新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

ジェンディックの沼

 ジョゼフ=ペイン=ブレナンに"Jendick's Swamp"という短編がある。
 語り手はカークという作家。保安官のクリス=ケリントンが立ち寄ったので、冷えたリンゴ果汁でもてなしているところだ。しばらく世間話をしてからクリスは訊ねた。
「ジェンディック家のことを覚えてるかな?」
 ジェンディックというのは、北の丘の向こうにある沼地に住んでいた一家のことだ。といっても遠い昔のことであり、いまでは一人残らず死に絶えたものと思われていた。なぜ急にジェンディック家の話を? と訊ねるカーク。クリスは言った。
「それが奇妙なんだ。1週間前、ロートンとかいう人がニューヨークから来た。クラークソン家を訪ねてきたというんだが――」
 ロートンは狩猟が趣味で、ライフル銃を携えて北の丘に出かけていった。だが鹿を追いかけているうちに迷ってしまい、沼地の中にある崩れかけた家に辿りついたそうだ。家は無人のようだったが、ただならぬ気配を感じたロートンが振り向くと、窓から誰かが睨みつけていた。野獣のような眼だったが、人間の姿をしていたという。
 クリスはクラークソン家の人から又聞きしただけで、ロートン本人はニューヨークに帰ってしまったので詳しい話を聞くことはできなかった。おおかた浮浪者が廃屋をねぐらにしていて、闖入者を快く思わなかったのだろうとカークは片づけようとするが、クリスは何やら気になっているようだった。
 クリスによると、ジェンディック家の者たちはイスタカなる神を崇拝していたそうだ。クトゥルー神話の知識がある人ならピンとくるだろうが、これはイタカをもじった名前であり、ケイオシアムから刊行されたThe Ithaqua Cycleにもブレナンのこの作品は収録されている。沼地の廃屋を自分で調べに行くとクリスは言い出し、カークも付き合うことにした。
 翌日、クリスとカークは沼地を踏破できるよう胴付長靴を着用して出発した。ジェンディックの家がどこに建っているのか正確な所在は定かでなかったが、二人はさんざん骨を折って目的の場所に辿りつく。その家は荒れ放題で、おまけに耐えがたい悪臭がした。
 クリスは臭気をものともせずに家捜しを開始し、さっさと帰りたいカークも彼の後についていく。地下室には樽や桶が並んでおり、塩水とおぼしき液体に何かの肉が漬かっている。その場にあった熊手でクリスが中身を引っかけて取り出すと、それは人間の腕だった。他の容器を調べても、ぐちゃっとした人肉が詰まっている。列の最後にあった樽は人骨でいっぱいだった。
 二人が愕然としつつ地下室を出ると、亡者のような姿をしたものが階段の上に現れた。その蓬髪は真っ白で、ぼろぼろになったズボンしか身につけていない。そいつは眼をぎらつかせながら叫んだ。
「ジェンディックは死に絶えたと思っとったか? アサ爺は生きとるぞ! うろちょろしおって、おまえらも塩漬けにしてくれるわ!」
 アサ爺と名乗るものは襲いかかってきたが、カークは懐中電灯の光で彼の眼をくらませる。クリスは熊手で武装し、身をかがめるようカークに指示した。案の定、ついさっきまで二人の頭があった場所をめがけて猛烈な勢いで樽が飛んでくる。
 真っ暗な地下室で二人は懐中電灯だけを頼りに敵の姿を探すが、相手は暗闇の中でも眼が見えるらしいので不利だった。アサ爺が現れると、クリスは背嚢をカークの足許に落として彼に告げる。
「32口径だ。中に入ってる」
 カークが大慌てで背嚢の中を探っている間、クリスは敵に立ち向かう。アサ爺は痛覚がないのか、熊手で突き刺されても平気で突進してくるが、間一髪で拳銃を取り出したカークが彼を撃った。さすがに銃弾は通用するらしく、怪人は床にくずおれて絶叫した。
「イスタカ!」
 ジェンディック家の最後の生き残りは二人の目の前でみるみる萎びていき、半ばミイラ化した骸骨になってしまった。それすらも分解しつつあった。
 廃屋から脱出した二人は嵐に襲われた。燃え上がるような輪郭が雷雲を背景にそびえ立ち、光り輝く双眸がカークとクリスを見据えている。嵐の神イスタカだった。
 しかし嵐の勢いは次第に弱まっていき、イスタカの巨大な姿も雲散霧消してしまった。二人は這々の体でカークの家まで辿りつく。それから1週間後、カークのもとにクリスが訊ねてきて、ハートフォード図書館で調べたイスタカの伝承を語った。イスタカは人間や動物を生贄として受け取り、見返りとして信者に加護を与える。とりわけ熱心に崇拝するものは尋常ならざる長寿を得られるということだった。
「じゃあ、あの老人は本当にジェンディック家の人間だったのかい?」
「そうに違いないよ。僕の計算では150歳近かったはずだけどね!」
 いまわの際にジェンディック老人は助けを求め、イスタカはその願いに応えて姿を現したのだろうとクリスは述べた。だがイスタカの信者はジェンディック老人しか残っておらず、彼が死んだことでイスタカの力も失われてしまったのだろう。信仰心と生贄を得られなくなったイスタカはもはや存在できず、最後の力で嵐を起こすことしかできなかったのだろうというのがクリスの考えだった。
「それについては申し訳ないことをしたと思ってるんだ。沼外れの森に掘っ立て小屋があってね、8カ月前そこに浮浪者が住み着いたんだが、周りに迷惑をかけるようなことはなかったので僕は咎めなかった。彼が行方不明になってしまって、掘っ立て小屋を見に行ったら缶詰やクラッカーやコーヒーがたくさんあった。食糧をみんな置いていくなんて変だとは思ったんだが、捜査はしなかったんだ。思うに、彼は沼地に迷いこんでイスタカへの生贄にされたのではないか――そして樽の中の塩漬けにされてしまったのではないか!」
 長々と訳出してしまったが、つまりクリスが沼地の家にこだわっていたのは失踪事件の捜査を怠ったことを恥じ、けじめをつけるためだったわけだ。彼の人柄をさりげなく浮かび上がらせるくだりで、ブレナンならではの丁寧な仕事だと思う。
 クリスは知人に頼んでヘリコプターを飛ばしてもらったが、上空から観察したところジェンディックの家は丘もろとも消え去っていた。カークはいまでもジェンディックの沼地には立ち入ろうとせず、湿地の保全運動を熱心に行っている。何しろ沼がじわじわと南に広がろうとしているのだから……。
 イスタカの力は果たして本当に消え去ったのか、含みを残した幕切れ。初出は1987年に刊行されたDoom Cityというアンソロジーなのだが、この本はグレイストーン=ベイという町を共通の舞台としたシェアードワールド企画で、全4巻のうちの2巻目に当たる。グレイストーン=ベイは人口2万人くらい、ロブスターが名産品ということになっているが、この情報がなくてもブレナンの話を読むのに支障はない。同書に収録されている作品のうち、ロバート=マキャモンの「死の都」には邦訳がある。

血染めの神の跡

 スプレイグ=ディ=キャンプの「血ぬられた神像」はロバート=E=ハワードの作品を改変して主役をコナンに置き換えたものだ。元々の話は"The Trail of the Blood-Stained God"という題名で、一昨日と昨日の記事で紹介した"The Treasures of Tartary"と"Swords of Shahrazar"の前日譚に当たる。当然ながら主人公はカービー=オドンネルだ。
 路地裏の家で男が拷問されている現場をオドンネルは目撃した。詳しい事情はわからないが、見過ごすわけにはいかない。オドンネルは家の中に躍りこみ、囚われている男を救い出して逃がした。
 ハッサンと名乗る男がオドンネルに話しかける。ハッサンはオドンネルの素性を見抜いており、彼が探している財宝のことも知っていた。それは「血染めの神」と呼ばれる神像で、ルビーで覆われているという。ペンブロークという男が発見し、その在処を記した地図をいまわの際にオドンネルに託した。しかし、ホークリンという英国人にオドンネルはその地図を奪われてしまったのだ。
 さっき拷問を行っていたのがホークリンの一味だとハッサンはオドンネルに説明した。拷問されていたのはヤル=ムハンマドという男で、神像の隠されている地域を治めるヤクブ=ハーンの部下だ。ヤクブ=ハーンに気づかれることなく神像の在処へ行くための道をホークリンはヤル=ムハンマドから聞き出そうとしていたのだった。
 一緒に「血染めの神」を手に入れようとオドンネルに持ちかけるハッサン。見るからに胡散臭そうな男だが、オドンネルは手を組むことにした。「血染めの神」が安置されている山中の遺跡を彼らは目指すが、途中でヤクブ=ハーンに見つかって追跡される。逃げるオドンネルたちの前方にはホークリンがいた。前門の虎、後門の狼といったところだが、ヤクブ=ハーンに捕まれば命がないのはホークリンも同じだ。オドンネルはホークリンを説得し、一時的に共闘することにした。
 銃撃戦の結果、生き残ったのはオドンネルとハッサンとホークリンの3人だけだった。何とか逃げ延びた彼らはとうとう遺跡に辿りつく。ハッサンが遺跡の中に入ろうとすると扉が急に倒れ、彼を押し潰してしまった。「血染めの神」は生贄を欲しがるというペンブロークの言葉を思い出したオドンネルはハッサンに注意しようとしたのだが、間に合わなかった。
 オドンネルとホークリンは遺跡の中で「血染めの神」と対面した。話に聞いたとおり、ルビーを一面にびっしりとちりばめた神像だ。その姿を想像してみると、なかなか気持ち悪いものがある。ホークリンは財宝を独り占めしようとオドンネルに襲いかかるが、オドンネルは死闘の末に返り討ちにした。一人きりになってしまったオドンネルの前に現れたのは、ヤル=ムハンマドを連れたヤクブ=ハーンだった。
「これで宝は俺のものだ」とヤクブ=ハーンは笑った。「おい、ヤル=ムハンマド。こいつを殺してしまえ!」
「嫌だ!」とヤル=ムハンマドは拒否する。「あなたが俺にくれたのは過酷な任務とわずかな給料だけだろう? この人は俺の命の恩人なんだ。俺は恩知らずな真似はしないぞ!」
 ヤクブ=ハーンは自分でオドンネルを殺そうとするが、ヤル=ムハンマドは渾身の力で「血染めの神」を持ち上げ、ヤクブ=ハーンに投げつけた。ヤクブ=ハーンは神像もろとも地面の亀裂に転落し、底なしの奈落に落ちていく。呪いの神像は最後の生贄を手に入れ、この世から消え去った。
「アリ=エル=ガジー、あんたが異人だというのは本当か?」とヤル=ムハンマドは質問し、オドンネルが頷くのを見て笑った。「そんなこと構わないさ! 俺だって主人殺しのお尋ね者だしな。あんたの武勇伝はよく聞いているんだ。ついて行ってもいいかい?」
「いいとも! 一緒に行こうぜ!」
 財宝はなくなってしまったが、オドンネルは悔しくなかった。命があれば次の冒険ができるし、かけがえのない朋友に巡り会ったのだから。真実の友情は幾百の宝石よりも尊いものだろう……。カービー=オドンネルのシリーズは裏切りと騙し合いの連続で、息苦しいまでの緊迫感に見ているのだが、そんな中で好漢ヤル=ムハンマドの存在は清々しい。
 この作品もハワードの生前には発表されず、邦訳も未だにない。一方「血ぬられた神像」は東京創元社早川書房の本にそれぞれ収録されている。ディ=キャンプによる改変のほうがハワードの本物よりも有名になってしまうとは、コナンのネームバリューはすごいものだと思わずにはいられない。

シャハラザルの剣

 昨日の記事で紹介した"The Treasures of Tartary"には続編がある。"Swords of Shahrazar"といって、初出はトップノッチ=マガジンの1934年10月号だ。"The Treasures of Tartary"が掲載されたのはスリリング=アドベンチャーズの1935年1月号なので、続編のほうが先に発表されてしまったことになる。
 なぜかウィキソースでは"Swords of Shahrazar"の初出を1976年とし、2071年まで著作権で保護されているという理由で公開していないが、その辺の理由はよくわからない。プロジェクト=グーテンベルク=オーストラリアでは普通に読める。
gutenberg.net.au
 シャイバル=ハーンは死に、シャハラザルの都はオーカン=バハドゥルのものになった。我らが主人公カービー=オドンネルは賓客としてシャハラザルに滞在している。前作でオーカン=バハドゥルを助けたため手厚く待遇されているが、ホラズムの財宝を棄ててしまったことがばれたら首が飛ぶだろう。そんなわけで、オドンネルは安閑としない日々を送っていた。
 刺客がオドンネルを襲った。彼は返り討ちにしたが、その刺客は名前をバベルといって、スレイマン=パシャの下僕だった。スレイマン=パシャというのは、前作でシャイバル=ハーンとインド征服計画を練っていた人物だ。シャイバル=ハーンの次はオーカン=バハドゥルに取り入り、相変わらずシャハラザルに居座っていた。スレイマン=パシャの背後で糸を引いているのはロシア帝国、もしかすると彼自身もロシア人なのかもしれない。
 オドンネルの部屋の前で死体が見つかれば騒ぎになるだろう。悶着は起こさないに限る。オドンネルはバベルの巨体を担ぎ、宝物殿へ運んでいった。死体を始末するのに宝物殿の仕掛けを利用しようというのだ。オドンネルは死体の宝物殿の床に横たえ、槓杆を引いた。床が割れ、死体は地底の川へと落ちていく。
 人の気配を察知したオドンネルが振り向くと、そこに立っていたのはスレイマン=パシャだった。もっとも危険な人物に秘密を知られてしまったのだ。拳銃を突きつけられ、さすがのオドンネルも動くことができない。
「貴重な従僕を失う羽目になったが、おかげで謎が解けた」とスレイマンはいった。「どうして貴様が財宝を棄てたのか、わけがわからんな。そこまでシャイバル=ハーンに忠義立てしたかったか」
 シャイバル=ハーンに義理があったわけではなく、財宝が群雄の手に渡ってはアジアの平和が危ないと思ったからなのだが、オドンネルは黙っていた。オーカン=バハドゥルには黙っておいてやるから自分に協力しろとスレイマンはオドンネルを脅迫する。
「貴様にやらせる仕事がある」とスレイマンはいった。「英国の情報部員が丘陵地帯で死んだ。そいつの持っていた機密文書を手に入れろ」
 スレイマンはオドンネルを連れ、オーカン=バハドゥルに会いに行った。オーカン=バハドゥルは文書を回収するために50人の兵士を差し向けることにし、スレイマンの勧めでオドンネルを隊長に任命する。オーカン=バハドゥルの居室を出たオドンネルにスレイマンは耳打ちした。
「いいか、文書はオーカンではなく私によこすのだぞ」
「オーカンは立腹するに決まっている」とオドンネルは言い返した。
「ホラズムの財宝がどうなったかを知ったときの怒りに比べれば些細なものだろう」
 逆らうわけにはいかない。オドンネルは兵士たちを率いて出発した。オーカン=バハドゥルは部下に対して気前がいいので、兵士の馬も銃も非常に上等なものだ。物々しい出で立ちではあるが、丘陵地帯を治めるアフメド=シャーはオーカン=バハドゥルと友好関係にあるため、それほど困難な任務ではないはずだった。
 アフメド=シャーの領地に入ったオドンネルと部下たちは戦闘に遭遇した。100人ほどの集団が塔を包囲し、立てこもっている連中と銃撃戦を繰り広げている。塔に立てこもっているのがアフメド=シャーの側だろうと判断したオドンネルは彼らに加勢することにし、塔を包囲している奴らを背後から急襲するよう兵士たちに命令した。
 敵は倍の数だったが、オドンネルの巧みな指揮によって虚を突かれ、敗走する。援軍が現れたのを見て、男たちが塔から出てきた。その先頭に立っていた大男にオドンネルは挨拶し、訊ねる。
「あなたがアフメド=シャーか?」
「アフメド=シャーなら4日前にくたばったよ」ハイエナのような声で大男は笑った。「俺はアフザル=ハーンだ。殺し屋と呼ぶやつもいるがな」
 アフザル=ハーンはアフメド=シャーを殺して彼の領地を奪ったのだが、わずかな供を引き連れて見回りをしている最中、アフメド=シャーの配下の逆襲に遭った。そうとは知らないオドンネルは彼に加勢してしまったのだ。
ウルドゥー語は読めるか?」急にアフザル=ハーンは訊ねた。
「読めるぞ」とオドンネルは答える。
「アフメド=シャーのやつが文書を持っていた。ウルドゥー語だと思うんだがな」
 死んだ英国人が持っていた文書はアフメド=シャーの手に渡り、それをアフザル=ハーンが横取りしていた。捜し物の在処がわかって一歩前進といったところだが、アフザル=ハーンは道義をわきまえない非情な男だ。オドンネルが助けてやったことなど歯牙にもかけないどころか、いつ寝首を掻こうとしてもおかしくない。
 夜になり、アフザル=ハーンの勧める場所でオドンネルと兵士たちは露営することになった。数百ヤード離れたところに厩舎があり、そこで馬が飼葉をもらっている。すでにアフザル=ハーンの手下が集まってきており、攻撃されたらひとたまりもないだろう。兵士たちも不安げな様子だった。
(しかし敵意があるなら、もっと早く襲うこともできたはずだ。そうしなかったのはなぜだ?)
 夜が更けていく中、オドンネルはアフザル=ハーンの意図を量りかねていた。この場面の描写はまことに緊迫した雰囲気で、八方塞がりに陥った主人公の心情が伝わってくる。派手さはないものの、作家としてのハワードの力量を示すくだりといえるだろう。その時、近寄ってくる人影を見てオドンネルは銃を突きつけた。
「ちょっと待った! 俺だよ」それはオドンネルの朋友ヤル=ムハンマドだった。「あんたに知らせたいことがあってな、こうして忍びこんできたんだ。アフザル=ハーンはあんたたちを皆殺しにする気だぞ」
「いったい何が理由なんだ? なぜ、いままでは手出しをしなかった?」
「名馬が50頭いて、ライフル銃が50丁あれば立派な理由になるさ! ここじゃあ火縄銃のために親兄弟を殺すのですら当たり前なんだぜ」とヤル=ムハンマドは説明する。「手出しを控えたのも、馬が厩舎に入るまで待ってただけだ。せっかくの名馬が巻き添えで死んだらもったいないからな」
「それで、おまえさんに何か策はあるのかい?」とオドンネルは訊ねた。
「策だって? 俺に策なんかあるわけないだろ! 俺は、知恵のあるやつについていくだけだよ」
 知恵のあるやつというのはオドンネルのことらしい。朋友に危機を知らせるため死地に飛びこむヤル=ムハンマドの男気はあっぱれの一語に尽きるが、オドンネルは切り抜ける手立てを今から考えなければならない。人数には圧倒的な差があるので、夜が明ける前に機先を制して攻撃する以外に活路はなかった。
 堡塁の内側で露営しているアフザル=ハーンの手下にオドンネルたちは奇襲をかけた。不意打ちされて算を乱した敵は敗走し、塔の中にいたアフザル=ハーンも異変に気づいて脱出しようとする。オドンネルは追いすがったが、アフザル=ハーンは彼を撃ち、逃げてしまった。オドンネルが殺されたと思ってヤル=ムハンマドは泣き叫んだが、彼は無事だった。銃弾はベルトのバックルに当たっただけだったのだ。オドンネルは機密文書を求めて塔の中を捜し回ったが、見つからなかった。
「文書ならアフザル=ハーンが肌身離さず持っていたよ」とヤル=ムハンマドが教えてくれた。「あいつには読めないんだけど、値打ちものだと思っているみたいだね」
 オドンネルたちは堡塁の占拠に成功した。戻ってきた敵が堡塁を取り囲んだが、状況は少なくとも絶望的ではなくなっている。ぶんどった食糧がたっぷりあるし、きれいな水が出る井戸も確保した。敵に比べれば弾薬も豊富だし、堡塁の中に立てこもっていれば戦える。だが、出発したとき50人いた部下は41人に減ってしまっていた。
 戦闘が始まった。敵は数にものをいわせて押し切ろうとするが、オドンネルに率いられた兵士たちは勇敢に戦って突破を許さない。厩舎の中にいる馬を奪おうと近づくやつもいるが、たちまち格好の的になって撃ち殺されるばかりだ。その時、アフザル=ハーンが大声で呼ばわった。
「おおい、撃つのを止めろ! 話がある!」
「出てこい!」とオドンネルは叫び返した。
 アフザル=ハーンが姿を見せた。武器は持たず、たった一人で堡塁のほうへ歩いてくる。オドンネルなら、いきなり撃ってくるような真似はしないと信用しているのだ。悪党ではあるが、さすがに肝の太さはたいしたものだった。
「おまえらに勝ち目はないぞ。だが、このまま争いを続ければ、こちらも犠牲が増える」とアフザル=ハーンはいった。「そこで取引をしようというのだ。銃を置いて立ち去れ。そうすれば見逃してやる」
「アフザル=ハーンが約束を守るようなら、インダス川が逆流するわい」とオドンネルは一蹴した。「俺たちに勝ち目がないだと? 本当になかったら貴様は取引を持ちかけたりせず、さっさと皆殺しにするだろうよ!」
「生皮を剥いでやるぞ!」アフザル=ハーンは吠えた。「息の根を止めるまで包囲を続けてやるからな!」
「こっちが出て行けないにしても、そっちも入ってこられないだろう。俺たちにかかずらっている間に、アフメド=シャーの残党に背後を突かれるかもしれないしな」とオドンネルは言い返す。「お互い手詰まりというわけだ。どうだ、一騎打ちで決めないか? こっちが勝てば、俺たちは邪魔されずに立ち去っていい。そっちが勝てば、俺の部下たちは貴様の好きなようにしていいぞ」
 アフザル=ハーンは同意し、彼らは決闘することになった。アフザル=ハーンは猛り狂って刀を振り回すが、オドンネルはかわしながら巧みに間合いを詰め、長刀と短刀の二刀流でアフザル=ハーンを討ち取る。アフザル=ハーンの手下どもは仁義もどこへやら、一斉に襲いかかってきた。ヤル=ムハンマドは獅子奮迅の戦いぶりでオドンネルを庇い、攻めあぐねた敵は退却する。
 アフザル=ハーンの亡骸から回収した機密文書をオドンネルは読んだ。それはウルドゥー語ではなくロシア語で書いてあり、スレイマン=パシャと名乗る男の陰謀について報告するものだった。彼は単なる間諜ではなく、己の野望のためにアジア各地で争乱を起こそうとしていたのだ。
「やつら仲間割れを始めたぞ」とヤル=ムハンマドがいった。「アフザル=ハーンがいる間だけ、かろうじて団結できてたんだな」
 ヤル=ムハンマドのいうとおりだった。ばらばらになった敵は逃げていく。かくなる上は一刻も早く出発し、機密文書を政府に届けてスレイマンの野望を打ち砕かなければならない。しかし――とオドンネルは思った。俺が兵士たちを見捨てていったら、彼らはシャハラザルに帰る途中で野垂れ死にしてしまうだろう。彼らをそんな目に遭わせるわけにはいかない、俺は隊長なのだ!
 この場面は圧巻だ。大事の前の小事などというが、オドンネルにはどちらも選べなかった。アジアの平和を守るという大義。自分を信じて戦った兵士たちの面倒を最後まで見なければならないという使命感。オドンネルは板挟みになって苦悩するが、事態は意外な方向から打開された。スレイマン=パシャが現れたのだ。
「さて、文書をこちらへ渡してもらおうか」オドンネルに拳銃を突きつけて、スレイマン=パシャはいった。「私はシャハラザルには戻らず、このまま南方へ行く。そこでする仕事があるのでな。貴様も私についてくるのだ」
「お断りだ、この豚野郎!」怒りのあまり、オドンネルは英語で叫ぶ。
 オドンネルのことをクルド人とばかり思っていたスレイマン=パシャは呆気にとられた。その一瞬の隙にオドンネルの短剣が閃き、スレイマン=パシャはめった刺しにされて斃れる。わざわざ自分で出向くあたり、いかにスレイマン=パシャが他人を信用していなかったかが窺えるが、その猜疑心の強さが命取りになったといえるだろう。
 オドンネルはふらふらと立ち上がった。馬蹄の音とともに兵士たちが近づいてくる。ヤル=ムハンマドの笑い声が聞こえた。オーカン=バハドゥルがオドンネルの秘密を知ることはもう決してなく、シャハラザルに戻っても彼を怖れる必要はない。オドンネルは短剣を鞘に収め、微笑したのだった。
 お宝が目当てでシャハラザルにやってきた主人公が、より巨きなもののために戦うようになるという物語だ。コナン・カル・ブラン・ケインをハワード作品の四大ヒーローというそうだが、人間らしさという点においてカービー=オドンネルは彼らより勝っているかもしれない。

韃靼の黄金

 昨日までエル=ボラクのシリーズを紹介していたが、アフガニスタンを舞台にした作品をロバート=E=ハワードは他にも書いている。"The Treasures of Tartary"はスリリング=アドベンチャーズの1935年1月号を初出とし、現在はウィキソースで原文が公開されている。なおデルレイの作品集では"Gold from Tartary"という題名になっている。
en.wikisource.org
 主人公はクルド人アリ=エル=ガジーと名乗っているが、その正体はカービー=オドンネルという米国人。エル=ボラクことフランシス=ゼイヴィア=ゴードンに似たキャラだが、正義と平和のために生きるゴードンに比べるとオドンネルのほうが人間くさい。
 オドンネルはシャハラザルの街にいる。シャハラザルの支配者シャイバル=ハーンの宮殿には莫大な財宝があるという噂だった。ホラズムがモンゴルに滅ぼされる直前、王家のものが隠した金銀や宝石をシャイバル=ハーンは見つけ出したのだ。そのお宝を頂戴してやろうというのがオドンネルの狙いだった。
 背の高いトルコ人が路地裏で数人の男に襲われ、応戦しているのをオドンネルは目撃した。襲撃者の中にはオドンネルの仇敵ヤル=アクバルもおり、頭に血が上ったオドンネルは戦いに加わってトルコ人に助太刀する。オドンネルのおかげで命拾いしたトルコ人は「恩に着るぞ」と言い残して姿を消した。
 自分が左手に何かを握っていることにオドンネルは気づいた。それは楕円形をした金の延板で、謎の記号が浮彫になっている。乱闘の最中、敵の一人が首にかけていたのを無意識のうちにもぎ取っていたらしい。オドンネルが情報収集のために娼館へ行くと、そのしるしを見た女郎は恐れおののいて平伏した。どうやらシャイバル=ハーンの腹心の部下であることを証明するものだったようだ。
 シャイバル=ハーンの側近になりすましたオドンネルは堂々と宮殿に入りこんだ。家老のアフメド=パシャがオドンネルを見かけ、客人と面会するシャイバル=ハーンを物陰から警護するよう命令する。やってきた客人は欧州の言語を使い、ホラズムの財宝を軍資金としてペルシアとインドを征服する計画を語った。思慮の浅いシャイバル=ハーンを操り、アジアに大乱を起こそうとしているのだ。
 宮殿にヤル=アクバルが現れ、部下の一人が殺されて宝物殿の管理者のしるしを奪われたとアフメド=パシャに報告した。偽物であることがばれたオドンネルは追いかけ回されるが、ちょうどそのときオーカン=バハドゥルと彼の手下たちがシャハラザルに攻めてきた。オドンネルはどさくさに紛れて宝物殿に辿りつき、一人で財宝を守っていたアフメド=パシャを斃す。
 シャイバル=ハーンとヤル=アクバルも宝物殿にやってくる。もはやシャハラザルは陥落寸前だった。シャイバル=ハーンは民衆に愛想を尽かされていたらしく、内部からオーカン=バハドゥルを手引きしたものがいたのだ。死んでもオーカン=バハドゥルに財宝は渡さぬというシャイバル=ハーン。
「この槓桿を引けば、すべての財宝がたちまち地底の川に落ちるようになっている。どうせ死ぬなら、誰の手にも届かぬところに財宝を送ってやるわい」
 しかし財宝をオーカン=バハドゥルに渡して命乞いをしようと考えていたヤル=アクバルは、背後からシャイバル=ハーンを刺した。裏切りに裏切りを重ねる彼を見て堪忍袋の緒が切れたオドンネルはヤル=アクバルに決闘を挑み、勝利を収める。
 いまやオドンネルの前には財宝の山があるが、それを隠したり持ち出したりする余裕はなかった。オーカン=バハドゥルが財宝を手に入れれば、シャイバル=ハーンと同じことを企てるかもしれない。そんなことになれば、大勢の人々が戦乱に苦しむだろう。意を決したオドンネルは槓桿を引き、ホラズムの財宝は遙かな地底へと落下していった。
 シャハラザルは占領されたが、オドンネルに手出しをするものはいなかった。彼が路地裏で助けたトルコ人こそはオーカン=バハドゥルに他ならなかったのだ。ホラズムの財宝が見つかったら分け前をやるぞとオーカン=バハドゥルは上機嫌でオドンネルに約束する。それを聞いたオドンネルは「見つかるものならな」と心の中で呟いたのだった。
 ……という話だ。オドンネルにとっては一文の得にもならなかったが、アジアの平和は守られた。宝物に眼がないオドンネルだが、その彼がクライマックスで私利私欲よりも大義を優先させる姿が格好いい。完璧超人のエル=ボラクよりも親しみが持てるキャラかもしれない。

白狼の息子

 ここしばらくエル=ボラクの話をしてきたが、今日が最後になる。ロバート=E=ハワードの"Son of the White Wolf"はスリリング=アドベンチャーズの1936年12月号を初出とし、現在は原文がウィキソースやプロジェクト=グーテンベルク=オーストラリアで無料公開されている。
en.wikisource.org
gutenberg.net.au
 時は1917年、第一次世界大戦の最中だ。オスマン=パシャというトルコ軍の将校が突如として上官を殺害し、100人ほどの兵士を率いて戦線から離脱した。イスラム教を棄てて父祖の教えに立ち返るべきだとオスマンは主張し、白い狼の頭部を染め抜いた旗を掲げさせる。
「男は殺し、女は奪え。新しい民族を創出するのだ!」とオスマンは叫んだ。
 オスマンと部下たちはエル=アワドという小さな村を襲撃し、男性を皆殺しにして女性を連れ去る。その村に滞在していたドイツ帝国の敏腕スパイ・オルガ=フォン=ブルックマンも捕えられてしまった。エル=ボラクことフランシス=ゼイヴィア=ゴードンは朋友のユセフから一部始終を聞く。
「エル=アワドの民でアラビアのために戦ったのは俺だけだった。他の者たちはトルコの側についたが、それなのにトルコ兵が村を襲ったんだ! 俺は故郷を守ろうと戦ったが――この有様だ」ユセフも虫の息だった。「エル=ボラク、お願いだ! どうか仇を!」
「約束するぞ」とゴードンはいった。それを聞いて、ユセフは安心したように息を引き取る。
 トルコに友好的な村で虐殺を行うとは尋常ではない。正規軍ではなく、無法者と化した連中の仕業に違いないと考えたゴードンはオスマンを追跡する。道中、彼が見たものは頭を割られた幼児の死体だった。エル=アワドの女性が懐にこっそり抱いていたのを兵士が見つけ、取り上げて殺害したのだ。エル=ボラクのシリーズの中でも、この作品は特に凄惨だ。
 オスマンに追いついたゴードンは不意打ちによってオルガを救出した。ドイツの諜報員であるオルガにとってトルコは友邦、一方ゴードンはトルコと戦う立場だが、二人はひとまず手を組むことになる。ジュヘイナ族の戦士たちが近くにいるはずだとゴードンは語った。彼らはアラビアのロレンスの部隊と合流しようとしているところだが、理由を話して一緒に戦ってもらおうというのがゴードンの計画だった。
「これは博打だな。賭けるのは俺たちの命だ。乗るかね?」
「最後の一枚までカードを使ってやるわよ!」とオルガはいった。
 しかしゴードンはジュヘイナ族には会えなかった。わずかな差で彼らは出発してしまい、代わりにいたのはトルコ側に与するルワーラ族だった。絶体絶命のゴードンだったが、戦士たちを前に熱弁を振るう。
「諸君、オスマンの所業を許しておいていいものか! 共に戦い、奴らに復讐してやろうではないか!」
 戦士たちは賛成し、彼らに押し切られる形で族長のミトカル=イブン=アリも同意する。ゴードンとオルガの接近に気づかなかった歩哨のムーサという少年をミトカルは処刑しようとしたが、ゴードンが止めた。
「おかげで俺たちは一緒に戦うことになった。これも神の思し召しだろう」
 命を救われたムーサはゴードンに感謝し、彼にミトカルの魂胆を明かす。ミトカルは従僕のハッサンに命じ、オスマンとの戦いに勝った後でゴードンをこっそり射殺しようとしていた。エル=ボラクは戦死したと言い繕おうというのだ。
 オスマンと部下たちが現れ、戦いが始まった。ハッサンは戦いの最中に斃れ、ミトカルも死んでいった。ゴードンは容赦なく刃を振るい、ついにオスマンを討ち取って復讐を果たした。
「もう君は安全だ」とゴードンはオルガにいった。「ルワーラ族にトルコ軍の基地まで送り届けてもらえばいい」
「じゃあ私を逃がしてくれるの?」
「だって本当は味方だろう?」
 オルガは実の名をグロリア=ウィロビーといって、ドイツと英国の二重スパイだった。偽の情報を流してトルコを混乱させることが彼女の真の任務であり、ゴードンはそのことをとっくに知っていたのだと語られて幕となる。
 エル=ボラクの物語を作中の時系列に沿って並べれば、この作品が掉尾を飾ることになると見ていいだろう。なお、この出来事から2年後の1919年、アフガニスタンは英国との戦争に勝って外交権を回復し、完全独立を達成した。その戦いにおいてエル=ボラクがいかなる活躍をしたのか、ハワードも何も語っていないようだ。

三尖の災厄

 スプレイグ=ディ=キャンプは1955年に「焔の短剣」を発表したが、これはロバート=E=ハワードの"Three-Bladed Doom"を書き直して主役をコナンに差し替えた作品だ。では元々の主人公は誰だったのかというと、エル=ボラクことフランシス=ゼイヴィア=ゴードンである。
 ゴードンの朋友である族長バベル=ハーンは独立色が強く、アフガニスタンの国王からは危険人物と目されていた。国王がバベル=ハーンを討伐しようと企てていると知ったゴードンは、バベル=ハーンに恭順を表明させることによって争いを回避しようと首都カブールを発った。
 一方、王宮では正体不明の刺客が国王を襲撃していた。からくも難を逃れた国王は、刺客の持っていた短剣の刃が三つ叉になっているのを見て恐れおののく。南アジアや西アジアの各地で猛威を振るっている暗殺団の象徴に違いなかったからだ。すでに何人もの王や首長が凶刃の犠牲になっていた。
 バベル=ハーンに面会したゴードンは説得を試みるが、彼は頑なだった。そこへカブールからラル=シンが到着し、国王が暗殺団に狙われているとゴードンに告げる。ロシア帝国ドイツ帝国が陰で糸を引いているのではないかと疑うゴードン。
「ところで」とバベル=ハーンが話題を変えた。「見知らぬ男が崖から落ちて死にかけているのが見つかってな。結局、意味不明なことを口走りながら死んでしまったのだが、悪魔憑きだと村人が怖がってのう。とりあえず骸はそこの小屋に寝かせてあるよ」
 ゴードンたちは死体を見に行った。その男はモンゴル系とおぼしき外見で、三つ叉の短剣が染め抜かれた肌着を身につけている。これは暗殺団の一員ではないかと思ったゴードンは、男の発見された場所を検分することにした。その場所の先にあるのはグーリスタンと呼ばれる地で、祟りがあると信じられているため誰も立ち入ろうとしない。ゴードンがカブールに帰ってくることが国王の望みだったが、彼は仲間たちとともにグーリスタンへ乗りこんでいく。
 野営しているゴードンたちをさっそく敵が襲撃した。アフメッド=シャーは殺され、ラル=シンは連れ去られてしまう。バベル=ハーンに援軍を要請するようゴードンはヤル=アリ=ハーンに言いつけ、独りで先に進んだ。
 ゴードンが崖を登ると、そこにあったのは壮麗な街だった。警護に当たっていたクルド人の一団がゴードンを取り囲む。しかし彼は怯まず、彼らの頭目のユスフ=イブン=スレイマンという男に話しかけた。
「俺もこの都で暮らしたいのだ。首長のところへ連れて行け」
 街の名はシャリザハルといった。ゴードンはユスフらに連れられて市内に入り、首長のオスマン=エル=アジズと面会する。ゴードンの侵入を許したユスフと手下たちは警戒を怠ったと咎められ、牢に入れられてしまった。エル=ボラクの名声は天下に鳴り響いており、彼を味方に引き入れることができれば大きな戦力になると考えたオスマンは己の野望を明かす。
「かつて暗殺教団を率いて怖れられた〈山の老人〉、わしはその末裔なのだ。暗殺教団を再興し、アジアを支配することこそがわしの目標だ!」
 しかしオスマンはゴードンの処遇をすぐに決めようとはせず、バギーラすなわち〈豹〉と呼ばれている人物の到着を待つことにした。どうやら彼は自分で豪語しているほどの大物ではなく、裏で何者かに操られているようだ。シャリザハルの建設には莫大な費用が必要なはずだし、やはり西欧列強が策動しているのではないかとゴードンは考えた。
 ゴードンは個室に案内されて御馳走を振る舞われるが、肌も露な格好をした少女がそこに入ってきた。彼女を見て驚くゴードン。少女はアジズンといって、ゴードンの親友の妹だったのだ。自分はデリーで拉致されてシャリザハルに連れてこられ、性奴隷にされたのだとアジズンは語りました。同じような目に遭っている娘が大勢いると聞かされてゴードンは怒りを燃え上がらせ、シャリザハルから邪悪を一掃せずにはおくものかと誓う。
 ラル=シンの囚われている場所をアジズンに教えてもらったゴードンは彼を密かに脱獄させ、何食わぬ顔で自分の部屋に戻った。しかし現れたバギーラを見たゴードンは潜入作戦の失敗を悟る。バギーラの正体はゴードンの宿敵イワン=コナチェフスキーだったのだ。案の定コナチェフスキーはいった。
「エル=ボラクが我々に寝返るはずがない。スパイに決まっている」
「貴様が仕えているのはロシア皇帝か――それとも他の誰かか?」とゴードンは訊ねた。
「今さら知って何になる?」
 コナチェフスキーほどの悪党が一介のエージェントに甘んじるはずもなく、自らアジアに覇を唱える帝王たらんとしているのだろうとゴードンは考えたが、詮索している暇はなかった。ゴードンは不意を突いてコナチェフスキーを殴り倒す。しかし所詮は多勢に無勢、もはやこれまでかと思われたとき、駆けつけてきたラル=シンが敵に銃弾を浴びせた。彼の助太刀を得たゴードンは部屋から脱出する。
 ゴードンが庭園に逃げこむと、なぜか敵は後を追おうとはせず、ひとしきり彼を嘲笑してから引っこんでしまった。砕かれた骸骨があちこちに散らばっており、庭園は一種の処刑場として使われている模様だ。果たせるかな、巨大な白猿が現れてゴードンに襲いかかった。この怪物を斃したゴードンは、ヤル=アリ=ハーンとの合流をラル=シンに指示する。
「しかし、あなたはどうするのですか?」とラル=シンは訊ねた。
「俺は宮殿の中に戻り、君たちを迎え入れるための準備をする」
「無謀すぎます、なぶり殺しにされてしまいますぞ! それに、引き返そうにも手立てがありません」
「そうでもないさ。あの白猿は人間を殺すが、喰いはしない。やつが食べるのは植物性のものなのだ。だから誰かが必ず給餌のために扉を開けるはずだ。その隙に入りこむ」
 ゴードンの読みは当たっていた。ラル=シンを送り出した彼が出入口のそばで待っていると、白猿に与える果物や野菜を持った男が扉を開ける。男の首をへし折って宮殿に潜入したゴードンがアジズンを助け出そうと牢屋へ向かうと、そこにはユスフと手下どもがいた。任務失敗のかどで処刑されるのを待っているのだが、オスマンの非道な仕打ちに怒り狂っている。ゴードンはいった。
オスマンが君たちに与えるものは惨めな死だけだろう。俺と共に来れば、栄光ある死と復讐の機会を約束するぞ」
「部族の名誉にかけて誓うぞ、エル=ボラク!」彼らは一斉に返事をした。
 ユスフたちを牢獄から出したゴードンはオスマンの部屋に乗りこんだ。オスマンはアジズンを自ら拷問しようとしているところだったが、そこに飛びこんでいったゴードンは彼を一刀のもとに斬り捨てる。小悪党にふさわしく、あっけない最期だった。
「君に重要な仕事を頼みたい」とゴードンはユスフにいった。「俺の仲間が到着したとき、扉を開いて彼らを迎え入れるのだ」
 作戦の成否を分ける任務なのに、成り行きで仲間になっただけのユスフにやらせるとはむちゃくちゃだ。しかしゴードンは彼の心意気に賭けた。ユスフを扉のところに残し、他の者たちは中庭の塔に立てこもる。塔には武器と弾薬がふんだんに備蓄してあって敵を寄せつけないが、コナチェフスキーは破城槌を繰り出してきた。これには対抗する術がない。
「援軍は間に合わなかったようだ」とゴードンはクルド人たちにいった。「もうじき塔の扉が破られる。奴らが階段を上ってきたら一暴れしてやろう。それが俺たちの最期だ」
「神は偉大なるかな!」男たちは凄絶な笑顔で吼えた。「いいとも、ただでは死なないぜ!」
 わけがわからないが、とにかく熱い。その時、一斉射撃の音が聞こえてきた。バベル=ハーンに率いられた援軍がぎりぎりのところで間に合ったのだが、彼らが攻め寄せてきたのはゴードンの予期した搦め手ではなく正面からだった。ゴードンの姿が見当たらないので、彼が死んだと思いこんで頭に血が上ったヤル=アリ=ハーンたちはいきなり突撃してしまったのだ。敵の歩哨が油断していたのは幸運としか言いようがなかった。
 戦闘が始まったが、コナチェフスキーはさすがに狡猾で、バベル=ハーンたちをおびき寄せて殲滅しようとする。塔の上からは戦況がよく見えるが、戦いに加わることができずにゴードンは切歯扼腕した。その時、1階の床に落とし戸があることがわかった。オスマンしか知らない秘密の地下道で塔と宮殿はつながっていたのだ。ゴードンたちが地下道を通り抜けると、その先にはユスフとラル=シンがいた。
「おお、生きていたか!」
「私は万死に値します」とラル=シンはいった。「任務を果たせませんでしたから」
 ラル=シンは足を滑らせて崖から落ちてしまい、しばらく意識を失っていた。その間にヤル=アリ=ハーンたちが攻撃を開始してしまい、合流に失敗したラル=シンはとりあえず手勢をかき集めて宮殿に乗りこんだのだ。そしてユスフと鉢合わせしたところだった。
 ゴードンたちは敵の背後を突き、挟み撃ちにした。ハワードの後期の作品が初期のそれと異なる点のひとつは、集団同士の戦闘が描かれていることだという指摘がある。とりわけエル=ボラクの物語ではそれが顕著だが、統率力においてゴードンはコナン・カル・ブラン・ケインの四大ヒーローをも上回るかもしれない。だが、いま繰り広げられているのは敵味方が入り乱れての乱戦であり、もはや戦術もへったくれもなかった。ただ斬りまくるだけだ。とうとうゴードンとコナチェフスキーは対峙した。
「さあ来い、貴様の命日だ!」コナチェフスキーは哄笑した。ゴードンはライフル銃を棍棒代わりにして彼に立ち向かおうとする。
「いけません、これを!」慌ててラル=シンが剣を渡した。ゴードンとコナチェフスキーは激しく斬り結び、死闘の末にゴードンが一騎打ちを制する。そのとき一発の銃弾が頭をかすめ、ゴードンは昏倒した。彼が息を吹き返したとき、ヤル=アリ=ハーンが号泣している最中だった。
「生きておられたか」ゴードンは血まみれのバベル=ハーンに挨拶した。
「太腿に弾を受けただけよ。何ともないわい」バベル=ハーンはにやりと笑った。「お主こそ死んだものとばかり思ったぞ」
「はん!」さっきまで泣いていたのを忘れたかのようにヤル=アリ=ハーンは得意満面だ。「いわなかったか? エル=ボラクの頭はな、銃弾くらいではびくともせんのだ!」
 ゴードンが周りを見回すと、至るところに敵味方の遺体が散乱していた。戦いには勝ったものの、犠牲は大きかったのだ。ゴードンが悲痛な思いでいると、ユスフがやってきた。折れた剣を携えている。
「エル=ボラクよ、俺は信義に報いたよな?」とユスフはいった。
「報いたとも。だが、なぜ俺に訊ねる? 俺は一度たりとも君の誠心を疑いなどしなかったぞ」
 ユスフは溜息をつき、折れた剣を膝の上に置いて座りこんだ。
「勝ったとはいうものの、これから我らは国王に追われる日々だのう」とバベル=ハーンがいった。
「そんなことはないさ」とゴードンはいう。「暗殺団を滅ぼすという大手柄を立てたのだから。俺はカブールに戻り、あなたをシャリザハルの知事に任命するよう国王に進言してくる。万が一にも却下はされないだろう」
「お主の器の大きさに、わしは自分が恥ずかしいわい」バベル=ハーンは自分のひげを引っ張った。「エル=ボラクよ、お主は皆に福をもたらした。お主自身はどうする?」
「そうだな。ようやく体が動くようになってきたから、負傷兵の看護を手伝わせてもらうか」
「そんなことは、わしの部下にやらせておきなさい。お主は疲れ果てているはずだ」
「何時間か眠れば元気になる。そうしたら、まずアジズンを送っていこう。それからカブールに行って国王に顛末を報告し、あなたを知事にしてもらう」
「その後でシャリザハルに戻ってきてくれるのだな?」
「いや、俺はインドに行く。アジズンを拉致した男に復讐しなければならないからな」
「いやはや、恐れ入ったわい!」
 ゴードンは立ち上がり、ラル=シンとユスフが持ってきてくれた水を受け取った。バベル=ハーンは首を振り、エル=ボラクの勇姿に見入るのだった。
 4万2000語と長めの作品だが、受理してくれる雑誌はなかった。そこでハワードは文章を削って2万4000語に縮めたのだが、短縮版も一向に売れなかった。結局、陽の目を見たのは1970年代になってからだったという。これだけの作品を書いても実らず、挙句の果てに他人が魔改造した代物が先に出版されてしまうとは、さても因果な稼業だ。

イスカンダルの失われた谷

 ロバート=E=ハワードの"The Lost Valley of Iskander"がウィキソースで無料公開されている。発表されたのは1974年なのだが、それでも公有に帰しているらしい。
en.wikisource.org
 この作品はまたの題名を"The Lost Valley of Iskander"といって、エル=ボラクことフランシス=ゼイヴィア=ゴードンが主人公だ。今回の敵はグスタフ=フニャディという男。彼はオーストリア=ハンガリー帝国の貴族の家に生まれた一流の戦士だが、アジア全域に争乱を起こそうと企てる大悪党でもある。フニャディが各地の協力者に宛てて書いた直筆の密書をゴードンは入手した。その文書が明るみに出れば、フニャディの野望は潰え去るだろう。フニャディは直ちに手勢を率いてゴードンを追跡した。
 アフガニスタンの山中でゴードンが追手と戦っている最中に崖崩れが起きた。九死に一生を得たゴードンだったが、崖崩れに巻きこまれた地元の少年を見つける。少年は軽傷だったが、転がり落ちてきた岩に脚を押さえつけられ、起き上がることができなくなっていた。ゴードンは渾身の力で岩を持ち上げ、少年を救出する。少年はお礼をいってバルデュリスと名乗り、ゴードンを自分の村へ連れて行った。その村はアッタロスといって、住人はかつてアレクサンドロス大王が東征した際に従軍した人々の末裔だった。
 アッタロスでは未だにギリシア風の文化が保たれていたが、外部との交流が皆無というわけではなく、アブダッラーという商人が訪れていた。ゴードンはバルデュリスの家で歓待されるが、寝ている最中に拉致されてしまった。アブダッラーと彼の手先がゴードンをフニャディに売り渡そうとしたのだ。ゴードンは手先を殺して脱出したが、するとアブダッラーは彼を殺人の罪で誣告した。
 アッタロスの長プトレマイオスはゴードンの剛力に対抗心を燃やしていたらしく、力比べで正邪を判定しようと言い出す。ゴードンとプトレマイオスは格闘し、ゴードンがかろうじて勝ちを収めた。300人もの部下を率いたフニャディがそこへ攻めてくる。
「最強のものが長になる慣わしなのです。今、プトレマイオスは気絶して動けない」とバルデュリスがいった。「エル=ボラク、あなたが長です。ご命令を」
 とんでもないことになってしまったが、そもそもゴードンがアッタロスの人々を揉め事に巻きこんだわけだ。彼は落とし前をつけることにし、旧式の火縄銃と剣で武装した村人たちを指揮してフニャディの部下に立ち向かった。ついにゴードンとフニャディは対峙した。
「ちっぽけな文書の包みに命をかけてみるか!」フニャディは哄笑した。
 二人は斬り結び、死闘の末にゴードンが勝利する。死の女神が俺の情婦だとうそぶいて息を引き取るフニャディ。彼は悪党ながらゴードンと同等の力を持つ勇士であり、大長編にラスボスとして登場してもおかしくない風格なのだが、それを短編で使い捨てる贅沢さがハワードらしい。
 こうしてアッタロスの民は助かった。意識を取り戻したプトレマイオスはゴードンを真の勇士と認めて彼と和解し、村を守ってくれたことに感謝の言葉を述べる。
「俺は戦いに間に合わなかったので、これしかできなかった」といってプトレマイオスが放ったのは、アブダッラーの首だった。「どうか我々のもとに留まってほしい」
「俺は行かねばならぬ」とゴードンはいう。「何日か休ませてもらったら、道中の食糧を少し分けてほしい。それだけで十分だ」
 アッタロスの人々は高貴なる先祖と同様に勇敢だとゴードンが讃えて、物語は終わる。エル=ボラクのシリーズの中でもとりわけ伝奇色の濃厚な作品といえるだろう。余談だが、ラヴクラフトとハワードの文通では「もしもアレクサンドロス大王が中国を征服していたら」という話題が出たことがある。中国とギリシアの文化が混淆し、中華ヘレニズムとでもいうべきものが花開いていたに違いないとラヴクラフトは1932年5月7日付の手紙に書いている。