新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

ヴーアの印の冒険

 ラヴクラフトはアルジャーノン=ブラックウッドを最高の怪奇作家と見なしていたが、クトゥルー神話大系への寄与という点ではアーサー=マッケンも重要だろう。マッケンに由来する用語を今日の神話作品で見かけると私はなんとなく嬉しくなる。
 そのような作品のひとつがリチャード=A=ルポフの"The Adventure of the Voorish Sign"だ。Shadows Over Baker Streetのために書き下ろされた短編なのだが、これは表題から見当がつくようにシャーロック=ホームズを主役とする神話作品のアンソロジーで、収録されている作品のうち「エメラルド色の習作」「無貌の神の恐怖」「イグザム修道院の冒険」の3編がいままでに邦訳されている。
 "The Adventure of the Voorish Sign"は割と単純な話で、夫と弟が失踪した若い女性をホームズが助けるというものだ。依頼人の女性はイングランド生まれだが、フェアクロウ卿と結婚してカナダに移住した。ところがフェアクロウ卿は屋敷の中に奇怪な部屋をこしらえて秘密の研究に没頭するようになり、挙句の果てに起きた大地震で屋敷は地割れに呑みこまれてしまった。ケベックに住んでいる親友を訪問するために屋敷を離れていたフェアクロウ夫人は無事だったが、屋敷とともに消えた夫の生存は絶望的だった。それから2年が経ち、今度はフェアクロウ夫人の実弟フィリップが行方不明になったという報せが英国から……。フェアクロウ夫人は大西洋を渡ってロンドンへ行き、ホームズに助けを求める。
 ルポフのクトゥルー神話小説にしては比較的おとなしめなのだが、それでも結構アップビートだ。フェアクロウ卿とフィリップは頻繁に文通し、二人とも妙な部屋を屋敷の中に作っていた。どうやら元凶はフィリップの結婚した女性アナスタシアと、彼女の所属している教団らしい。この教団は"The Wisdom Temple of the Dark Heavens"というのだが、"Starry Wisdom"が星智教と訳されるのに倣えば暗天智教といったところか。
 フィリップとアナスタシアの結婚式の時に暗天智教の大司教ロマノヴァが奇怪な印を結んだと聞いて、ホームズはすかさず「それはヴーアの印に違いありません」と述べる。どうしてそんなことまで知っているのかと訝る必要はないだろう、なぜなら彼はシャーロック=ホームズなのだから! さらに「天才作家アーサー=マッケン氏の名前はワトソンも聞いたことがあるかもしれないな。ヴーアの印についてはマッケンの作品にも言及がある」という台詞まで出てくる。
 そしてホームズとワトソン・フェアクロウ夫人はアナスタシアのもとに乗りこんでいくのだが、ルポフはラムジー=キャンベルのブリチェスターも忘れてはおらず、一行の乗った汽車がセヴァーン川の橋を渡る場面がしっかりある。毅然としたフェアクロウ夫人はかっこいいし、物語の後半で姿を見せる大司教ロマノヴァも魅力的だ。クライマックスで異界の妖魔にはね飛ばされながらフェアクロウ夫人とフィリップをそれぞれ左右の手でつかんで救い出すホームズは人間離れしているが、ねじ曲がった鋼鉄の火かき棒を涼しい顔でまっすぐにする彼の膂力のすごさはアイザックアシモフが『黒後家蜘蛛の会』で指摘しているとおりだ。
 ルポフの神話作品について「荘厳さとギャグが渾然一体となった中に、ラヴクラフトと神話への過剰なまでの愛を感じさせてくれる」と私は『クトゥルー神話ダークナビゲーション』に書いたことがあるが、"The Adventure of the Voorish Sign"ではホームズへの愛がさらに加わっている。こういう話を素人が書こうとするとグチャグチャになってしまいがちなのだが、作品としても完成しているのはプロのプロたる所以なのだろう。