新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

滅ぶべし

 ロバート=E=ハワードに"Delenda Est"という短編がある。西暦455年にあったヴァンダル族のローマ略奪、その直前の出来事を描いた作品だ。題名は大カトーの言葉として有名な"Carthago delenda est"(カルタゴ滅ぶべし)をもじったものだが、ここではローマが滅ぼされる側に回っている。
 ローマで皇帝ウァレンティニアヌス3世が暗殺された。ヴァンダル族を率いるガイセリックは政情の不安定化に乗じてローマへの進軍を決意し、彼が船上で将領たちと酒を酌み交わしている場面から物語は始まる。
 夜が更けていき、将領たちは酒席を去った。独り船室に残ったガイセリックは最後の一杯を飲み干して寝ようとするが、ふと気がつくと目の前に威風堂々たる長身の男が立っていた。刺客かと思ったガイセリックは剣の束に手をかけるが、その人物は敵意を示さなかった。
「貴様を害しに来たのではない!」と彼はいった。深みがあり、力強く響く声だった。
「何者だ?」とガイセリックは問いただした。
「何者でもよい」というのが返事だった。「貴様がカルタゴで出航したときから俺は乗船していたのだ」
カルタゴでおまえと会ったことはないぞ。おまえのような男が群衆の中にいたら、いやでも目につくだろうに」
カルタゴは俺の故郷だ」と見知らぬ人物はいった。「俺も、俺の父祖たちもあの地で生まれた。カルタゴこそは我が命だ!」
 その気迫に気圧されるガイセリック。自分はカルタゴを首都にしようと考えているのであって、破壊活動を行うよう命令を出したことはないし、もしも兵士のせいで損害を被ったのであれば賠償しようと申し出るが、謎の人物は彼を遮った。
「貴様の兵士どもの仕業ではない」その声は厳しかった。「略奪だと? 貴様のような蛮族ですら夢にも思わぬような略奪を俺は見たのだ! 奴らは貴様を蛮人と呼ぶ。俺が見たのは、文明人たるローマ人の所業だ」
「俺の記憶が正しければ、ローマ人がカルタゴを荒らしたことはないはずだが」と困惑気味のガイセリック。紀元前146年にカルタゴを滅ぼしたのはローマなのだが、600年も昔のことなのでガイセリックにはその知識がないのだろう。
「ローマ人の欲望と裏切りがカルタゴを破壊した」謎の人物は拳を机にたたきつけた。逞しいが、日に焼けていない貴族の手だった。「その後、交易によって新しい姿で再建されたのだよ。蛮人よ、今や貴様がカルタゴの港から船出し、その征服者を打ちのめすのだ!」
「誰がローマを打ちのめすなどといったのだ?」さすがのガイセリックも落ち着かない様子だ。「帝位の継承を巡って揉め事が起きたから、俺はその仲裁をしに行くだけで――」
「俺のいっていることが貴様にわかるなら、舳先を再び南に向ける前にあの呪われた都を根こそぎ掃討するだろうにな。貴様が救援しに行く相手は今も貴様の破滅を画策している――そして貴様の船には裏切り者が乗っているのだぞ!」
「何の話だ?」いつものように感情を見せない声でガイセリックは質問した。
 これが信頼の証だといって謎の人物は一枚の硬貨を机の上に放り投げ、先ほどガイセリックが無造作に投げ捨てた帯を手に取った。アタウルフの部屋までついてくればわかると言われて驚くガイセリック。アタウルフは彼の顧問官にして書記官で、ガイセリックがもっとも信頼する人物なのだ。
「その様子では、俺が思っていたほどには貴様は賢くないな。裏切り者は外敵よりも恐るべきものなのだぞ」
 長身の人物は凄まじいオーラを放ち、ヴァンダル族の王たるガイセリックですら怯むほどだった。彼は紫色のマントを翻して船室を出て行き、ガイセリックが引き留めようとして叫んだのも徒労に終わった。
 かつて戦場で敵の槍に傷つけられた足を引きずりながらガイセリックは後を追ったが、甲板にいるのは見張りの兵士だけだった。ガイセリックは彼を問い詰めるが、神に誓って誰も見なかったと言い張るばかりだ。ガイセリックはアタウルフの船室に向かった。
 アタウルフは死んでいた。首に巻きついているのは、謎の人物が持っていったガイセリックの帯だ。死体のそばにはペンとインクと羊皮紙が転がっている。ガイセリックは羊皮紙を拾い上げて読んだ。ビザンチウムから援軍が到着するまでガイセリックを言葉巧みに引き留めて時間を稼ぎ、彼の艦隊を湾内に入れて殲滅させるとローマの皇后に約束する書状だった。
 もっとも信頼していた腹心の裏切りを知ったガイセリックは羊皮紙を睨みつけた。餓狼と化した彼にはもはやローマに情けをかける気などなかった。謎の人物が机の上に置いていった硬貨を握りしめたままだったことを思い出したガイセリックはその硬貨を眺めた。忘れ去られた言語が刻まれた古の貨幣だったが、そこに彫られている男の顔はカルタゴの遺跡で何度も見たことがあった。ローマがもっとも怖れた名将――
ハンニバル!」
 ガイセリックを助けたのはハンニバルの霊だったという真相が明かされて物語は終わる。「暗黒の男」ではブラン=マク=モーンの霊がターロウ=オブライエンを助けているが、ローマに対する恨みのエネルギーは時を超えて英雄を甦らせるらしい。ローマ嫌いで知られるハワードらしい作品だ。