空に埋められて
ジョン=シャーリーに"Buried in the Sky"という中編小説がある。冒頭にラヴクラフト&ヒールドの「蝋人形館の恐怖」からの引用が掲げてあり、読者の期待を裏切らずにヨグ=ソトースが登場する神話作品だ。2003年に執筆され、初出はウィアードテイルズの342号(2006年10月/11月号)だという。その後、New Cthulhu: The Recent Weirdなどに収録されている。
主人公はディアナ=ダイアン=バーグストロムという高校生の少女。家族からはディードと呼ばれている。オレゴン州ポートランドに住んでおり、三人兄妹の長女だ。レニーという兄、ジーンという妹がいる。お父さんはライターの仕事をしているが、お母さんは2年前に亡くなった。彼女の死は事故ということになっていたが、グンナー=ヨハンセンという男に殺されたのだとディードは考えている。ディードにはいくらか異能力があり、お母さんを強姦しようとして抵抗されたヨハンセンが彼女を崖から突き落として殺害する夢を前日に見たのだった。しかし警察がヨハンセンを野放しにしているのをどうすることもできず、ディードの一家はロサンゼルスに引っ越すことになった。ロサンゼルスでディードたちが住むことになったのは、ショッピングモールと一体化した超高層マンションだった。巨大なビルの中に理容室や病院まであるので、一歩も外に出ずに暮らすことができる。お父さんは仕事で出張することが多くなり、兄妹は何日も自分たちだけで生活しなければならなかった。ちょうど夏休みの最中だったが、街は危ないから外出してはならないとお父さんは子供たちに言い聞かせる。
ディードはジョニーという少年とショッピングモールで知り合う。たまたまディードが聴いていたのと同じ曲をジョニーのiPodが再生していたので、ディードはうっかり取り違えてしまい、それをジョニーが注意したのがきっかけで仲良くなったのだ。ジョニーはいつもスケボーを持ち歩いている子だった。両親は離婚しており、弁護士の母親と二人で暮らしているそうだ。
ディードの住んでいる超高層マンションが唐突に封鎖されることになり、住民は外出してはならないという通知が届く。ディードたちはかまわずに外に出ようとしたが、警備員に阻まれてしまった。法律違反だと抗議しても聞き入れてもらえず、固定電話が不通になってしまう。レニーが携帯電話を使って警察に通報したが、およそ頼りにならない返事しかもらえなかった。
ジーンの姿が見えなくなった。ディードとジョニーが探しに行くと、ジーンと同じ年頃の子供たちが彼女を取り囲んで指さし、口々に「食らえ、食らえ、食らえ……」と唱えていた。男性用トイレの中に連れて行かれるジーン。ディードとジョニーは後を追うが、二人がトイレの中に踏み込むと誰もいなかった。ディードは自分の部屋に引き返すが、すると今度はレニーが消えていた。このくだりは猛烈に怖い。個人的にはカール=エドワード=ワグナーの「棒」を読んだとき以来の怖さだった。
巨大ビルが封鎖されたのは、ジョニーの母親が姉妹を訪ねるために外出した直後だった。ジョニーは母親と連絡をとろうとするが、一向に応答がない。おばさんに電話で問い合わせても、来ていないといわれてしまう。マンションを封鎖した連中に捕まってしまったのではないかとジョニーは懸念した。
ビルの封鎖はさらに強化され、外出どころか下の階にも行けなくなってしまった。他の住民はおとなしく従っているが、ディードとジョニーは諦めない。施錠されていない通用口を発見した二人は人目を忍びつつ降りていく。二人とも賢くて強い子なのだが、それだけに絶望感がすごい。途中でジョニーは煙草を取り出し、口にくわえて火をつけた。
「禁煙するって母さんに約束したんだけど」とジョニーはいった。「今はかまっていられないよ」
一休みしながらジョニーはディードに思い出話をした。父親の後をつけていったら、彼が浮気している現場に遭遇してしまったというのだ。余計な詮索をしなかったら両親は離婚しなかっただろうと悔やむジョニー。いま先に進むことを彼がためらっているのも、その時のわだかまりを抱えているからだった。怖いわけではない、でも見たくないものもあるんだとジョニーはディードに説明する。ディードもお母さんの話をした。
「誰も母さんの死の真相を突き止めようとしなかった。私はきっとジーンを見つけ出す」
見たくないものもあるというジョニー、見ないわけにはいかないというディード――対照的だが、ディードは独りでも前進しようとする。彼女を一人きりにはさせないとジョニーも同行した。余談だが、この場面でジョニーはディードの肩を抱こうとすらしていない。二人の関係は最後まで友情の段階に留まっているので、からっとした印象の物語になっている。
ディードとジョニーが発見したものは、ピンク色に発光する半透明の触手だった。触手の内部に少年が取りこまれているのが見える。ビルの地下に巣くう怪物がまず人々の意識を支配し、そして次々と捕らえていたのだ。触手の内側に囚われた人々の中にレニーとジーンもいるのが見えたような気がしたが、きっと思い違いだとディードは自らに言い聞かせた。
「下に母さんが見えた」とジョニーはいった。「俺は行かないと」
今度は立場が逆になり、ディードがジョニーについていく番だ。二人はビルの地下へと降りていき、床に空いていた穴の中に飛びこむ。そこには神殿とおぼしきものがあり、虹色に輝く球体の集積物が祭壇の上に安置されていた。まず地底の神殿があり、その上にビルが建てられたのだろうとジョニーは推測する。
またしても床に穴が空いていたが、様子が変だ。それは天井に空いているはずの穴、つまりディードとジョニーが神殿に入るのに使った穴だった。二人がその穴に入ると、上の階に出てしまった。下に降りたつもりが、上に登っていたのだ。ディードとジョニーは階段を上っていくが、上から男女が降りてきた。その二人はディードとジョニー自身、ただし大人になった姿をしている。
「ここは、君たちがいたのとは別の世界だ」大人のジョニーがいった。「時間はこっちのほうが少し進んでいる」
地底の神殿を間に挟んで、二つの世界が向かい合わせになっているのだ。言葉では説明しづらいのだが、鏡像関係にあるといえばいいのかもしれない。地底の神殿に巣くっているものはヨグ=ソトースの顕現だった。しかし大人のディードとジョニーは1年前にようやく神殿の存在を突き止めたばかりで、それまでにヨグ=ソトースが彼らの世界をすっかり侵食しきっていた。
ディードとジョニーはもうひとつの世界を見せてもらう。超高層ビルの窓から見えるのは確かにロサンゼルスだったが、空がない。都市全体の上空が天井で覆われ、そこには「ペットに矮人を」とか「流行の顔を特別価格で移植します」「邪魔な隣人を片づけます」といった禍々しい広告が表示されている。肉体を改造された人々がビルの外壁を這い回り、空を飛んでいる連中もいた。いずれもヨグ=ソトースの影響によるものなのだろうが、描写の不気味さは相当なものだ。
「でも、あいつには弱点がある」と大人のディードがいった。「拒絶する声がたくさん合わさるのが苦手なのよ」
大人のジョニーはジョニーからiPodを受け取って叩き壊し、マイクロドライブを取り出して自分自身の装置に移植した。彼が装置のスイッチを入れると、すごい音が聞こえてくる。iPodに録音されていた無数の音楽が一斉に再生されたのだ。iPodが勝利の鍵とは冗談みたいだが、歌声が旧支配者と戦う武器になるという発想は悪くない。ヨグ=ソトースは最強の神だが、限定的にしか顕現しないので対策の講じようはあるという理屈も説得力を感じさせる。
「やつが来たぞ。その装置を神殿で再生するんだ!」といって、大人のジョニーはジョニーに装置を渡した。「さあ行け! やつは俺たちが引きつける!」
大人のジョニーと大人のディードは口づけを交わす。ディードは当惑して視線をそらし、ジョニーもそうした。ディードとジョニーがあくまでも親友であるのに対し、大人の彼らは恋人同士なのだろう。大人のジョニーと大人のディードは駆け出した。赤と緑の触手がエレベータの中から現れ、彼らに向かって伸びていき……。
「ああ……」とディードはいった。
ディードとジョニーは再び地底の神殿へ降りていき、ヨグ=ソトースと対峙する。ジョニーは装置のスイッチを入れようとしたが、凍りついたかのように動きを止めてしまった。彼の母親の声が聞こえてきたのだ。
「ジョニー、待って! あなたが何をしようとしているのか知らないけど、それをしたら私が罰を受ける!」
「お姉ちゃん、やめて!」ジーンの声だ。
「ディード、待つんだ!」レニーの声も聞こえた。
ディードは決然としてスイッチを入れた。無数の歌声が同時に再生され、咆哮のように響き渡る。人間の怒り・悲嘆・苦悶・反抗・希望――偽りの存在となることを拒む人間の声だ! ヨグ=ソトースは縮み上がり、己の内側に取りこんでいたものを放棄しながら別の次元に退いていった。
「やったのかい?」咳きこみながらジョニーが訊ねた。
「やるしかなかったのよ」とディードは答えた。
ジョニーはうなずき、二人は一緒に地下室を出る。ヨグ=ソトースの虜になっていた人々はぐったりと階段に横たわっていた。疲弊しきっているが、命に別状はなさそうだ。ジョニーの母やジーンやレニーもいた。ほどなく救急車が到着したが、何があったのかを説明できる者はいなかった。ヨグ=ソトースに囚われていた間の記憶は失われていたからだ。
異変の報せを受け取ったお父さんが大急ぎで帰ってきた。ディードたちは巨大ビルを出て、その晩はホテルに泊まった。こうしてヨグ=ソトースの脅威は去ったが、まだディードにはやり残したことがある。3日後、彼女は独りでポートランドへ発った。
お母さんが殺された採石場跡をディードは夜な夜な訪れていた。3日目、彼女の前にヨハンセンが現れた。ディードが予想したとおり、おびき寄せられて出てきたのだ。自分がディードのお母さんを殺したことを彼は隠そうともしなかった。ディードは叫ぶ。
「おまえのことが怖かった。でも、もう怖くない。おまえなんか何でもない!」
ヨハンセンはディードに襲いかかったが、ディードはすばやく身をかわしてナイフを抜き放った。かっこいいのだが、結局ナイフは不要だった。ディードが釣り用のワイヤーで作った罠があらかじめ仕掛けてあり、まんまと引っかかったヨハンセンは崖から転落する。崖の下で彼はうつぶせに横たわり、水たまりに顔を突っこんでいたが、首の骨が折れているので身動きできない。ヨハンセンは苦しみながら溺死した。
ディードは伸びをして罠を片づけ、ハミングしながら街へ向かう。お父さんとジョニーに電話をかけ、もうじき帰ると伝えてから、ディードはバスに乗った――お母さんのお墓にお参りし、仇は討ったと伝えるために。
人間の歌声で旧支配者に立ち向かうという話。変わった作品だと思われるかもしれないが、個人的にはさほど違和感がない。相手がヨグ=ソトースなら、強大ではあっても対抗不可能ではなさそうな気がするのだ。反撃させてくれないという点では、むしろ黄衣の王とかのほうがやばそうだ。