新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

気まずいヨグ=ソトース

 wikipedia:ヨグ=ソトースに少し加筆してみた。

ユーノーに浮気を知られたときのユーピテルのように、ヨグ=ソトースも気まずい思いをするときがあるに違いないとラヴクラフトは1936年9月23日付のコノヴァー宛書簡で述べている。

 こんなことを書いたのだが、いかにも些末な情報だ。だが、ヨグ=ソトースとシュブ=ニグラスが夫婦だという設定がそもそも些事なのではないか。ならばシュブ=ニグラスに浮気がばれたヨグ=ソトースの話をラヴクラフトがしていることを書き足し、金科玉条の如く崇め奉るようなものではないと思い出してもらう意義もあるだろうと考えた次第だ。
 ラヴクラフトがウィリス=コノヴァーに宛てて書いた手紙には再三ヨグ=ソトースの話題が出てくる。どうやらコノヴァーは興味津々だったようだが、まだ15歳だったのだから無理もない。彼の稚気あふれる質問や提案にラヴクラフトは丁寧に対応し、そのやりとりはラヴクラフトの人生の最後まで続いた。
 1937年3月8日、身体を病魔にむしばまれて苦しむラヴクラフトのもとに、何も知らないコノヴァーから葉書が届いた。クトゥルーナイアーラトテップ・ユゴス・ダレット伯爵といった固有名詞をコノヴァーは列挙し、どれがラヴクラフトの考案した名前かと質問している。ラヴクラフトは衰弱が激しく、C.A.スミス宛の手紙をハリー=ブロブストに代筆してもらわなければならないほどだった*1が、コノヴァーへの返事はごく短いものだったので自ら筆を執った。コノヴァーが受け取った3月9日付の返信は筆跡がかすれており、質問に対する回答とともに「ひどく具合が悪く、長く煩うことになりそうです」と書いてあった。その翌日にラヴクラフトは入院し、カレッジ街の家には二度と帰ってこなかった。
 ラヴクラフトの病床日記は3月11日で途絶えており、それ以後はもはやペンを持つ力がなかったのだろうとS.T.ヨシは推測している。コノヴァーへの返事も、わずかに残っていた力を振り絞って書いたものだったのだろう。ラヴクラフトが最後まで紳士だったといわれる所以だ。

*1:1937年3月23日付のダーレス宛書簡におけるスミスの証言による。