新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

イスカンダルの失われた谷

 ロバート=E=ハワードの"The Lost Valley of Iskander"がウィキソースで無料公開されている。発表されたのは1974年なのだが、それでも公有に帰しているらしい。
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 この作品はまたの題名を"The Lost Valley of Iskander"といって、エル=ボラクことフランシス=ゼイヴィア=ゴードンが主人公だ。今回の敵はグスタフ=フニャディという男。彼はオーストリア=ハンガリー帝国の貴族の家に生まれた一流の戦士だが、アジア全域に争乱を起こそうと企てる大悪党でもある。フニャディが各地の協力者に宛てて書いた直筆の密書をゴードンは入手した。その文書が明るみに出れば、フニャディの野望は潰え去るだろう。フニャディは直ちに手勢を率いてゴードンを追跡した。
 アフガニスタンの山中でゴードンが追手と戦っている最中に崖崩れが起きた。九死に一生を得たゴードンだったが、崖崩れに巻きこまれた地元の少年を見つける。少年は軽傷だったが、転がり落ちてきた岩に脚を押さえつけられ、起き上がることができなくなっていた。ゴードンは渾身の力で岩を持ち上げ、少年を救出する。少年はお礼をいってバルデュリスと名乗り、ゴードンを自分の村へ連れて行った。その村はアッタロスといって、住人はかつてアレクサンドロス大王が東征した際に従軍した人々の末裔だった。
 アッタロスでは未だにギリシア風の文化が保たれていたが、外部との交流が皆無というわけではなく、アブダッラーという商人が訪れていた。ゴードンはバルデュリスの家で歓待されるが、寝ている最中に拉致されてしまった。アブダッラーと彼の手先がゴードンをフニャディに売り渡そうとしたのだ。ゴードンは手先を殺して脱出したが、するとアブダッラーは彼を殺人の罪で誣告した。
 アッタロスの長プトレマイオスはゴードンの剛力に対抗心を燃やしていたらしく、力比べで正邪を判定しようと言い出す。ゴードンとプトレマイオスは格闘し、ゴードンがかろうじて勝ちを収めた。300人もの部下を率いたフニャディがそこへ攻めてくる。
「最強のものが長になる慣わしなのです。今、プトレマイオスは気絶して動けない」とバルデュリスがいった。「エル=ボラク、あなたが長です。ご命令を」
 とんでもないことになってしまったが、そもそもゴードンがアッタロスの人々を揉め事に巻きこんだわけだ。彼は落とし前をつけることにし、旧式の火縄銃と剣で武装した村人たちを指揮してフニャディの部下に立ち向かった。ついにゴードンとフニャディは対峙した。
「ちっぽけな文書の包みに命をかけてみるか!」フニャディは哄笑した。
 二人は斬り結び、死闘の末にゴードンが勝利する。死の女神が俺の情婦だとうそぶいて息を引き取るフニャディ。彼は悪党ながらゴードンと同等の力を持つ勇士であり、大長編にラスボスとして登場してもおかしくない風格なのだが、それを短編で使い捨てる贅沢さがハワードらしい。
 こうしてアッタロスの民は助かった。意識を取り戻したプトレマイオスはゴードンを真の勇士と認めて彼と和解し、村を守ってくれたことに感謝の言葉を述べる。
「俺は戦いに間に合わなかったので、これしかできなかった」といってプトレマイオスが放ったのは、アブダッラーの首だった。「どうか我々のもとに留まってほしい」
「俺は行かねばならぬ」とゴードンはいう。「何日か休ませてもらったら、道中の食糧を少し分けてほしい。それだけで十分だ」
 アッタロスの人々は高貴なる先祖と同様に勇敢だとゴードンが讃えて、物語は終わる。エル=ボラクのシリーズの中でもとりわけ伝奇色の濃厚な作品といえるだろう。余談だが、ラヴクラフトとハワードの文通では「もしもアレクサンドロス大王が中国を征服していたら」という話題が出たことがある。中国とギリシアの文化が混淆し、中華ヘレニズムとでもいうべきものが花開いていたに違いないとラヴクラフトは1932年5月7日付の手紙に書いている。