新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

前途有望な作家、先行き不安な作家

 ラヴクラフトがホフマン=プライスに宛てて書いた1932年11月26日付の手紙から。

実際の生活を描いた文学の話をしましょう――そのような作品を書けるかどうかは、全体としての人間に本物の関心や共感を覚えられるか否かにかかっています。ダーレスはそれができるのですが――私はできません。真正の人間的な文学を書くのであれば、宇宙的な象徴性にも匹敵する甚大な意義を、人々の日々の行動や思考や苦闘に見出せなければなりません――そして人々の行動や思考や苦闘を遺憾なく鮮明に、正確に描けるだけ詳しく直接に知っていなければならないのです。人々が行い、考え、感じていることに実際の宇宙的重要性を感じ取るというのは――そういう行動や思考や感情がロマンチックなものであろうと冒険的なものであろうと――本物の人生を全般にわたって描写する上で決定的なことなのです。

 下手くそな訳で恐縮だが、ダーレスは人間を識る作家だという話をしている。

(思考・会話・感情・外見など一切において)まったく異なる人間に次々と変化しようとする衝動と能力は、本当に実力のある小説家に顕著な特徴です。ダーレスをごらんなさい――彼は頑丈で我の強い23歳の青年ですが、哀しい物思いに沈みながら衰えていく85歳の老嬢に、精神的な意味では実際に一時だけ変わってしまえるのです。その自然な思考・偏見・感情・視野・恐怖・矜恃・精神的傾向・喋り方はことごとく老嬢のものです。ダーレスは年輩の医師にもなれますし――幼い少年にもなれます――あるいは半狂乱の年若い母親にもなれます――どんな場合にも登場人物を完全に理解して共鳴するので、彼の関心や外面や問題や語法はその瞬間だけ登場人物のそれと置き換わってしまい、対応するオーガスト=ウィリアム=ダーレスの性格はすっかり忘れ去られてしまいます。ダーレスは悲愴な気分になれます――あるいは野蛮にも――冷徹にも――剽軽にも――熱心にも――何にでもなれるのです――彼自身の気分がどうであろうと、束の間だけ完璧な真正さをもって気分を変えてしまえます。なぜなら彼は一時的に作中人物になりきり、(ダーレスではなく)彼らが見ているものを見たり、彼らが感じているものを感じたりするからです。

 作中の登場人物になりきることのできるダーレスを本物の作家として高く評価している。これだけなら普通に胸を打つ言葉なのだが、その後の文章が別の意味で興味深い。フランク=ベルナップ=ロングが引き合いに出されているのだ。

私にはできません――私の限界を認識しているので、似ていない登場人物を精緻に描写することは控えるようにしています。ロングにもできませんが――自分の限界がわかっていないものですから、登場人物の性格描写を何ページにもわたって続けようとするのです。何ページ書こうと、賢者や半神から靴磨きや女中に至るまで、その思考・感情・行動・会話はロング本人と瓜二つなのです!

 つまりロングがダーレスよりも作家として劣っていることをラヴクラフトは1932年の時点で見抜いていたというわけで、なかなか冷厳である。その後のダーレスとロングの運命を見ると、ラヴクラフトの言葉は予言的であったといえるかもしれない。
 だが、私はそれでも時折ロングの作品を手に取ることがある。彼はラヴクラフトの親しい友人としてだけでなく、フランク=ベルナップ=ロングという一人の作家として人々の記憶にとどまる値打ちがあると信じていたいのだ。