の証だといって謎の人物は一枚の硬貨を机の上に放り投げ、先ほどガイセリックが無造作に投げ捨てた帯を手に取った。アタウルフの部屋までついてくればわかると言われて驚くガイセリック。アタウルフは彼の顧問官にして書記官で、ガイセリックがもっとも信頼する人物なのだ。
「その様子では、俺が思っていたほどには貴様は賢くないな。裏切り者は外敵よりも恐るべきものなのだぞ」
 長身の人物は凄まじいオーラを放ち、ヴァンダル族の王たるガイセリックですら怯むほどだった。彼は紫色のマントを翻して船室を出て行き、ガイセリックが引き留めようとして叫んだのも徒労に終わった。
 かつて戦場で敵の槍に傷つけられた足を引きずりながらガイセリックは後を追ったが、甲板にいるのは見張りの兵士だけだった。ガイセリックは彼を問い詰めるが、神に誓って誰も見なかったと言い張るばかりだ。ガイセリックはアタウルフの船室に向かった。
 アタウルフは死んでいた。首に巻きついているのは、謎の人物が持っていったガイセリックの帯だ。死体のそばにはペンとインクと羊皮紙が転がっている。ガイセリックは羊皮紙を拾い上げて読んだ。ビザンチウムから援軍が到着するまでガイセリックを言葉巧みに引き留めて時間を稼ぎ、彼の艦隊を湾内に入れて殲滅させるとローマの皇后に約束する書状だった。
 もっとも信頼していた腹心の裏切りを知ったガイセリックは羊皮紙を睨みつけた。餓狼と化した彼にはもはやローマに情けをかける気などなかった。謎の人物が机の上に置いていった硬貨を握りしめたままだったことを思い出したガイセリックはその硬貨を眺めた。忘れ去られた言語が刻まれた古の貨幣だったが、そこに彫られている男の顔はカルタゴの遺跡で何度も見たことがあった。ローマがもっとも怖れた名将――
ハンニバル!」
 ガイセリックを助けたのはハンニバルの霊だったという真相が明かされて物語は終わる。「暗黒の男」ではブラン=マク=モーンの霊がターロウ=オブライエンを助けているが、ローマに対する恨みのエネルギーは時を超えて英雄を甦らせるらしい。ローマ嫌いで知られるハワードらしい作品だ。

S.O.S.

 アルジャーノン=ブラックウッドに"S.O.S."という短編がある。初出はThe Story-tellerの1918年3月号。余談だが、この月刊誌にはチェスタートンの「ブラウン神父」も何編か掲載されたことがある。
en.wikisource.org
 クリスマスの季節、語り手とドロシー(愛称ドット)と彼女のおじはジュラ山脈でスキーを楽しんでいた。昼から滑り続けて午後4時になり、3人は別荘に引き上げる。ドットにはハリーという恋人がおり、彼もいずれ到着するはずだった。待ちきれないドットはスキーを履いて出迎えに行こうとするが、おじさんが制止した。
「休んでおいたほうがいい」と彼はいった。夜のうちに4人で滑って帰る予定なのだ。「途中にはクリュデュヴァンもある。あれはいきなり始まるからな――垂直に切り立っていて、縁が見えないんだ」
commons.wikimedia.org
 これがクリュデュヴァンの写真だそうだが、なるほど壮観だ。ドットは少し不満げだったが、おじさんは言い聞かせた。
「ハリーなら迂回してくるだろう。彼はこの辺をよく知っている。私より詳しいくらいだ」
 おじさんは振り向いて口笛を吹き、愛犬を呼び寄せた。大きなセントバーナードなのだが、いつもならいそいそと駆けていくはずなのに、今日に限って動こうとせずに西のほうを向いている。おじさんは気づかないで屋内に入り、犬もやっと後を追った。日が暮れるにつれて寒さが強まり、3人は暖炉の火に薪をくべながらハリーを待った。
「彼の口笛が聞こえたら卵を料理するとしよう」といって、おじさんは愛犬の頭を撫でた。いつもならセントバーナードは彼の胸にじゃれつくのだが、今日は床に伏せたまま低く呻っている。全員が黙りこくってしまい、時間だけが過ぎていった。
 誰かが雪の上を歩いてくる音が唐突に聞こえた。セントバーナードは起き上がり、まるで人間が叫ぶように吠えてドアに飛びついた。ドットが開けてやると、そこにはハリーではない大柄な人物が立っていた。農夫のような出で立ちで、奇妙にも顔が隠されている。影のせいなのか、それとも髪の毛とひげに覆われていたのか――今日に至るまで語り手にはどちらともわからなかった。
 その人はドットのほうに腕を差し伸べて合図をした。とても優しく、まるで子供のように愛嬌のある仕草だった。途端にドットは戸外へ駆け出し、セントバーナードも一緒についていった。
「ちゃんとドアを閉めていかないか! まだハリーは来ていないよ」おじさんが言った。謎の人物はドットと語り手と犬にしか見えていなかったのだ。
 もう戸口には誰もいなかった。スキーを履いたドットは凍てついた斜面を滑り、セントバーナードは案内しようとするかのように彼女のスカートをくわえながら併走していた。
「ブランデーと毛布を頼みます!」
 そう叫ぶと、語り手もクリュデュヴァンに向かった。犬を追い抜いて目的地に着いた彼とドットが見たものは、断崖に向かって滑落しつつあるハリーの姿だった。彼らはハリーの脚をベルトで縛って引き上げようとする。だが3人とも落ちてしまうかと思われたとき、セントバーナードが加勢してくれたおかげで窮地を脱した。おじさんがブランデーと毛布を持って到着するまで、犬はずっとハリーを毛皮で温めてやっていた。
「風の中に声が聞こえたんです」後日ドットは語り手にいった。「私の名前を呼んでいました。あの場所にどうして行けたのかは自分でもわかりません。ずっと眼をつぶっていたような気がしますから」
 というわけで、クリスマスの奇跡のお話だ。この短編が収録されているTongues of Fire and Other Sketchesラヴクラフトもクラーク=アシュトン=スミスも読んだことがあった。ラヴクラフトは1926年8月18日付のダーレス宛書簡で「はっきり失望させられました」と述べているが、一方スミスは1932年3月25日付のダーレス宛書簡で「たいへん気に入りました」と好意的に評している。ラヴクラフトとスミスで意見が分かれてしまったが、ダーレスがどちらに賛成したのか気になるところだ。

せわしない水

 ロバート=E=ハワードに"Restless Waters"という短編がある。
en.wikipedia.org
 ウィキペディアではフェアリング*1の物語に分類されているが、これは正しくない。また初出がSpaceway Science Fictionの1969年9-10月号だというのも間違いで、正しくは1974年に刊行されたWitchcraft & Sorceryの10号だ。なおスペースウェイ誌のほうには「黒い海岸の住民」が載っている。

 1845年の晩秋、ニューイングランドのとある港町。〈銀の上靴亭〉という宿屋で起きた出来事が、そこで働いている少年の眼を通して描かれる。フェアリングの話ではないが、同じモチーフであることは確かだ。
 宿屋には4人の男が集まっていた。主人のエズラ=ハーパー、〈海女〉号のジョン=ガワー船長、セイレムから来たジョナス=ホプキンス弁護士、そして〈猛禽〉号のスターキー船長だ。外ではみぞれが降っており、彼らは暖炉のそばで酒を酌み交わしていた。
「こんな夜に航海するのは寒かろうな」とハーパーがいった。
「海の底で眠っている連中はもっと寒いだろう」といったのはガワーだった。
「トム=サイラーのことなら同情は無用だぞ」といって、スターキーが粗野な笑い声を上げた。
 サイラーはスターキーの船の一等航海士だったが、航海中に叛乱を煽動した罪で吊されたのだ。時は19世紀半ば、まだ海の上では船長の命令が絶対と見なされる時代だった。だがサイラーほど立派な人物がそんな悪人だったと突然わかったとは奇妙なことだとホプキンスは不思議がっていた。ハーパーは話題を変え、ベティの婚礼はいつだったかとスターキーに訊ねた。
「明日だ」とスターキーは答えた。
 ベティはスターキーの姪で、ジョー=ハーマーという男のもとに嫁ぐことになっていた。ハーマーはニューイングランド一の船主といわれる富豪だが、ベティとは親子ほども歳が離れている。ベティにはディック=ハンセンという恋人がいたが、彼は1年前に溺死したといわれていた。
「ジョー=ハーマーはあんたにいくら支払ったのかい?」とガワーが問いただした。
 あわや殴り合いの喧嘩になりかけたとき、当のベティが飛びこんできた。みぞれの降りしきる夜の道を駆けてきたので、ずぶ濡れになっている。ハーマーとは結婚したくないとベティはスターキーに訴えた。
「できないの! 生きていても死んでいても、ディックが私の夫なんだから!」
 いうことを聞かないなら殴り殺してやると脅すスターキー。ガワーが立ち上がって彼を押しとどめ、ハーパーの奥さんがベティを2階に連れて行って着替えさせた。一同が席に戻ったとき、沈黙を破ったのはホプキンス弁護士だった。
 ホプキンスは〈猛禽〉号の乗組員から聞き取りを行い、サイラーが叛乱を企てた事実はないと突き止めていた。破産しかかっているスターキーは大金と引き換えに姪を売り渡し、邪魔になるディック=ハンセンを誘拐させて英国の捕鯨船に乗せたのだ。そのことを知ったサイラーがベティに知らせようとしたので、濡れ衣を着せて縛り首にしたのだった。
 ディック=ハンセンは今アジアの港にいるが、なるべく早く米国に戻るという言伝をホプキンスは受け取っていた。やつが帰ってくる頃には結婚式は終わっているとスターキーはわめくが、急に手から酒杯を取り落として前のめりに倒れた。彼は死んでいた。死因は酒の飲み過ぎだろうということになったが、給仕をしていた少年だけは見ていた。非道な船長が絶命する直前、首に縄を巻きつけたサイラー航海士が窓の外に立っていたのを……。
www.howardworks.com
 この作品をハワードの遺稿の中から発見したのはグレン=ロードだが、題名がわからなかったので便宜的に"Restless Waters"と呼ぶことにしたという。だが"The Fear at the Window"と題する小説を書いたとハワードが1929年2月頃のテヴィス=クライド=スミス宛書簡で述べていることが後に判明し、こちらが本来の題名かもしれないと考えられているそうだ。

クトゥルーの出身地

 1930年にウィスコンシン大学マディソン校を卒業したダーレスはミネアポリスの出版社に就職した。ミネアポリスの隣にはセントポールがあり、後にアーカムハウスの共同経営者となるドナルド=ワンドレイが住んでいた。彼は1930年11月23日付のラヴクラフト宛書簡にダーレスのことを書いている。

ダーレスにいわせると双子の都市*1はきわめて洗練されており、僕の友達はピーター=ウィフルやドリアン=グレイの卵だそうですよ。はい、はい、はい。いつだってそうなんです。彼がニューヨークのことをどう思うのか気になりますね。ダーレスが我々を洗練されていると考え、僕がニューヨークをソドムの都と見なすのであれば、ニューヨーク市民が頽廃と見なすものは一体どんな腐敗の極みなんでしょうね?

 ドリアン=グレイは有名なので説明不要だろう。ピーター=ウィフルはカール=ヴァン=ヴェクテンのPeter Whiffle: His Life and Worksという長編小説の主人公だそうだが、あいにく私は読んだことがない。ラヴクラフト・ワンドレイ往復書簡集の註釈によると、ドリアン=グレイのような洗練された都会人だそうだ。

 ダーレスの生まれ育ったソークシティの人口は今でも3500人に満たないが、1930年代には1000人程度に過ぎなかった。*2小さな村から出てきた彼の眼にはミネアポリスセントポールも大都会と映っただろうが、悪徳の都であるかのようにいわれてワンドレイはおもしろくなさそうだ。ラヴクラフトは12月1日に返事を書いた。

君もダーレス青年も相対的洗練の興味深い段階を表すものですね。ダーレスは君の世界を人工的かつボードレール的と考えていますが、私のように素朴な老人にしてみれば彼やソークシティですら歓楽に飽和した世紀末の地ですよ! 逆に考えれば、君にとってマンハッタンは悪徳の都でしょうが、マンハッタンは神秘のパリに学び、パリはコンスタンティノープルに恐れおののき、コンスタンティノープルは帝都ローマやアレクサンドリアやアンティオキアを振り返り、それらの都市はバビロンを振り返り、バビロンは円柱都市アイレムを振り返り、アイレムは海底都市ルルイエを振り返り、ルルイエが言及することすら憚るのはンガ=グン、ルルイエの民が地球に来る前にいた暗黒星にある地獄の都です。

 洗練というのは相対的な概念だから、どこまで行っても上には上があるのだとラヴクラフトは煙に巻いているが、さらっとクトゥルーの出身地が明かされている。ンガ=グンはN'gha-G'unと綴るのだが、ラヴクラフトの他の手紙や作品で言及されたことはない模様だ。また他の作家が使用したこともない――と思いながら検索したら1件だけ使用例が見つかった。クトゥルーダゴンの主従やおいらしい。
archiveofourown.org
 なおリン=カーターの神話作品ではクトゥルーと彼の息子たち*3はゾス星系から来たことになっているが、この設定とンガ=グンは矛盾しない。ゾスは星の名前だが、ンガ=グンは都市の名前だからだ。もしもカーターがンガ=グンのことを知っていたら放っておかなかっただろうが、くだんのラヴクラフト書簡はずっとブラウン大学のジョン=ヘイ図書館に眠っており、出版されたのはカーターの没後になってからだった。

ニガー・ヘヴン

ニガー・ヘヴン

Letters with Donald and Howard Wandrei and to Emil Petaja

Letters with Donald and Howard Wandrei and to Emil Petaja

  • 作者:Lovecraft, H P
  • 発売日: 2019/11/22
  • メディア: ペーパーバック

*1:ミネアポリスセントポールを合わせた通称。

*2:Books: Horn Tooter - TIME

*3:ガタノトーア・イソグサ・ゾス=オムモグの三柱。

死の接触

 ロバート=E=ハワードに"The Touch of Death"という短編がある。初出はウィアードテイルズの1930年2月号で、そのときは"The Fearsome Touch of Death"という題名だった。だがハワード本人が作成した作品目録では"The Touch of Death"となっているため、こちらが本来の題名と見なされている。原文はウィキソースで無償公開されているが、今日に至るまで邦訳はない。
en.wikisource.org
 アダム=ファレルという老人が死んだ。身寄りもなく、近所付き合いもなかった彼の通夜を一人ですることになったのはファレドという男だった。
「迷信深いほうではないよね?」とスタイン医師が念押しをした。
「全然」とファレドは笑った。「この爺さんの評判を聞くに、生きている彼の客になるよりは、死んだ後で通夜をするほうがましみたいだね」
 後は任せたといってスタイン医師は立ち去り、ファレドは雑誌を読みながら時間を潰す。強い風が窓から吹きこんできた。ファレドが遺体を見ると、いつの間にか表情が変わっているような気がする。風でシーツの位置がずれたせいに決まっていると自分に言い聞かせながらファレドは灯りを消し、寝ることにした。
 ファレドは夜中にふと目が覚めた。真っ暗だが、目の前には老人の遺体が横たわっているはず……。言い知れぬ恐怖に襲われたファレドは闇の中でじりじりと後ずさりした。冷たく、じっとりしたものが、そのとき彼の手に触れた。
 翌日スタイン医師が行くと、遺体は二つに増えていた。ショック死したファレドの傍らに転がっていたのは、前の日に医師が置き忘れていったゴム手袋だった。冷たく、じっとりした感触の手袋に暗がりで触ってしまったファレドは、それを死人の皮膚と勘違いしたのだった。
 この話にはアンブローズ=ビアスの「死骸の見張り番」からの影響がありそうだとラスティー=バークがThe Horror Stories of Robert E. Howardの序文で指摘している。ビアスの作品ならたくさん読んでいるとハワードは1930年10月頃の手紙でラヴクラフトに語っており、影響を受けることもあったに違いない。*1また1933年3月6日付のラヴクラフト宛書簡には、ビアスがナイフ投げの達人だったという逸話が見られる。*2ハワードにとってビアスは卓越した作家であるだけでなく、戦う術に長けた強い男でもあったのだろう。

ビアス短篇集 (岩波文庫)

ビアス短篇集 (岩波文庫)

 ハワードは自分の母方の祖父を誇りに思っていたが、彼とビアスには南北戦争に従軍したという共通点がある。*3ハワードの祖父は南軍、ビアス北軍という違いはあるが、いずれもハワードにとっては尊敬に値する勇士だったのではないか。
 "The Touch of Death"に話を戻すと「死骸の見張り番」ほどの複雑さはないが、人が恐怖に囚われていく過程の描写に強烈な迫力がある。ハワードは恐怖を描き出すことに巧みであるからこそ、その恐怖を吹っ飛ばす筋肉の一撃があれほどまでに痛快なのだと思う。

モホーン=ロスからの手紙

 クラーク=アシュトン=スミスの"The Letter from Mohaun Los"を読んだラヴクラフトは1931年5月12日付のスミス宛書簡で「きわめて鮮烈で印象的」「夢中になって読みました」と感想を述べている。この作品をスミス自身は1931年8月18日付のダーレス宛書簡で「1万語の疑似科学小説」と呼んでいるが、現存するものは1万3000語近くあるので後に改稿されたのだろう。
www.eldritchdark.com
 1940年に失踪した富豪ドミティアン=マルグラフが書いたとおぼしき手紙がバンダ海で発見された。透明な球体に入っていた手紙は別れた許嫁に宛てたもので、マルグラフが召使いの李と一緒に旅立ってから遭遇した驚異的な出来事が綴られていた――という体裁の作品だ。
 世の中に倦んだマルグラフはタイムマシンを発明し、李と一緒に出発する。李は「もっとも知的な人間」「有能なだけでなく、一緒にいると楽しい」とマルグラフから尊敬されている人物。マルグラフは2000年後の世界に向かうが、そこは宇宙空間の真っ只中だった。太陽系は銀河系の中心の周りを回っているので、2000年後の同じ場所には存在していないのだ。余談だが、太陽系が銀河系を一周するには約2億3000万年かかるそうだ。
starchild.gsfc.nasa.gov
 十分な時間が経てば、その座標に別の天体が来るはずだと考えたマルグラフはさらに未来へ向かう。タイムマシンは未知の惑星に着陸できたが、そこは巨大な食肉植物がはびこる密林だった。4本腕の現地人が危険にさらされているのを見たマルグラフと李は彼を救出するが、空を飛ぶ乗り物が出現する。ガトリング砲のような兵器で狙われたマルグラフたちは慌てて脱出した。互いの言葉が理解できるようになってから判明したことだが、マルグラフたちが救助したのはトゥオクアンという学者で、異端思想の罪で処刑されかかっていたのだった。
 次の星を発見したマルグラフは着陸を試みるが、地面から15~20フィート上空に出てしまう。時間を移動する以外の機能を持たないタイムマシンは墜落し、その衝撃で故障してしまった。そこは平原で、身長4フィートほどの人々が戦争をしている最中だった。これも後で説明されるのだが、一方は平和を愛するソウナ族、もう一方は獰猛なゴルポ族という。また、題名にあるモホーン=ロスというのは彼らが住む星の名前だ。
 数の上ではゴルポ族が優勢だったが、彼らの直中に落ちたタイムマシンは兵士を何人か押しつぶし、このことを天佑と捉えたソウナ族は攻勢に出て勝利を収めた。彼らはタイムマシンの前に平伏して崇め、搭乗者ごと都に運んでいく。大きな建物の中で祭壇に安置されたタイムマシンだったが、そこには先客がいた。奇怪な巨大ロボットで、ソウナ族が持ってきた油で自分自身のメンテナンスをしている。
 ロボットはタイムマシンに戦いを挑もうとするが、そこに透明な多面体の乗り物が現れた。乗員はトゥオクアンと同じ種族で、時間を超えて彼を追跡してきたらしい。ロボットはタイムマシンをほったらかしにして新しい相手と死闘を繰り広げ、双方とも大爆発を起こして相打ちになった。
 宇宙から来て暴君のように振る舞っていたロボットをマルグラフたちが退治してくれたと思いこんだソウナ族はますます感謝の念を強めたが、彼らは敢えて誤解を解こうとはしなかった。ソウナ族は花の香りを嗅ぐだけで栄養を得ていたが、幸いなことに人間の食べ物も手に入った。
 地球の時間にして7カ月が経ち、マルグラフたちはソウナ族にすっかり受け入れられていた。トゥオクアンは技術指導に当たり、侵略者と戦うための兵器の作り方をソウナ族に教えている。李は『詩経』などをソウナ族の言語に翻訳し、これも好評だった。ちなみにスミスの原文では『詩経』はThe Odes of Confuciusとなっているが、これはランスロット=クランマー=バイングによる英訳が1905年に刊行されたときの題名らしい。たぶんスミスも読んだことがあったのだろう。
archive.org
 マルグラフはタイムマシンを修理し、さらに小型のタイムマシンを製作する。そして元許嫁に当てた手紙を積み、数学と天文学に長けたソウナ族の助けを得て座標を計算すると過去の地球に送り出したのだった。ハッピーエンドなのだが、最後に「編者の注記」として「もしも計算が正確だったなら、マルグラフと李が出発したその場所に手紙が届いたことにならないだろうか?」と突っこみが入っている。
 この作品の原稿をスミスは初めウィアードテイルズに送ったが、受理されるとは期待していなかった。実際に初出となったのはヒューゴーガーンズバックが編集長を務めるワンダーストーリーズの1932年8月号だが、このときに"Flight into Super-Time"と題名を変えられている。なるべくSFらしい題名にしようというのがガーンズバックの動機だったのだろうが、スミスは1932年5月26日付のダーレス宛書簡で「気乗りがしません」とぼやき、続く6月7日付の手紙では"The Flight through Time"と間違える有様だった。
 後にアーカムハウスからスミスの作品集が刊行されたとき、2冊目のLost Worldsに"The Letter from Mohaun Los"も収録された。「予言の魔物」と同じような風刺をスミスは意図していたのだが、そのことに気づいてくれたワンダーストーリーズの読者はほとんどいなかったに違いありません――とダーレス宛の手紙で語っている。その手紙は1943年4月31日付なのだが、特にふざけた内容でもないので素で間違えていたのだろう。