私を愛した半魚人
エリザベス=ベアに"Follow Me Light"というクトゥルー神話小説がある。米国のネバダ州を舞台とし、アイザック=ギルマン(愛称ピンキー)という弁護士が主役の短編だ。ピンキーは太った蛙を思わせる醜い姿をしており、足が不自由だが、すばらしい美声の持ち主。イェール大学を優等で卒業した秀才でもある。ラスベガスの法律事務所に勤める彼の同僚にして恋人であるマリア=デルプラドの視点で物語は進行する。
ピンキーは水泳を好み、夜のコロラド川で独り泳ぐ趣味があった。砂漠の気候で傷みがちな彼の肌を癒やしてくれるのだそうだ。ピンキーの安全を懸念したマリアはやめさせようとするが、彼は「大丈夫、ギルマン一族は溺れないんだ」という。
マリアには特別な能力があり、他人のオーラを感じ取ることができる。ピンキーと交際しはじめたマリアは彼のことを夢に見るようになった。ピンキーは鎖で縛られ、生贄として神に捧げられるところだ。両脚の腱は切断されているが、ピンキーは儀式の場から這って脱出した。
ピンキーは深きものどもの一員だったが、彼らと決別しようとしたために制裁を受けたのだ。処刑される寸前で逃れることに成功したピンキーは大学で法律を学び、弁護士になった。御存じのようにインスマス人は歳をとるにつれて魚人化するが、海から遠く離れたところにいれば変貌は進まない。ピンキーがネバダ州に住んでいるのは、そのためだった。
ピンキーは決して子供を作ろうとしなかった。マリアは他の男と結婚するが、じきに離婚して法曹界に復帰し、検事になった。ある日、ピンキーの兄と称する男がマリアのもとを訪れる。エサウという名で、ピンキーと同じく蛙のような容貌だった。ピンキーを連れ戻しに来たのだ。
「心配するな、彼は殺さん」とエサウはいった。「おまえも連れていく。あいつの子を産んでもらうぞ」
(ピンキーの子供……)とマリアは思った。(産みたい)
ピンキーが子供を望んでいないのに、マリアの側はその気になっている。マリアを捕えたエサウは弟を呼び出し、やがてピンキーがやってきた。いつものように杖をついている。エサウは彼に訊ねた。
「大学を出たそうだが、学資はどうした?」
「僕を縛っていた鎖、あれは白金だった」とピンキーは答えた。「それに大きな宝石もついていたからね、使わせてもらったよ」
学問を修めるにも先だつものが必要という世知辛い話だが、それにしてもダゴン教団は金持ちと見える。海に帰れという命令に従おうとしない弟にエサウは襲いかかり、取っ組み合った二人はコロラド川に転落した。なすすべもなく待つマリアの前に現れたのは、ずぶ濡れになったピンキーだった。
「エサウはどうなったの?」
「溺れ死んだよ」
「ギルマン一族は溺れないっていったじゃない」
「彼はコロラド川に嫌われたみたいだね。そういうこともあるんだ」
ダゴンとヒュドラの眷属として生まれながら、人としての生を敢えて選び取った男の物語。なお、ピンキーが登場する小説をベアはもうひとつ発表している。以前そちらを紹介したことがあるが、人間界に墜とされたティンダロスの猟犬姉妹の話だ。
byakhee.hatenablog.com
どちらの作品にも共通することだが、とにかくピンキーがかっこいい。憎しみではなく愛を、暴力よりも対話を望むが、いざ戦闘になれば強いというヒーローだ。これほどまでに魅力的な深きものを描いたのはベアが初めてだろう。彼女は「ショゴス開花」でヒューゴー賞を獲得しているが、SF作家としてもクトゥルー神話作家としてもトップクラスにある人だと思う。
- 作者:Bear, Elizabeth
- 発売日: 2006/05/15
- メディア: ペーパーバック