新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

イスラムの琴

 「チャールズ・ウォードの奇怪な事件」によると、ジョゼフ=カーウィンが持っていた『ネクロノミコン』は『イスラムの琴』に擬装してあったという。*1この書物は実在し、現在はインターネット=アーカイブで無償公開されている。
archive.org
 インドのイスラム教徒について解説した本であり、旧支配者とはまったく関係がないのだが、問題は成立の時期だ。19世紀の本なので、カーウィンの時代にはまだ存在しなかったはずなのだ。*2『ブリタニカ百科事典』の「魔術」の項目で参考文献として挙げられているのをラヴクラフトは見て題名を借用したのだろうとS.T.ヨシは推測している。
www.1902encyclopedia.com
 なるほど、いつ出版された本なのか記述がない。そのせいで時代錯誤(アナクロニズム)が生じたのだろう。強引に解釈すれば、イスラムの琴という題名はカーウィンがでっち上げたものであり、同じ題名の本が後に書かれたのは偶然の一致ということになるだろうか。
 もっとも100年程度なら比較的ささやかな間違いといえるかもしれない。『ネクロノミコン』をラテン語に翻訳したオラウス=ウォルミウスも実在するのだが、ラヴクラフトが「ネクロノミコンの歴史」でラテン語版成立の年とした1228年からは400年も後の時代の人だ。ヨシによると、400年ものずれが発生したのはラヴクラフトがヒュー=ブレアのA Critical Dissertation on the Poems of Ossian, the Son of Fingalを誤読したことが原因らしい。
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 13世紀デンマークの歴史家であるサクソ=グラマティクスにまず言及し、続いてオラウス=ウォルミウスの話をしている箇所がこの著作にあるのだが、それを読んだラヴクラフトは二人を同時代人と思いこんでしまったというのだ。後世のクトゥルー神話作家は辻褄を合わせるために苦労し、オラウス=ウォルミウスは二人いたなどという珍説が生み出されることになるのだった。

*1:イスラムの琴』が『ネクロノミコン』の別題だと誤解されることがあるが、これは正しくない。

*2:英語版は1832年刊。原文はダッキニー語だそうだが、そもそも訳者であるG.A.ハークロッツの依頼によって執筆されたそうなので、ダッキニー語版が書籍の形で存在するかは疑わしい。