新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

ラヴクラフトのクリスマス

 ラヴクラフトはクリスマスをどのように過ごしていたのだろうか。1932年の暮れに彼が書いたダーレス宛書簡から訳出してみる。

若きサルダナパール――または豪奢なる若き満州皇帝、その宮廷の奇異にして異国情緒あふれる歓楽について黙想するHsuan-Yi-Kiangの肖像写真もありがとう! 深遠な象徴主義の詩文を淡黄色の和紙に書き記し、綴じて薄手の本にすれば、これは口絵にぴったりですよ! きわめて芸術的な構図ですし、これまでに送ってくれたスナップ写真の中で顔の輪郭が一番はっきりして見えます。

 ダーレスから写真を受け取ったらしいのだが、Hsuan-Yi-Kiangとはいったい何者なのか検索しても出てこない。満州皇帝と聞いて真っ先に思い浮かぶのは溥儀だが、1932年の時点では彼はまだ皇帝に即位しておらず執政だった。
 続いて、ホフマン=プライスがモスクワで就職したがっていると友人の近況を語るラヴクラフト。ロバート=S=カーの取り計らいで電気溶接の仕事を得られる見通しが立っていたそうで、モスクワから手紙が届くようになったら自分の隣人たちはさぞかし恐れおののくだろうとラヴクラフトは語っているが、結局この移住は実現しなかった。*1なおカー自身は1938年までソビエト連邦で暮らしてから帰国し、後にロズウェル事件の異星人をでっち上げて歴史に名を残した。さらに余談だが、ホテルに宿泊している最中に所持金が底をついたカーを凶暴な精神病患者に仕立て上げ、彼の法定後見人を装ったファーンズワース=ライトが連れ出して支払いを免れたことがあるとプライスがラヴクラフトに語っていたそうだ。*2
 ダーレスはシカゴ旅行から帰ってきたばかりだったらしいが、ラヴクラフトプロヴィデンスで独り静かに過ごしていた。ところがダーレス宛の手紙を書き終えた直後にニューヨークへ招待されたらしく、追伸でその話をしている。

おやまあ! 予想もしなかったことに、君の都会旅行と似たような話がやってきましたよ! たった今ベルナップの御両親からお誘いがあり、1週間の訪問で急に顔を見せて息子を驚かせようというのです――そこで、バス代も2ドルに値下がりしていることですし、これから私はマンハッタンなる陰鬱な密林に行ってきます……出発するのは午前2時で、到着は午前9時です。クリスマスの晩餐が2回もあるということになりました――1度目は今日の午後に私の叔母と、2度目は明日ロング家で。あの御一家は月曜日にユールの儀式をやるそうです。仲間たちに会えるのが楽しみです――ワンドレイも来てくれるそうですよ。

 深夜から7時間かけて長距離バスの旅とは強行軍だが、いそいそと出かけていくラヴクラフト。バスがロング家のすぐ横を通るため、降りてから歩く必要がなくて非常に楽だったらしい。なお、この年のダーレス宛の手紙はこれが最後ではなかった。ラヴクラフトは12月28日にニューヨークから葉書を送り、イワン=パヴロフが1916年に死去したとするダーレスの勘違いを訂正している。この葉書にはフランク=ベルナップ=ロングも「ずいぶん衒学的だなと思いますが、こういう問題で正確なのは良いことでしょう」と書き添えている。
 そんなわけで、ロングの家に呼ばれながらパヴロフ博士のことを調べるというのがラヴクラフトの1932年のクリスマスだった。翌年1月6日付のダーレス宛書簡によると、このときニューヨークにはタルマン・カーク・ワンドレイ・ラヴマンが集まったそうだ。この年以降、年末年始はニューヨークで過ごして友達と会うのが習慣になったと『H・P・ラヴクラフト大事典』にある。

*1:モスクワからの手紙 - 新・凡々ブログ

*2:O Fortunate Floridian所収の"Memories of Lovecraft"でロバート=バーロウが披露している逸話。