新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

セットラーの壁

 ロバート=A=W=ローンズの"The Long Wall"がCthulhu Filesで公開されている。
www.cthulhufiles.com
 これは1942年にウィルフレッド=オーウェン=モーリー名義で発表された短編なのだが、後にクトゥルー神話の要素を付け足して書き直されたものが"Settler's Wall"として出ている。この記事では"Settler's Wall"のほうを紹介させていただきたい。
 時は大恐慌の傷跡も生々しい1934年、語り手のクライド=カントレルは相棒のウィル=リチャーズと一緒にコネチカット州で小さな出版社を経営している。経営が軌道に乗ってきたところで、事業をさらに拡張するかどうかを検討する必要が生じた二人は、その問題を考える前にメイン州へ旅行することにした。
 二人はメインの田舎道でドライブを楽しみ、自動車を止めてサンドイッチを食べる。道の左脇には高さ3メートルほどの壁が延々と築かれていた。この壁がどこまで続いているのか見てやろうということになり、クライドとウィルはそれぞれ反対方向に歩きはじめる。クライドが15分ほど歩くと行く手に自動車が見えてきたが、それは二人が乗っていた車だった。いつの間にか出発点に舞い戻っていたのだ。ウィルのほうも同様だった。
 あたりに昆虫や蜘蛛が全然いないことにクライドは気づく。そして壁は苔も生えていなければ蔦も絡んでおらず、まるで一切の生き物を寄せつけないかのようだった。クライドとウィルは今度は二人一緒に同じ方向へ歩くことにするが、またしても15分ほどで出発点に戻ってしまう。どうしても、この奇妙な壁の向こう側に回ることはできないのだった。
 クライドとウィルは壁の向こう側にボールを放り投げてみたが、ボールが落ちたのは自分たちのいる側だった。ウィルは車からロープを持ち出し、高さ3メートルの壁を登攀しようと試みる。しかし壁をよじ登ったウィルが向こう側に降り立つと、そこにはクライドがいた。要するに、壁を越えることは不可能だった。
 二人はそれ以上の探索を諦めて宿泊先の農家に引き返し、自分たちを泊めてくれた地元の農夫ウィングにその日の体験を語った。ウィングによると、その奇妙な壁がある地所は退役陸軍少佐セットラーのものだった。あの壁の謎を解き明かそうとしたものは過去にもいたが、いずれも途中で投げ出すか、あるいは気が変になって死んでしまった。セットラー少佐の甥のデイヴも湖に身を投げたのだということだった。
 デイヴはウィルがコロンビア大学ラテン語を専攻していたときの学友だった。クライドとウィルはセットラー少佐に会いに行くことにする。あの壁は少なくとも1840年頃から存在していたが、来歴はまったく不明だと少佐は語り、デイヴの残した帳面を二人に見せてくれた。記録はラテン語で書いてあり、ウィルが英語に翻訳してみたところ冒頭は何かの書物からの引用だった。
「旧支配者に仕えるものどものような悪意は持たぬが、彼らと消極的ながら同盟を結んでいると碩学のいうものが存在する。その存在するのは空間ならざる空間、時間ならざる時間であり、それに伴う驚異は甚大である。それは到来した後は動かず、己に関心を払わぬものを害することはない。されど己に近寄るものたちに対して抱く衝動は無慈悲、放射する魔力は恐るべきものであり、近寄ったものたちはその呪いに囚われて狂気へと至る。囚われることは欲せざるならば近寄るなかれ、乗り越えようとするなかれ、その下に埋まっているものを掘り起こそうとするなかれ。(不明)の魔法は明らかならざるものにして、いかなる魔神もその知識を伝授してはくれぬ。それは(不明)の時に来るものにして、時が満ちれば去る」
 デイヴはコロンビア大学に移籍する前は「マサチューセッツ州の某大学」で学んでおり、「ロードアイランド州在住の作家」と文通していた。さらに、引用されている書物は「AA」と呼ばれていたのだが、これが『アル=アジフ』の略であることは一目瞭然だ。
 スカイダイビングの心得があったウィルは、パラシュートで壁の向こう側に降下することを思いつき、飛行機を持っている友人と連絡をとった。飛行機からは壁がまったく見えないということが判明すると、ウィルはクライドに地上で旗を掲げてもらい、それを目印にして降下する。しかし、ウィルはクライドの目の前で壁の向こう側に降り立ったはずなのに、いつの間にか彼の背後にいるのだった。またしても壁は越えられなかったのだ。
 これを見たセットラー少佐はダイナマイトを使うことにする。壁には大きな穴が空いたが、向こう側は見えなかった。ウィルは身体にロープを結びつけて懐中電灯を持ち、3回ロープを引いたら自分を穴の外に引っ張り出してほしいと頼むと、真っ暗な穴の中に入っていった。数分後にウィルから信号があり、クライドとウィングと少佐の3人は急いで彼を引っ張り出す。出てきたウィルは蒼白になっていた。
 ウィルとクライドはデイヴの記録を借りてセットラー少佐のもとを辞去する。コネチカットに戻ったウィルはひどく暗闇を怖れ、いつも電灯をつけっぱなしにしておくようになった。数ヶ月後ウィルは少佐に帳面を返却し、実際に壁と関係のあることはあれ以上は書いていなかったと報告する。それは嘘だろうとクライドは思ったが、ウィルを責める気にはなれなかった。
 1936年3月上旬、写真を同封した手紙がウィングから届く。ダイナマイトで壁に開けた穴がいつの間にか塞がっているというのだ。穴を埋める作業は誰もしていないはずなのに……。セットラーの壁には片方の側しか存在しない――クライドはメビウスの帯のことを思い浮かべた。
 そして1938年にハリケーンが来襲し、メイン州から再びウィングが手紙を送ってきた。あの壁が忽然と消えてしまったという証拠写真付きの報せだった。地面が微かに揺れたという地元民もいたが、地震計には何も記録されていなかったそうだ。写真を見たウィルは「『空間ならざる空間』に……あれは去っていったんだ」と囁くのだった。
 明確な用語が作中で使われているわけではないが、クトゥルー神話作品に含めてしまってもよいだろう。私たちが現実と見なしているものに揺さぶりをかけてくるあたり、「月に跳ぶ人」と同様の趣がある。なかなか見事な作品ではないかと個人的には思う。
 なお元々の話では壁はいまもメイン州のどこかに建っていることになっているので、読み比べてみるのも一興だろう。"Settler's Wall"はケイオシアムのThe Necronomiconに収録されているが、私が持っているものは傷みが激しく分解寸前だ。アーカムハウスの本の美麗さとは比べものにならないが、それでも私にとって大事な本であることに変わりはない。