新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

魁!!ラヴクラフト・サークル

 「ラヴクラフト・サークル」の若手連中のうち、ロバート=ブロックだけ男塾に放り込まれたみたいだと前回の記事で申し上げた。仮にラヴクラフト江田島平八だとしたら、ダーレスの立ち位置は伊達臣人あたりだろうか。
 ラヴクラフトとて常にダーレスを高く評価していたわけではない。フランク=ベルナップ=ロングに宛てた1931年2月27日付の手紙ではダーレスのことを「自ら眼を閉ざして地べたばかり見つめるもの」と呼び、「小人のオーギーに惑わされて道を誤ってはいけませんよ」と述べている。だが、その一方ではダーレスにブロックの指導を任せ、1933年6月21日付のブロック宛書簡で「ダーレスはとても厳しいかもしれませんが、行き過ぎているように見えても彼の指摘には価値があるのです」とすら語っている。たった2年の間にラヴクラフトに何があったんだ。
 ごく単純に考えるとダーレスが2年間で飛躍的に成長したか、そうでなければブロックの程度が低すぎたということになる。後者だったとは思いたくないのだが、ラヴクラフトは1934年8月10日付のドゥエイン=ライメル宛書簡で「ダーレスはブロックくらいの年頃にはもっと大人だったのですが」と述べており、ブロックが成長曲線でダーレスに負けていると思われていたことは事実だ。また、ラヴクラフトは1935年10月6日付のダーレス宛書簡でウィアードテイルズの1935年9月号を「『ヴルトゥーム』以外にろくな作品がありませんでした」と評しているのだが、この号には「星から訪れたもの」も掲載されている。ろくな作品じゃないなどと陰でいわれていたとブロックが知ったら泣いてしまうのではないか。
 「星から訪れたもの」に高い評価を与えなかったダーレス宛書簡はアーカムハウスラヴクラフト書簡集には収録されていない。ブロックはダーレスより成長が遅いと述べたライメル宛書簡は収録されているものの、くだんの箇所が削除されており、友達の気持ちを傷つけかねない記述は公表しないという編集方針があったのではないかと勘ぐりたくなる。そうだとしてもダーレス自身が非難の対象になっているときは例外らしく、ロング宛書簡にある小人のオーギー云々はしっかり収録されているのだった。