新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

非弾性衝突

 エリザベス=ベアは「ショゴス開花」でヒューゴー賞を受賞したが、彼女には"Inelastic Collisions"というクトゥルー神話作品もある。
 グレッチェンとタマラの姉妹がプールバーでビリヤードをしているところから物語は始まる。二人ともスレンダーな美女の姿をしているが、その正体はティンダロスの猟犬。地上に墜とされてしまったため、人間を餌食にして飢えをしのぎながら、元の世界に戻れる日を夢見ている。
 グレッチェンとタマラにとって人間は醜く汚らしい存在なので、彼女たちは人間のことを肉人形と呼んで蔑んでいる。そうはいっても腹は減るので、今夜も獲物を探しているのだ。ビリヤードの勝負に難なく勝ったグレッチェンは相手の男から金の指輪を巻き上げたが、彼を食べることはできなかった。
「怒ってるの?」とタマラが訊ねた。
「私が空腹だって知ってるくせに」とグレッチェンはいう。「あんたが逃がしたんだよ」
「私のせいじゃないもん!」と反駁するタマラ。
「あんた歯を見せたでしょ」
「笑っただけよ」
「あいつらには違いがわかるのよ」
 一見かわいらしくても、鋭く尖った歯を見せて笑うと人間はただならぬものを感じて怯えるらしい。グレッチェンとタマラは仕方なく指輪を質屋で換金し、次のバーに向かった。
 次の店で彼女たちが出会ったのは、車椅子に乗った男だった。人間の基準からしても醜い太った姿だが、声は張りがあって立派だ。そして他の人間と違い、腐臭ではなく塩水の匂いがした。
 男はピンキー=ギルマンと名乗り、姉妹にビリヤードの勝負を挑む。まずタマラが相手をするが、驚いたことにピンキーは車椅子を駆りながら見事な腕前を披露し、勝利を収めた。グレッチェンが交代し、かろうじて彼に勝つ。
 姉妹はピンキーに招待されて彼の家を訪れる。松葉杖で身体を支えながら料理を作っているピンキーにタマラは背後から襲いかかろうとしたが、彼はいった。
「僕なら考え直すがね」
 グレッチェンとタマラの意図は見抜かれていたのだ。ピンキーは姉妹に語りかけた。
「君たちは天に帰りたいと思っているのだろう。だが許されることはない。やり直しは認められないんだ。君たちは堕天として生きるしかない。あるいは、この世界で生きていくことを学ぶか」
「あなた、私たちの主の眷属じゃないね」とタマラはいった。「猟犬じゃない」
「違う、僕は父なる蛙のもとに生まれた。でも今は自立している。君たちのように」
 父なる蛙というのはダゴンのことだろう。塩水の匂いがするのも道理、ピンキーの正体は深きものだった。ただし通常とは逆で、深きものとして生まれながら人間になったのだ。
「しくじって、墜とされたんだろう」
「登ったんだよ」
「私は汚くなんかない」床に膝をついたグレッチェンが声を振り絞る。「永遠に。絶対に」
「汚れることもあるだろう。それが人間というものだから。僕たちはきれいなままではいられない。この世は汚いところだし、それを好きになる必要はない。でも天使には戻れないのだから、語り合うことを学ばなければ」
「知りもしないくせに」
「わかるさ。かつては僕も怖ろしい天使だったのだから」
 タマラは床に突っ伏して嘔吐した。そんな彼女をピンキーは宥めたのだった……。地上に墜とされた猟犬の苛立ちと悲哀を描くという変わった作品だが、姉妹が桎梏から解放されて生きていくことを予感させる結末になっている。それにしても、これほど格好いい深きものも珍しい。

Lovecraft's Monsters

Lovecraft's Monsters

  • 作者: Neil Gaiman,Joe R. Lansdale,Caitlín R Kiernan,Elizabeth Bear,Ellen Datlow
  • 出版社/メーカー: Tachyon Publications
  • 発売日: 2014/04/15
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