新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

「クトゥルー神話小辞典」余話

 フランシス=T=レイニーの「クトゥルー神話小辞典」はThe Acolyteの1942年冬季号に掲載された後、1943年にアーカムハウスから刊行されたBeyond the Wall of Sleepに改訂版が収録された。その刊行に先駆けてダーレスはクラーク=アシュトン=スミスに「クトゥルー神話小辞典」を送り、意見を求めている。スミスは1943年6月1日付の手紙で次のように返事をした。

 レイニーの論文について返事をするのがどうしても遅くなってしまい、ごめんなさい。先週はほとんどずっとサンフランシスコにおり、帰ってきたら論文が待っていたのです。
 隅々まで確認したところ、二つか三つ誤りがあるのに気づきました。ヴァルーシアはロバート=E=ハワードがコナンの物語で最初に言及したものです。これは間違いないと思います。僕自身はヴァルーシアなる地名を一度も使ったことがありません。失われた蛇人間の大陸なら僕の「二重の影」にも出てきますが、名前はついていません。でも、ハワードはその大陸をヴァルーシアと呼んでくれたのかもしれませんね。
 明らかにHPLはコラジンという名前をM.R.ジェイムズの「マグナス伯爵」から借用しています。どう見てもよこしまな目的のために、その町か村に老伯爵は「黒の巡礼」を行ったのです。
 Liber Ivonisというのは『エイボンの書』のラテン語題に過ぎないのでは?

 最後の指摘について「クトゥルー神話小辞典」のアコライト版を確認したところ、Liber Ivonisと『エイボンの書』が別物という扱いになっていた。なるほど、ラヴクラフトは「闇の跳梁者」でLiber Ivonisに言及してはいるものの、それが『エイボンの書』の訳本だとは一言も述べていない。当時はまだ表に出ていなかった設定なのだ。
 1932年から33年にかけて、『エイボンの書』を巡るやりとりがラヴクラフトとスミスの書簡に見られる。Liber Ivonisという題名を考えたのはラヴクラフトだが、それが『エイボンの書』と同一のものであるかどうかについては「学者たちがいずれ取り組まねばならない課題」と述べて曖昧なままにしてある。*1その後、1937年のフリッツ=ライバー宛の手紙で完全に同一視したことがスミスに伝わっていたのか定かではないが、結論は二人とも同じだったわけだ。ダーレスも1943年6月5日付の手紙で「ええ、Liber Ivonisは『エイボンの書』のラテン語題だと私も思います」とスミスに同意している。
 その年の11月、スミスはBeyond the Wall of Sleepの現物をダーレスから受け取った。表紙には彼の彫刻の写真が使われているが、戦時中のため光沢紙が手に入らず、いまいち見栄えがしないとダーレスは残念がっている。
 1943年11月30日付のダーレス宛書簡でスミスは「クトゥルー神話小辞典」を「立派な仕事をした」と褒めたが、トゥーレが自分の創造物であるかのような書き方になっていることに気づき、実際には古代からある伝説の地名だと指摘してから「でも些事ではあります。ノーデンスやダゴンのように今では神話大系の一部なのですから」と言い添えた。なお、このときのBeyond the Wall of Sleepをスミスはヘレン=サリーへの贈物にしたので、ダーレスはさらに1部を彼に送ったという。
 「クトゥルー神話小辞典」はいいかげんに書かれたものではなく、しっかりスミスの監修が入っていたことになる。今となっては辞典として使用されることはまずないだろうが、クトゥルー神話世界の考証の嚆矢として貴重な史料には違いない。