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主にクトゥルー神話のことなど。

「鬼神の石塚」余話

 ロバート=E=ハワードに「鬼神の石塚」という短編がある。ブライアン=ボルーの率いるアイルランド軍が1014年にバイキングを撃破したクロンターフの戦い、その古戦場に封印されたオーディンが邪霊化して900年の眠りから目覚めるが、聖ブレンダンの十字架によって撃退されるという話だ。この作品を巡るやりとりがラヴクラフトとハワードの書簡にある。

ハワード「ストレンジテイルズの最新号に載った僕の『鬼神の石塚』は読まれましたか? まだでしたら同誌をお貸しいたします。オーディンが鋼の胴鎧を着けているのは僕ではなく画家が考えたことです!」(1932年11月2日付)
ラヴクラフト「はい――『鬼神の石塚』は読ませていただきましたよ。すばらしくも力強い作品だと思います。不気味な緊迫感が秀逸ですし、墳墓からもたらされる古の十字架といった細かな設定もすべて鮮烈にして好適です。その『芸術家』が文章をきちんと読まず、ほのめかされているような怖ろしい姿で復活後の神を描かなかったのは遺憾なことですが――ああいう手合いは想像力を欠いているのです(ランキンだけは別ですが)。ところで、オーディンが悪神であることをあそこまで強調するのは、いささか伝統に対して奔放ではないかと思います。紀元600年以前には我々の父祖が崇めていた神として、私はずっとオーディンのことが大好きだったのですよ――人類がオーディンへの信仰を捨て去り、偽善的でアジア的なキリスト教という奴隷の宗教に転向したことは実に不幸であったと思えるほどです。キリスト教というのは政治的偶然のせいで地中海世界を席巻しただけであり、アーリア人にはおよそふさわしくないものであります」(1932年11月7日付)
ハワード「拙作を気に入っていただけたようで何よりです。『鬼神の石塚』は勝手に編集されてしまいました。僕の原稿では、オブライエンは米国で生まれたことになっていたのです。編集部はこれを変更し、彼を生粋のアイルランド人としましたが、『我々は同じ地で生まれたのだから同胞だ』という一文は変えようとしませんでした。これでは『オルタリ』もアイルランド人に見えてしまいますが、彼はイタリア系米国人であるということにするつもりだったのです。オーディンを純粋な邪霊にしたのは、劇的な効果を狙ったからでもありますが、古のアイルランド人の観点から物語を書いたからでもあります。オーディンの信者が尽くした暴虐の限りを思えば、アイルランドの民にとってオーディンは完全な邪神だったに違いありません。アイルランドの民の神殿や僧院は焼き払われ、祭司たちは殺害され、若き子女が片眼の神の祭壇で屠られたのです。それらすべての上にオーディンが立ちはだかっていました。破壊の煙と殺戮の炎の中、切り刻まれた死体を踏みつけながら、血にまみれた彼の姿が闊歩していたのを見れば、犠牲者にとってオーディンは紛う方なき悪の権化であったことでしょう」(1932年12月)
ラヴクラフト「『鬼神の石塚』の細部が変更されたのは実に遺憾なことです――しかも、その変更たるや完全に無意味で不要です。君の作品が切り刻まれるなど耐えがたいことですし、書かれたままの形で掲載されないとは考えたくもありません」(1933年1月21日付)

 ハワードの方から自分の作品をラヴクラフトに読んでもらいたがるのは意外と珍しいことであるように思われる。おそらく、ハワードにとって「鬼神の石塚」は相当な自信作だったのだろう。ラヴクラフトは作品自体は高く評価しつつ、オーディンの扱いが少々ひどいと感想を述べている。この前年、クトゥルーが旧神によって封印されたという設定をダーレスがこしらえているのだが、ラヴクラフトはそれを読んでも単に褒めただけだった。彼にとってはクトゥルーよりオーディンの方が大事だったということか。
 クロンターフの戦いにオーディンを絡めたハワードの作品としては「鬼神の石塚」以外にも「灰色の神が通る」がある。「灰色の神が通る」を没にされてしまったハワードが同じネタを使い回して書いたのが「鬼神の石塚」なのだが、この二つの物語は同じ世界の出来事なのかという議論を見かけた。

The Cairn on the Headland

 「灰色の神が通る」ではオーディンが空の彼方に去っていくのをケルトの戦士たちが見送るが、「鬼神の石塚」ではオーディンは邪霊と化して古戦場の石塚に封印されている。オーディンの扱いが違いすぎるので、二つの作品は世界観そのものが異なっていると見なすべきではないかと考える人もいるが、戦場に降臨したオーディンにブライアン=ボルーの長男が討ち取られるといった細部の記述が一致していることを理由に反論する人もいる。オーディンの魂は天空へと飛び去ったが、その霊は地に留まって災いの種となったのではないかという仮説もあり、私はこれが割と気に入っている。彼が足跡を印した地には神の力が宿り、良きにつけ悪しきにつけ後々まで影響があるのかもしれない。
 「灰色の神が通る」は"The Dark Man"*1と"The Gods of Bal-Sagoth"*2の前日談に当たり、したがってクトゥルー神話作品と見なすことができる。もしも「鬼神の石塚」が「灰色の神が通る」のスピンオフだとすれば、「鬼神の石塚」もまたクトゥルー神話大系の一部ということになるだろう。もっともクリス=ハローチャ=アーンストの神話作品目録*3には「灰色の神が通る」は載っているが、さすがに「鬼神の石塚」は載っていない。

 だが私は怯まなかった。オーディンの恐るべき形相も、死をもたらす雷撃の脅威も、その瞬間は怖ろしくなかった。なぜなら眼もくらむばかりの白い炎の直中で私は悟ったからだ。300年もの間メーヴェマクドナルの胸に抱かれ、不可視なる善と光の力を、狂気と影の妖魔と久遠の闘争を繰り広げる力を蓄え続けていた古の十字架を彼女が墳墓よりもたらしてくれた理由を私は理解したのだった。
 私が古の十字架を衣服から取り出すと、巨大な見えざる力が周囲の空中で活動するのが感じられた。私はゲームの駒でしかなかった――ただ聖遺物を握る手でしかなく、その遺宝こそは闇の魔神と永遠に戦い続ける力の象徴だった。私が十字架を高々と掲げると、一条の白光が迸った。耐えがたいほど純粋で、耐えがたいほど白い光だった。あたかも恐るべき光明の力がことごとく十字架において合一し、暗黒の魔物に対する怒りの矢へと集約されて放たれたかのようだった。

 かように「鬼神の石塚」のクライマックスはかっこいい。ハワードの面目躍如たるものがあるが、こういう傾向のクトゥルー神話作品に抵抗を覚えるむきもあるだろう。しかしロバート=プライスはNameless Cults の解説で次のように述べている。

ハワード作品のヒーローたちはほぼ常に勝利を収めはするが、陽気で愉快な現実世界を一時的に汚す邪悪という異常事態をただ単に封じこめるだけではない。違う、宇宙が闇に包まれるのは避けがたいことなのであって、コナンもソロモン=ケインもそれをいくらか先延ばしするに過ぎないという点において、彼らの勝利はきわめて悲観的なラヴクラフトアンチヒーローの勝利と同じである。反ダーレス派の先入観とは裏腹に、善と悪の戦いの物語はラヴクラフトの虚無的な宇宙観と決して相容れないものではない。

 ラヴクラフトとハワードの作風は大きく違っているように見えても、実は通底するものがあるのだという指摘だ。プライス博士はダーレスの名前を出しているが、ラヴクラフトとダーレスについても同様の理論は当てはまるだろう。