新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

黒い熊が噛む

 ロバート=E=ハワードに"The Black Bear Bites"という短編がある。中国の漢口(現在の武漢市)が舞台、ジョン=オドンネルという米国人が主人公の作品だ。「暗黒の民」の主役もジョン=オドンネルという名前だが、同一人物なのかは不明である。
 ヨタイ=ユンという中国人の大富豪が陰謀を企てており、謎めいた暗黒教団もそれに関与しているらしい。英国の元情報部員ビル=レノンはヨタイ=ユンの屋敷を探ってみることにし、親友のオドンネルとエリック=ブランドに自分の決意を打ち明ける。ブランドはいつもの辛辣な調子で反対したが、レノンは出かけていく。しかし潜入捜査は失敗に終わり、ブランドが予見した通りレノンはめった刺しにされた死体となって揚子江に浮かんだ。
 オドンネルは親友の仇を討つことにし、漢口の郊外にあるヨタイ=ユンの屋敷に赴く。秘密の出入口の番人を気絶させて屋敷に忍びこみ、会合が行われている部屋に近づくと、ヨタイ=ユンに招かれた犯罪界の大物たちが集まっていた。国民政府を転覆させる謀議の真っ最中だ。仮面をつけた男もおり、クトゥルーやヨグ=ソトースの加護で世界帝国を築くのだと説いていた。チンギス=ハーンやティムールも実は旧支配者を崇拝していたのだという。
 息を吹き返した番人が駆けこんできて、曲者が侵入したと報告する。信じて任せた仕事ができないとは失望したと言い放つなり、番人を撃つヨタイ=ユン。ひとまず会合はお開きとなり、後にはヨタイ=ユンと仮面の男だけが残った。
「しかし、あなたもずいぶんと大胆だな」とヨタイ=ユンはいった。「旧支配者の祭司を騙るとは。本物の信徒に知られたらどうするつもりだ?」
「これくらいの刺激がないと、退屈で人生に耐えられん」と仮面の男は応じる。妙に聞き覚えのある声だった。「我々に手抜かりはない。だが我々の計画を阻めるものがいるとすれば、ジョン=オドンネルという男だろうな。やつは熊のように危険だ」
 オドンネルは敵に見つかってしまうが、逃げながら逆襲に転じ、ヨタイ=ユンと仮面の男を撃つ。同時に、中国人の警察官たちが屋敷にどっと雪崩れこんでくる。警官隊を率いているのはオドンネルと顔見知りの人物だった。
「ヨタイ=ユンに撃たれて揚子江に投げこまれた番人が実は生きていたのですよ。そして恨みを晴らすために主人を密告したのです」と、警官隊の指揮官は出動の理由をオドンネルに説明する。ヨタイ=ユンはすでに絶命し、仮面の男も虫の息だった。
「帝国の――夢も――終わりだ――」そういって、仮面の男は息絶える。オドンネルが彼の仮面を剥ぎ取ると、その正体は友人のエリック=ブランドだった。
 これはクトゥルー神話小説の範疇に入るだろうと思うのだが、本物の暗黒教団は登場せず、出てくるのは旧支配者の祭司を騙るペテン師だけだ。ハワードの生前には発表されたことがなく、この作品のことをラヴクラフトが知っていたという形跡も見当たらない。