新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

地上の男

 ロバート=E=ハワードに"The Man on the Ground"という短編がある。「老ガーフィールドの心臓」や「鳩は地獄から来る」と同じく南部の怪奇譚に分類される作品だ。邦訳はないが、原文はプロジェクト=グーテンベルク=オーストラリアで公開されている。
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 カル=レイノルズとエサウ=ブリルの確執はテキサスにしては珍しく長年に及んでいた。ケンタッキーの山の中では一族同士の抗争が世代を超えて続くこともあるが、南部の人間の気質は早めに片をつけることを好むのだ。だがレイノルズとブリルの場合は例外だった。親族や友人がまったく関わらない二人だけの争いで、どうして彼らが憎み合うようになったのかは本人たちにもわからなかった。
 互いに命を狙い続けた結果、レイノルズの胸には肋骨まで達する傷がつき、ブリルの片眼は潰れてしまっていた。そして今、二人は荒野でそれぞれ岩陰に身を潜めながら銃を構え、相手の息の根を止めようとしていた。
 決闘が始まってから1時間以上が経過し、容赦なく照りつける太陽のせいでレイノルズは汗まみれになっていた。もはや憎悪は彼の一部――というより憎悪が彼を覆っていた。飛んでくる銃弾に当たるまいとするのも命が惜しいからではなく、宿敵の手にかかって死ぬことに耐えられないからだった。逆に、ブリルを自分より3秒早くあの世に送るためなら、レイノルズは平然と命を投げ捨てただろう。
 15分ほど、どちらの側からも銃声は聞こえなかった。ガラガラヘビが岩の間でとぐろを巻いて陽光から毒を吸収するように死を漲らせ、二人は地べたに伏せたまま機会を窺っていた。張り詰めた緊張の糸が切れるのはどちらが先かという我慢比べだった。
 とうとう痺れを切らしたブリルが身を乗り出して発砲し、すかさずレイノルズは撃ち返した。怖ろしい叫び声が上がったので、命中したのは確かだった。レイノルズは躍り上がって喜んだりはしなかったが、思わず頭をもたげてしまった。彼はすぐさま本能的に身をかがめたが、そのときブリルの銃弾が飛んできた。
 だが、その銃声はレイノルズには聞こえなかった。同時に何かが彼の頭の中で弾け、赤い火花を散らしたかと思うと彼の意識を真っ暗闇の中に沈めてしまったのだ。
 暗闇だったのは束の間で、気がつくとレイノルズは地面に横たわっていた。このままでは敵に狙い撃ちされてしまう。傍らに転がっていた銃を彼はひっつかみ、近づいてくるブリルを撃とうとしたが、相手の態度があまりにも奇妙だったので一瞬だけ躊躇した。機先を制して発砲するでもなく、飛び退いて物陰に隠れるでもなく、ブリルはまっすぐ歩いてくるばかりだったのだ。まるでレイノルズの姿が見えていないかのようだった。
 それ以上は理由を考えようとせず、レイノルズは引き金を引いた。狙い過たず銃弾はブリルの胸に命中した。ブリルは最後の最後まで戦い続ける男であり、息絶える瞬間まで銃を撃ちまくるかと思いきや、信じられないという顔でゆっくりと仰向けに倒れた。その死顔には愚かしい驚愕の表情が張りついている。見るものを宇宙的恐怖で戦慄させる表情だった。
 レイノルズは銃を地面に置いて立ち上がった。彼の視界は霞んでおり、空や太陽までもが非現実的に感じられた。だがレイノルズは満足していた。長年の争いはついに終わり、彼が勝利を収めたのだ。
 そのときレイノルズは眼を疑った。ブリルの亡骸から数フィートしか離れていないところに別の死体が転がっているのだ。二つ目の死体には見覚えがある――レイノルズ自身の姿だ。自分自身の死体を見下ろしているのだと理解した瞬間、レイノルズのもとにも真の忘却が訪れたのだった。
 戦っていたのは死人だったという落ち。憎悪を擬人化したようなキャラクターだ。この作品の初出はウィアードテイルズの1933年7月号なのだが、この号には「蝋人形館の恐怖」「魔女の家の夢」「ウボ=サスラ」が掲載されていてクトゥルー神話が豊作だ。ハワードは1933年6月15日付のラヴクラフト宛書簡で「魔女の家の夢」と「蝋人形館の恐怖」を称賛し、『無名祭祀書』に言及してくれたことにお礼を述べているが、自分自身の作品のことは何も語っていない。

事前従犯人

 アルジャーノン=ブラックウッドに"Accessory Before the Fact"という短編があり、プロジェクト=グーテンベルク=オーストラリアなどで無償公開されている。
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 マーティンは休日の散策を楽しんでいたが、どういうわけか荒野で迷ってしまった。道を間違えたところまで引き返すべきかと思案してから、彼は先に進むことにする。かまわず行けば宿屋が見つかるだろう、予定のとは違ったとしても――そう思った彼が歩き続けると、みすぼらしい身なりの二人組が地べたに寝転がっていた。彼らにドイツ語で時刻を聞かれたマーティンはとっさに「6時半」と答える。返事をした後で時計を見ると、幸いにも合っていた。
 わけのわからない恐怖を感じながらマーティンは歩調を速めたが、先ほどの二人組が現れて彼に襲いかかる。背後から鈍器で滅多打ちにされてマーティンは抵抗できず、世界は闇の中に沈んでいった……。
 はっと気がつくと、マーティンは標識の前に立っていた。迷ったのも、暴漢に襲われたのも夢だったようだ。標識には目的地の名前が書いてあり、宿屋のある村はほんの2マイル先だった。マーティンは村まで一目散に駆けていき、疲労困憊しつつ宿に着く。
 夕食を済ませて気分も晴れ、一服しようとバーに入った彼が見たものは、あの二人組の姿だった。きちんとした服を着ているが、顔は見間違えようもない。だが彼らは自分に用があるのではなく、狙われているのは別の誰かだとマーティンは悟った。その誰かに対する警告を自分は間違って受け取ったのだ、まるで無線を傍受したようなものだ――マーティンは恐れおののいたが、その晩は何も起こらなかった。彼はぐっすりと眠った。
 マーティン以外に宿泊しているのは、金縁の眼鏡をかけた年配の男性だけだった。翌朝、その人物が宿の主人に道を訊ねているのを見たマーティンは代わりに答え、よろしかったら御一緒しましょうと申し出る。赤の他人だが、一人きりで行かせるわけにはいかないと思ったのだ。だが自分の出立は遅くなるからと丁重に断られてしまい、みすぼらしい身なりに変装した二人組の片割れが現れて時刻を訊ねた。教えてやったのは金縁眼鏡の男性だった。
 もはや打つ手がなくなったマーティンは苦悩しながら帰途につく。このままでは人が殺されようとしているのを看過することになってしまう。だが、そもそも間違って受け取った情報で運命を変えようとするのが摂理に反しているのではないか? 最後の2日間、マーティンの休暇はそんな疑念のせいで台なしになった。
 後日、例の荒野で旅行者が喉を切り裂かれて殺害されたという記事が新聞に載った。被害者は金縁の眼鏡をかけており、大金を所持していたそうだ。下手人と目される二人組は未だに捕まっていないという。
 他人の運命を予知してしまった男の煩悶を描いた掌編。題名になっている"Accessory Before the Fact"をウェブスター辞典で調べると「直接の犯行には加わらないが、幇助や教唆という形で寄与する共犯」とある。「事前従犯人」と訳すらしいが、殺人が行われることを前もって知りながら阻止するのを諦めてしまったマーティンを指しているのだろう。
 この作品は1911年9月2日付のウェストミンスターガゼットが初出で、その後Strange StoriesTales of the Uncanny and Supernaturalなど様々な単行本に収録されている人気作だ。また1960年代に英国でテレビドラマ化されたこともある。*1なかなか優れた作品だと思うのだが、今日に至るまで邦訳はないようだ。

ダーモッドの破滅

 このところアルジャーノン=ブラックウッドとロバート=E=ハワードの作品を交互に紹介しているが、別に意図があるわけではない。そもそもハワードはブラックウッドを読んだことがないと1930年10月頃の手紙でラヴクラフトに語っており、少なくとも直接的な影響は受けていなかったはずだ。
 それはさておき、ハワードには"Dermod's Bane"という短編がある。彼の生前には発表されたことがなく、初出はMagazine of Horrorの1967年秋季号だ。The Horror Stories of Robert E. Howardに収録されている。主人公の名はキロワンといって、これは「われ埋葬にあたわず」の語り手と同名だ。また"The Haunter of the Ring"*1の主役はジョン=キロワンといい、故フィリップ=ホセ=ファーマーの公式サイトでは彼らをすべて同一人物としているが、実のところハワードが登場人物の名前を使い回すのは珍しくない。
www.pjfarmer.com
 最愛の姉妹モイラを失って悲しみに暮れるキロワンは心を癒やすべく、先祖ゆかりの地であるアイルランドのゴールウェイに来ていた。なお姉妹といっても姉なのか妹なのかは不明だ。英語圏の小説では兄弟姉妹の長幼の序に無頓着なことが多く、この作品も御多分に漏れない。「妹を溺愛する兄」と「姉が大好きな弟」では微妙に印象が異なるのだが、そう思うのは私だけだろうか。
 キロワンは現地の羊飼いから昔話を聞く。それはダーモッド=オコナーという男の物語だった。名門たるオコナー家に生まれながら、彼は狼の異名を持つ無法者だったという。相手がノルマン人だろうとケルト人だろうと暴虐の限りを尽くすダーモッドの徒党は戦闘や離反が相次いで徐々に数が減り、とうとう彼ひとりになってしまった。それでもダーモッドは荒れ狂い続けたが、一族の若者を殺害されたキロワン家が復讐を誓って彼を追い詰め、マイケル=キロワン卿が一騎打ちを行った。そのマイケル卿の直系の子孫がキロワンなのだ。
 発見されたとき、マイケル=キロワンとダーモッド=オコナーは二人とも重傷を負っていた。ダーモッドのほうが傷が深く瀕死だったが、そのまま放置されて死ぬのではなく丘の上の木で縛り首にされた。キロワン家のものに末代まで祟ってやると言い残して彼は吊されたという。その木は今日なお残っており、地元の人々からは「ダーモッドの破滅」と呼ばれていた。
「ですからね、海を臨む崖に夜は行っちゃいけませんよ。笑いたければ笑いなさるがいいが、月のない夜にはダーモッドの怨霊が出没しますからね」
 羊飼いはそう忠告してくれたが、別離の苦痛が治まらないキロワンは夜ふらふらと戸外に出て行く。泣きたくても泣けないほどの悲しみを抱えながら彼は丘をさまよい、気がつくと崖の上にいた。目の前に誰かがいる。モイラの姿を認めたキロワンは我を忘れて駆け寄った。
 モイラはふわりと空中に浮き上がり、まるで風に吹かれる霧のようだった。キロワンは勢い余って高さ120メートルの崖下に転落しそうになる。落ちたら命はなかったが、そのとき誰かの手が背後から彼を引き留めた。忘れもしない、その手の感触は……。
 ダーモッドの怨霊がモイラになりすましてキロワンの命をとろうとし、絶体絶命の彼を救ったのは本物のモイラだった。ダーモッドは正体を現して消散し、モイラも去った。キロワンは草むらに突っ伏し、夜が明けるまで泣き通す。愛は憎しみに打ち勝つと知って彼は立ち直り、いつの日か自分はまたモイラを抱きしめることができると確信するのだった。
 短い作品だが、ハワードの愛するアイルランドが舞台になっている点が注目に値する。また、前述したようにジョン=キロワンのシリーズの一部と見なすならばクトゥルー神話大系と接点があることになる。なお念のために付け加えておくが、ハワード自身は一人っ子だ。

ここから電話するかも

 アルジャーノン=ブラックウッドに"You May Telephone from Here"という短編がある。元々は新聞小説で、1909年2月27日付のウェストミンスターガゼットが初出だ。その後Ten Minute StoriesStrange Storiesに収録されたが、まだ邦訳はない。
 午後10時半、ロンドンのノースケンジントン。夫がパリに発った奥さんは召使いを先に寝かせ、従姉妹のシビルが訪ねてくるのを独り待っていた。時折ブラインドを持ち上げて窓の外を見ると、いつになく濃い霧が立ちこめていた。
 仲良しの従姉妹がようやく到着し、奥さんは大喜びで出迎えた。明日の朝7時には夫はパリに着く予定で、そうしたら真っ先に電話すると約束してくれたと聞いて呆れ顔になる従姉妹。パリからの国際電話は3分間で10シリングもするのだ。
 真夜中を過ぎているが、二人はお喋りを楽しんだ。「ちっとも眠くならなくて」と奥さんは申し訳なさそうだが、従姉妹は平気で付き合っている。彼女が芝居の話をしていると、不意に電話が鳴った。だが微かに聞こえてくるだけで、正常な音ではない。どうやら不具合が生じているようだが、奥さんはびくっとした。
「電話は1週間前に来たばかりなんだけど、あまり好きになれないの」
「気にしちゃ駄目」従姉妹は笑い飛ばした。「まだ慣れていないんでしょう。交換局に連絡して苦情をいわないと。この世の中では、嫌なことがあったら黙ってないで――」
 従姉妹は奥さんの代わりに電話をかけてやり、事情を説明した。短い会話の後で、彼女は手に受話器を持ったまま奥さんのほうを向いた。
「交換手は恐縮してたわよ。混線か何かみたいね。理由がわからないから、朝まで受話器を外しておいてほしいって。そうすれば鳴らないから」
「私ったら臆病だし、どんくさいし」という奥さん。「でも慣れてないの、田舎には電話なんかなかったから。それに今夜はなんだか落ち着かなくて」
 もう午前1時だ。二人は寝ることにしたが、1時間後にまたもや電話が鳴った。ほとんど聞こえないほど小さく、ためらっているかのような音だったが、徐々に大きくなっていく。奥さんの悲鳴を聞いた従姉妹が駆けつけてきた。
「何事? びっくりしたじゃない」
「また電話が鳴ってるの――すごい音」奥さんは蒼白になって囁いた。「聞こえない?」
 従姉妹も唖然としていた。「何も聞こえないわ」といったものの、あまり自信がなさそうだ。だが受話器を外してあるのだから、鳴るはずがない。
「誰か私に用がある人がいるの。誰かが私と話したがってるのよ」奥さんの声は震えていた。「ほら、聞こえるでしょう!」
 奥さんはいても立ってもいられず受話器を耳に当てたが、従姉妹はなすすべもなく立ち尽くしていた。彼女には何も聞こえなかったのだ。
「あなたなの、ハリー!」奥さんは夫の名前を呼んだ。「どうして、こんな早い時間に? ――ええ、聞こえてます。すごく微かだけど。とても遠いところにいるみたい――何ですって? すばらしい旅行? パリにはいないけど?」
 奥さんは悲鳴を上げて受話器を放り投げ、床に頽れた。
「わからない――死、死だわ……!」
 後でわかったことだが、その晩の午前1時過ぎにイギリス海峡で船舶の衝突事故があり、ハリーも遭難していた。彼は救助されたものの数時間は意識不明の状態で、波にさらわれたときに妻と話がしたいと強く願ったことしか覚えていなかったという。眼を覚ましたとき、彼はフランスのディエップにいた。
 翌日、電話の修理人がやってきた。彼の話によると、昨晩は真夜中から午前3時頃まで交換局で電話線が奇妙な火花を散らしていたが、その理由は誰にも説明できていないそうだ。
「奇妙ですな!」10分ばかり調べてから修理人はいった。「この電話におかしなところはありません。かけた側の問題に違いありませんよ」
 夫の思いが電話線を介して妻のもとに届いたというお話。しっかり者の従姉妹の存在が物語にアクセントを添えている。結末で夫が死んだことにしても成立する話だし、途中の夫婦の会話で嫌な予感がしていたのだが、むざむざ登場人物の命を奪わないのがブラックウッドのいいところだろう。なお、この作品が収録されたTen Minute Storiesはデルフィ=クラシックスから復刊されている。

 6000ページ以上のブラックウッド作品が300円ちょっとで買えるというお徳用電子書籍だ。もちろん公有に帰しているのだろうが、ネット上で公開されていない作品もたくさん収録されているので300円の価値はあると思う。

滅ぶべし

 ロバート=E=ハワードに"Delenda Est"という短編がある。西暦455年にあったヴァンダル族のローマ略奪、その直前の出来事を描いた作品だ。題名は大カトーの言葉として有名な"Carthago delenda est"(カルタゴ滅ぶべし)をもじったものだが、ここではローマが滅ぼされる側に回っている。
 ローマで皇帝ウァレンティニアヌス3世が暗殺された。ヴァンダル族を率いるガイセリックは政情の不安定化に乗じてローマへの進軍を決意し、彼が船上で将領たちと酒を酌み交わしている場面から物語は始まる。
 夜が更けていき、将領たちは酒席を去った。独り船室に残ったガイセリックは最後の一杯を飲み干して寝ようとするが、ふと気がつくと目の前に威風堂々たる長身の男が立っていた。刺客かと思ったガイセリックは剣の束に手をかけるが、その人物は敵意を示さなかった。
「貴様を害しに来たのではない!」と彼はいった。深みがあり、力強く響く声だった。
「何者だ?」とガイセリックは問いただした。
「何者でもよい」というのが返事だった。「貴様がカルタゴで出航したときから俺は乗船していたのだ」
カルタゴでおまえと会ったことはないぞ。おまえのような男が群衆の中にいたら、いやでも目につくだろうに」
カルタゴは俺の故郷だ」と見知らぬ人物はいった。「俺も、俺の父祖たちもあの地で生まれた。カルタゴこそは我が命だ!」
 その気迫に気圧されるガイセリック。自分はカルタゴを首都にしようと考えているのであって、破壊活動を行うよう命令を出したことはないし、もしも兵士のせいで損害を被ったのであれば賠償しようと申し出るが、謎の人物は彼を遮った。
「貴様の兵士どもの仕業ではない」その声は厳しかった。「略奪だと? 貴様のような蛮族ですら夢にも思わぬような略奪を俺は見たのだ! 奴らは貴様を蛮人と呼ぶ。俺が見たのは、文明人たるローマ人の所業だ」
「俺の記憶が正しければ、ローマ人がカルタゴを荒らしたことはないはずだが」と困惑気味のガイセリック。紀元前146年にカルタゴを滅ぼしたのはローマなのだが、600年も昔のことなのでガイセリックにはその知識がないのだろう。
「ローマ人の欲望と裏切りがカルタゴを破壊した」謎の人物は拳を机にたたきつけた。逞しいが、日に焼けていない貴族の手だった。「その後、交易によって新しい姿で再建されたのだよ。蛮人よ、今や貴様がカルタゴの港から船出し、その征服者を打ちのめすのだ!」
「誰がローマを打ちのめすなどといったのだ?」さすがのガイセリックも落ち着かない様子だ。「帝位の継承を巡って揉め事が起きたから、俺はその仲裁をしに行くだけで――」
「俺のいっていることが貴様にわかるなら、舳先を再び南に向ける前にあの呪われた都を根こそぎ掃討するだろうにな。貴様が救援しに行く相手は今も貴様の破滅を画策している――そして貴様の船には裏切り者が乗っているのだぞ!」
「何の話だ?」いつものように感情を見せない声でガイセリックは質問した。
 これが信頼の証だといって謎の人物は一枚の硬貨を机の上に放り投げ、先ほどガイセリックが無造作に投げ捨てた帯を手に取った。アタウルフの部屋までついてくればわかると言われて驚くガイセリック。アタウルフは彼の顧問官にして書記官で、ガイセリックがもっとも信頼する人物なのだ。
「その様子では、俺が思っていたほどには貴様は賢くないな。裏切り者は外敵よりも恐るべきものなのだぞ」
 長身の人物は凄まじいオーラを放ち、ヴァンダル族の王たるガイセリックですら怯むほどだった。彼は紫色のマントを翻して船室を出て行き、ガイセリックが引き留めようとして叫んだのも徒労に終わった。
 かつて戦場で敵の槍に傷つけられた足を引きずりながらガイセリックは後を追ったが、甲板にいるのは見張りの兵士だけだった。ガイセリックは彼を問い詰めるが、神に誓って誰も見なかったと言い張るばかりだ。ガイセリックはアタウルフの船室に向かった。
 アタウルフは死んでいた。首に巻きついているのは、謎の人物が持っていったガイセリックの帯だ。死体のそばにはペンとインクと羊皮紙が転がっている。ガイセリックは羊皮紙を拾い上げて読んだ。ビザンチウムから援軍が到着するまでガイセリックを言葉巧みに引き留めて時間を稼ぎ、彼の艦隊を湾内に入れて殲滅させるとローマの皇后に約束する書状だった。
 もっとも信頼していた腹心の裏切りを知ったガイセリックは羊皮紙を睨みつけた。餓狼と化した彼にはもはやローマに情けをかける気などなかった。謎の人物が机の上に置いていった硬貨を握りしめたままだったことを思い出したガイセリックはその硬貨を眺めた。忘れ去られた言語が刻まれた古の貨幣だったが、そこに彫られている男の顔はカルタゴの遺跡で何度も見たことがあった。ローマがもっとも怖れた名将――
ハンニバル!」
 ガイセリックを助けたのはハンニバルの霊だったという真相が明かされて物語は終わる。「暗黒の男」ではブラン=マク=モーンの霊がターロウ=オブライエンを助けているが、ローマに対する恨みのエネルギーは時を超えて英雄を甦らせるらしい。ローマ嫌いで知られるハワードらしい作品だ。

S.O.S.

 アルジャーノン=ブラックウッドに"S.O.S."という短編がある。初出はThe Story-tellerの1918年3月号。余談だが、この月刊誌にはチェスタートンの「ブラウン神父」も何編か掲載されたことがある。
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 クリスマスの季節、語り手とドロシー(愛称ドット)と彼女のおじはジュラ山脈でスキーを楽しんでいた。昼から滑り続けて午後4時になり、3人は別荘に引き上げる。ドットにはハリーという恋人がおり、彼もいずれ到着するはずだった。待ちきれないドットはスキーを履いて出迎えに行こうとするが、おじさんが制止した。
「休んでおいたほうがいい」と彼はいった。夜のうちに4人で滑って帰る予定なのだ。「途中にはクリュデュヴァンもある。あれはいきなり始まるからな――垂直に切り立っていて、縁が見えないんだ」
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 これがクリュデュヴァンの写真だそうだが、なるほど壮観だ。ドットは少し不満げだったが、おじさんは言い聞かせた。
「ハリーなら迂回してくるだろう。彼はこの辺をよく知っている。私より詳しいくらいだ」
 おじさんは振り向いて口笛を吹き、愛犬を呼び寄せた。大きなセントバーナードなのだが、いつもならいそいそと駆けていくはずなのに、今日に限って動こうとせずに西のほうを向いている。おじさんは気づかないで屋内に入り、犬もやっと後を追った。日が暮れるにつれて寒さが強まり、3人は暖炉の火に薪をくべながらハリーを待った。
「彼の口笛が聞こえたら卵を料理するとしよう」といって、おじさんは愛犬の頭を撫でた。いつもならセントバーナードは彼の胸にじゃれつくのだが、今日は床に伏せたまま低く呻っている。全員が黙りこくってしまい、時間だけが過ぎていった。
 誰かが雪の上を歩いてくる音が唐突に聞こえた。セントバーナードは起き上がり、まるで人間が叫ぶように吠えてドアに飛びついた。ドットが開けてやると、そこにはハリーではない大柄な人物が立っていた。農夫のような出で立ちで、奇妙にも顔が隠されている。影のせいなのか、それとも髪の毛とひげに覆われていたのか――今日に至るまで語り手にはどちらともわからなかった。
 その人はドットのほうに腕を差し伸べて合図をした。とても優しく、まるで子供のように愛嬌のある仕草だった。途端にドットは戸外へ駆け出し、セントバーナードも一緒についていった。
「ちゃんとドアを閉めていかないか! まだハリーは来ていないよ」おじさんが言った。謎の人物はドットと語り手と犬にしか見えていなかったのだ。
 もう戸口には誰もいなかった。スキーを履いたドットは凍てついた斜面を滑り、セントバーナードは案内しようとするかのように彼女のスカートをくわえながら併走していた。
「ブランデーと毛布を頼みます!」
 そう叫ぶと、語り手もクリュデュヴァンに向かった。犬を追い抜いて目的地に着いた彼とドットが見たものは、断崖に向かって滑落しつつあるハリーの姿だった。彼らはハリーの脚をベルトで縛って引き上げようとする。だが3人とも落ちてしまうかと思われたとき、セントバーナードが加勢してくれたおかげで窮地を脱した。おじさんがブランデーと毛布を持って到着するまで、犬はずっとハリーを毛皮で温めてやっていた。
「風の中に声が聞こえたんです」後日ドットは語り手にいった。「私の名前を呼んでいました。あの場所にどうして行けたのかは自分でもわかりません。ずっと眼をつぶっていたような気がしますから」
 というわけで、クリスマスの奇跡のお話だ。この短編が収録されているTongues of Fire and Other Sketchesラヴクラフトもクラーク=アシュトン=スミスも読んだことがあった。ラヴクラフトは1926年8月18日付のダーレス宛書簡で「はっきり失望させられました」と述べているが、一方スミスは1932年3月25日付のダーレス宛書簡で「たいへん気に入りました」と好意的に評している。ラヴクラフトとスミスで意見が分かれてしまったが、ダーレスがどちらに賛成したのか気になるところだ。

せわしない水

 ロバート=E=ハワードに"Restless Waters"という短編がある。
en.wikipedia.org
 ウィキペディアではフェアリング*1の物語に分類されているが、これは正しくない。また初出がSpaceway Science Fictionの1969年9-10月号だというのも間違いで、正しくは1974年に刊行されたWitchcraft & Sorceryの10号だ。なおスペースウェイ誌のほうには「黒い海岸の住民」が載っている。

 1845年の晩秋、ニューイングランドのとある港町。〈銀の上靴亭〉という宿屋で起きた出来事が、そこで働いている少年の眼を通して描かれる。フェアリングの話ではないが、同じモチーフであることは確かだ。
 宿屋には4人の男が集まっていた。主人のエズラ=ハーパー、〈海女〉号のジョン=ガワー船長、セイレムから来たジョナス=ホプキンス弁護士、そして〈猛禽〉号のスターキー船長だ。外ではみぞれが降っており、彼らは暖炉のそばで酒を酌み交わしていた。
「こんな夜に航海するのは寒かろうな」とハーパーがいった。
「海の底で眠っている連中はもっと寒いだろう」といったのはガワーだった。
「トム=サイラーのことなら同情は無用だぞ」といって、スターキーが粗野な笑い声を上げた。
 サイラーはスターキーの船の一等航海士だったが、航海中に叛乱を煽動した罪で吊されたのだ。時は19世紀半ば、まだ海の上では船長の命令が絶対と見なされる時代だった。だがサイラーほど立派な人物がそんな悪人だったと突然わかったとは奇妙なことだとホプキンスは不思議がっていた。ハーパーは話題を変え、ベティの婚礼はいつだったかとスターキーに訊ねた。
「明日だ」とスターキーは答えた。
 ベティはスターキーの姪で、ジョー=ハーマーという男のもとに嫁ぐことになっていた。ハーマーはニューイングランド一の船主といわれる富豪だが、ベティとは親子ほども歳が離れている。ベティにはディック=ハンセンという恋人がいたが、彼は1年前に溺死したといわれていた。
「ジョー=ハーマーはあんたにいくら支払ったのかい?」とガワーが問いただした。
 あわや殴り合いの喧嘩になりかけたとき、当のベティが飛びこんできた。みぞれの降りしきる夜の道を駆けてきたので、ずぶ濡れになっている。ハーマーとは結婚したくないとベティはスターキーに訴えた。
「できないの! 生きていても死んでいても、ディックが私の夫なんだから!」
 いうことを聞かないなら殴り殺してやると脅すスターキー。ガワーが立ち上がって彼を押しとどめ、ハーパーの奥さんがベティを2階に連れて行って着替えさせた。一同が席に戻ったとき、沈黙を破ったのはホプキンス弁護士だった。
 ホプキンスは〈猛禽〉号の乗組員から聞き取りを行い、サイラーが叛乱を企てた事実はないと突き止めていた。破産しかかっているスターキーは大金と引き換えに姪を売り渡し、邪魔になるディック=ハンセンを誘拐させて英国の捕鯨船に乗せたのだ。そのことを知ったサイラーがベティに知らせようとしたので、濡れ衣を着せて縛り首にしたのだった。
 ディック=ハンセンは今アジアの港にいるが、なるべく早く米国に戻るという言伝をホプキンスは受け取っていた。やつが帰ってくる頃には結婚式は終わっているとスターキーはわめくが、急に手から酒杯を取り落として前のめりに倒れた。彼は死んでいた。死因は酒の飲み過ぎだろうということになったが、給仕をしていた少年だけは見ていた。非道な船長が絶命する直前、首に縄を巻きつけたサイラー航海士が窓の外に立っていたのを……。
www.howardworks.com
 この作品をハワードの遺稿の中から発見したのはグレン=ロードだが、題名がわからなかったので便宜的に"Restless Waters"と呼ぶことにしたという。だが"The Fear at the Window"と題する小説を書いたとハワードが1929年2月頃のテヴィス=クライド=スミス宛書簡で述べていることが後に判明し、こちらが本来の題名かもしれないと考えられているそうだ。