新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

カロン

 ジョン=グラスビーだってアーカムハウスから作品集を刊行してもらっていれば、我が国でもベイジル=コッパー程度には有名になっていたかもしれないなどと一昨日の記事に書いてしまったが、あくまでも知名度で並べるというだけの話だ。作家としてはコッパーのほうが上だろう。
 コッパーは英国の作家で、1924年生まれ。2013年に89歳で亡くなっている。『真ク・リトル・リトル神話大系』の6巻に「シャフト・ナンバー247」が、『インスマス年代記』に「暗礁の彼方に」が収録されているので、クトゥルー神話ファンで彼の名前を御存じの方も多いだろう。近年の邦訳としては『ナイトランド・クォータリー』の8号に掲載された「『カリガリ博士』のフィルム」がある。

ナイトランド・クォータリーvol.08 ノスタルジア

ナイトランド・クォータリーvol.08 ノスタルジア

  • 発売日: 2017/02/28
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 読者の心身を侵食するような恐怖を重厚な筆致で描き出すのが得意な作家と見えるが、ちょっと毛色の変わった作品として"Charon"がある。私の知る限り未訳なので、粗筋を紹介させていただこう。
 ソームズ氏は小さな会計事務所を経営している老人。妻子はおらず、夫と死別した妹と二人暮らしだ。大手の事務所と競合するのは楽ではなく、最近は体調も思わしくないようだった。
 ある晩、仕事を終えて帰宅しようとしたソームズ氏は街の片隅で古い店を見つける。かすれて消えかけた金文字で「有限会社カロン」と店の名前が表示してあったが、灯りはともっておらず、見たところ店内は空っぽだった。
 なぜかソームズ氏はその店のことが気になり、たびたび見に行った。店員とおぼしき長身の人物が店の中にいることもあったが、その顔まではわからない。また店内に入ろうとしても、何かしら偶発的な出来事があって邪魔をされてしまう。しかも店を見に通っていると、不思議なことにソームズ氏の健康状態は上向き、商売も繁盛するようになった。
 クリスマスが過ぎ、新年が来た。ソームズ氏が最後に店を訪れたのは2月中旬のことで、そのとき彼はとうとう店内に足を踏み入れる。店員は振り向き、ソームズ氏に手を差し伸べて話しかけた。銀の鈴を振るような声だった。
「やあ、お待ちしていましたよ」
 店員も年寄りだったが、とても美しく優しそうな顔をしていた。彼に案内されたソームズ氏は階段を降りていく。その先にあったのは黒々とした水をたたえた河で、大きな舟が待っていた。すでに何人も乗客がおり、みんな楽しげな表情だ。
「さあ、おいでなさい」店員は舟に飛び乗り、ソームズ氏にいった。「まだお席がありますから!」
 音楽と、さんざめく笑い声が聞こえた。もう店の名前の意味は明らかだったが、ソームズ氏はためらうことなく舟に乗りこむ。店員は櫂をとり、舟は岸辺を離れた。
 翌朝、ソームズ氏が路上で事切れているのが発見された。彼を最後に目撃した警官は、ソームズ氏が店に入ろうとしていたと証言する。しかし有限会社カロンは15年も前に廃業しており、ソームズ氏がなぜ関心を持ったのかは解けない謎のままとなった。
 もうひとつ不思議なことがあった。ソームズ氏は20歳も若返って見え、彼の死顔は深い安らぎと満足に満ちていたということだ……。
 いうまでもなくカロン黄泉の河の渡し守だが、とても優しく美しい物語だ。初出は1967年に刊行されたNot After Nightfallだが、私はFrom Evil's Pillowで読んだ。これは1973年にアーカムハウスから刊行されたコッパーの作品集で、1975年度の世界幻想文学大賞候補になっている。1973年といえばダーレスの死の2年後だが、この本の刊行は彼の遺していった出版計画に基づくものだろう。ダーレスの没後に残された人々は総帥の遺志を忠実に守ったが、グラスビーの作品集はまだ構想の段階だったので顧みられなかったものと思われる。
From Evil's Pillow

From Evil's Pillow

  • 作者:Copper, Basil
  • 発売日: 1973/06/01
  • メディア: ハードカバー
 『悪の枕元』という題名はシャルル=ボードレールの『悪の華』の一節を借用したもので、表紙絵はフランク=ユトパテルの手になる。すでに邦訳のある「『カリガリ博士』のフィルム」など5編の物語が収録されているが、"Charon"の順番は最後となっており、これは構成の妙というべきだろう。