新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

流れ流れて無明の海へ

 Fearie Tales: Stories of the Grimm and Gruesomeという恐怖小説のアンソロジーがある。世界幻想文学大賞を4回も受賞した大物編集者スティーヴン=ジョーンズが手がけた本で、グリム童話をモチーフとしている。収録された作品のひとつがブライアン=ラムレイの"The Changeling"で、6年前に弊ブログで取り上げたことがある。

取り替え子 - 新・凡々ブログ

 グリム童話をモチーフにしたといいつつ、どう見てもクトゥルー神話作品なのだが、ジョーンズにもラムレイを止めることはできなかったのだろうか。それはさておき、今回はニール=ゲイマンの"Down to a Sunless Sea"を紹介させていただきたい。2013年3月22日付のガーディアン紙のために書き下ろされた後、Fearie Talesに収録された掌編だ。なおガーディアンの公式サイトではいまでも全文が無償公開されている。

Down to a Sunless Sea by Neil Gaiman | Books | The Guardian

 題名はサミュエル=コールリッジの「クーブラ=カーン」の一節から借用したものだろう。まったくの余談だが、コロンビア大学病院内科教授のケネス=スターリングがラヴクラフトを偲んで書いた回想記の題名が"Caverns Measureless to Man"で、これも「クーブラ=カーン」が元ネタだ。

 ゲイマンの作品に話を戻すと、物語の舞台はロンドン。主人公の氏名は不詳で、作中では二人称で呼ばれている。冒頭の一段落を訳出してみよう。
テムズ川は汚らしい獣だ。ロンドン市内をうねっていく姿は蛇か海蛇のようだ。あらゆる川がテムズに流れこんでいく。フリート川もタイバーン川もネッキンガー川も、あらゆる汚穢と塵芥を、猫や犬の死骸を、羊や豚の骨をテムズの茶色い水に運びこんでいく。そしてテムズはそれら諸々を東の河口へ流し、その先には北海と虚無があるばかりだ」
 訳しているだけで気が滅入ってきそうだが、雨が降る中でロザーハイズの波止場に佇み、海をじっと見つめる女性がいた。もう何年も波止場に姿を見せては、そうしているのだ。彼女は主人公に眼をとめ、話しかけてきた。いや、灰色の空から灰色の川に降る灰色の水に話しかけているのだ。
「私の息子は船乗りになりたがっていたんだよ」
 なんと返事をしたらいいのかわからない主人公は黙っていたが、彼女はかまわずに話し続けた。主人公は雨音の中で彼女の言葉を聞き逃すまいと身を乗り出した。
「海に行ってはならないよと言ってやったんだ。海は私と違って、おまえを愛さない。海は残酷なんだ。でも彼は言った。母さん、世界を見てきたいんだ。南国で太陽が昇るのを、北氷洋で極光が舞うのを見ないといけない。そして一財産できたら帰ってきて、母さんに家を建ててあげるからねって……」
 彼女の夫も船乗りだったが、海に行ったきり帰ってこなかった。彼の消息は杳として知れず、遭難して死んだのだという者もあれば、アムステルダムで娼館を経営しているという者もいた。
「いつだって同じだ。海は奪っていくんだよ」
 息子は12歳になると家出して波止場へ行き、アゾレス諸島フローレス島へ向かう船に乗りこんだ。その船は祟られているという噂だった。保険金目当てで故意に座礁させられたこともあれば、海賊に襲撃されたこともあり、航海中に疫病が流行して3人しか生き残らなかったこともあったのだ。何かあるたびに船体は塗り直され、人目を欺くために名前が付け替えられていた。
「息子は嵐鴉の船に乗ってしまったんだよ」
 嵐鴉の船(stormcrow ship)とは耳慣れない言葉が出てきた。とりあえず検索してみると、呪われた船を意味するゲイマンの造語ではないかなどという説が出てくる。*1ともあれ船は帰路で嵐に遭い、沈んでしまった。救命艇に乗ることができた者たちの中では彼女の息子が最年少だった。
「くじ引きは公平にやると奴らは言ったけどね、私は信じないよ」
 漂流して8日目、餓えた彼らは少年を食べてしまったのだ。肉を食らい尽くすと骨を海に捨て、海が少年の新しい母親となった。海は涙をこぼさず、何も言わずに骨を受け取った。
「奴らは私の息子の骨を海に与えたけど、船の航海士が――私の夫と知り合いで、ついでに私とも知り合いだったんだ。本当のことを言うと、私の夫が思っていた以上に私と親しかったのさ――彼は一本の骨を形見に持って帰ってきた」
 少年は溺死したことになっていたが、航海士は彼女に真実を語って骨を渡した。
「私は言ってやったんだ。ひどいことをしたね、ジャック。あんたは自分の子供を食べてしまったんだよって」
 その晩、航海士は服のポケットに石を詰めて海の中に入っていった。泳ぐことのできない男だった。
「そこで私は骨を鎖につけて、二人を思い出すよすがにしたのさ。風が波にぶつかって砂浜に転がす夜更けに、風が家々の周りで吠えて赤ん坊の泣き声のように聞こえる夜更けに思い出せるようにとね」
 雨が小降りになる、話が終わったと思ったとき、彼女は首に提げていたものを主人公に差し出した。
「ほら、触ってみるかい?」
 彼女の双眸はテムズ川の濁流のように茶色かった。それを彼女から取り上げて川に投げこみたかったのだが、そうする代わりに主人公は蹌踉とした足取りで帆布の雨覆いの下から出ていった。顔を伝って流れ落ちる雨はまるで誰かの涙のようだった。
 泣きたくなるほど悲しく怖ろしい話。グリム童話をモチーフとしたと最初に述べたが、この作品は「歌う骨」を踏まえている。
Fearie Tales: Books of Horror (English Edition)

Fearie Tales: Books of Horror (English Edition)

付記
 編者のジョーンズは世界幻想文学大賞を4回受賞したと冒頭で申し上げた。すなわち1984年・1991年・2002年・2016年の4回なのだが、世界幻想文学大会の公式サイトでは2002年は候補止まりだったことになっている。しかしローカス誌は2002年11月3日付でジョーンズの受賞を報じ、いまや廃止されたラヴクラフト像を掲げる彼の写真も掲載されているので、おそらく世界幻想文学大会のサイトが間違っているのだろう。*2