新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

幽霊湖

 ラヴクラフトはアルジャーノン=ブラックウッドを最高の怪奇作家と見なしていたが、友人たちとの文通で話題になっていたのはむしろアーサー=マッケンのほうだった。ダーレス・スミス・ハワード・バーロウ宛の書簡集を調べてみたところ、ただ一人の例外を除いてマッケンのほうが頻繁に言及されているのだ。
 例外的な一人というのはダーレスで、彼とラヴクラフトの文通のみブラックウッドが逆転している。おそらく他の面々に比べてダーレスはブラックウッドに対する関心が高かったのだろう。何しろ1927年からブラックウッドとも文通していたほどだ。
 ダーレスの対極にあるのがロバート=E=ハワードで、彼はブラックウッドの作品を読んだことがなかったらしい。1930年10月頃のラヴクラフト宛書簡で彼は次のように述べている。

自分の無知は認めざるを得ません――ラヴクラフトさんのお話にあった小説の大部分は一度も読んだことがないのです――題名を聞いたことすらない作品もあるほどです。ポオの作品はほとんど読みましたし、ビアスもたくさん読んでいます。マッケンやダンセイニもそこそこ読んでいるのですが、たとえばブラックウッドは一行たりとも読んだことがありません。率直に言って、僕はまったく博覧な人間ではないのです。

 このことは当然ハワードとの文通の内容に反映されており、ブラックウッドへの言及が極端に少ない。ラヴクラフトは如才ない人なので、相手に合わせて話題を変えるのだ。

 ダーレスに話を戻す。彼がブラックウッドから影響を受けた作品といえば「風に乗りて歩むもの」だが、最晩年には"Ghost Lake"という短編を書いている。1971年5月に刊行されたWitchcraft & Sorceryの6号に掲載され、ダーレスが生前に発表した最後の作品となったが、1970年7月16日付のラムジー=キャンベル宛書簡に言及があるので、少なくとも前年には完成していたらしい。
 "Ghost Lake"は失踪した友人夫妻を捜しにカナダへ来たテイラーという男の話で、彼に同行している無名の人物が語り手だ。友人夫妻の所持品が発見された地点の付近をくまなく捜索しても彼らは見つからなかった、してみると湖で溺れ死んだに違いない――とテイラーは推理した。案内人を務めていた先住民族の男はその湖のことを「悪い水」と呼び、行ってはならないと警告する。耳を貸そうともせずに湖へと赴くテイラー。あたりは鳥や蛙の鳴き声で満ちていたが、湖自体からは何の音も聞こえてこなかった。そして、風もないのに波が立っている。ここには何かがいる……。
 この作品にはウェンディゴへの言及もあるのだが、雰囲気はむしろ「柳」を彷彿とさせる。たまたま近くで調査を行っていた考古学者のヘンリー=ジャーメインが二人のテントに立ち寄り、先住民族の伝承を語って聞かせた。湖の中には水死者を手許に留め、新たな犠牲者を得るまで放そうとしないものもあるというのだ。
 翌朝、語り手が目を覚ますとテイラーは湖でボートの支度をしていた。湖面はまるで鏡のようで、木々の梢と天空が映っていた。東の空で輝く金星は燃え上がる単眼のようで、西には幽婉な月がかかっている。テイラーは決然とした表情で何かに耳を傾けているようだった。
「聞こえたかね?」とテイラーは訊ねた。
「何ですって? 聞こえるのはアビの鳴き声くらいだ」
「声だよ。人間の声だ。呼んでいるんだ。彼女の声が聞こえる」
 語り手には何も聞こえなかった。
「死んだ奥さんとは恋仲だったんでしょう、テイラー」
「君の知ったことではない」
 テイラーはボートに乗りこんだ。語り手は制止しようとするが、テイラーは彼をオールで殴りつける。語り手が意識を取り戻したときにはテイラーは沖に出ており、湖はもはや静まりかえってはいなかった。

湖面は大きく盛り上がり、波飛沫を飛ばしていた。波紋は夜明けの光を捕らえて輝き、宝石のように煌めいていた。風もなく静謐な空気は湖水の狂乱を反射しているようで、しかし松の木は針葉の一本たりとも動いていなかった。水は悪意というよりも歓喜に満ちているようだった。

 このくだりはうまいと思う。湖に何が潜んでいるにせよ、その悪意を否定することで却って異質さが強調されている。巨大な水柱が立ち上ってテイラーを隠し、それが収まった後に彼の姿はなかった。
 もはやテイラーのためにしてやれることは何もなく、語り手は虚しく帰還の支度をする。だが振り向くと、湖畔に何かが見えた。語り手が灌木をかき分けて駆けつけると、岸辺に打ち上げられていたのは抱き合っている男女の亡骸だった。湖が夫妻の遺体を返してきたのだ……。
 テイラーの自殺的な行為には解釈の余地があるだろうが、湖に遺体を放させる代償として自分自身を与えようとしたように見える。超自然的な恐怖に直面したとき、ただ愛する人の身体を取り戻すことだけを願って行動するというのがダーレスらしい。ブラックウッドに敬意を表しつつ、結局は人間を描くことがダーレスの本領だったのだと思えば、彼の作家人生の締めくくりにふさわしい一編だろう。