新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

猛禽の影

 レッドソニアといえば、アメコミや映画で活躍する女戦士だが、彼女には元ネタとなった小説が存在する。ロバート=E=ハワードの"The Shadow of the Vulture"がそれだ。この作品はマジックカーペット=マガジンの1934年1月号が初出で、現在は公有に帰しているためウィキソースなどで読むことができる。
The Shadow of the Vulture - Wikisource, the free online library
 オスマン帝国による第一次ウィーン包囲を題材にした作品で、ゴットフリート=フォン=カルムバッハとレッドソニアの二人が主役だ。ゴットフリートはドイツの貴族の家に生まれたが、酒と女で身を持ち崩したという無頼漢である。聖ヨハネ騎士団に所属していたこともあるが、不品行のせいで追い出されてしまった。普段はまるっきりダメ人間なのだが、モハーチの戦いではスレイマン大帝その人の肩に一太刀を浴びせ、彼に死を覚悟させたほどの勇士でもある。一方では、戦渦に巻きこまれて苦しむ民衆や、自分を庇って斃れた戦友を思って涙を流すなど情に脆いところがある。
 レッドソニアは燃えるような赤毛の美女。知勇兼備で、剣術も射撃も超一流の戦士だ。スレイマン大帝の寵姫ロクセラーナとは姉妹だが、彼女のことを快く思っておらず、オスマン帝国軍に向かって大砲をぶっ放しながら「ロクセラーナのやつを標的にしてやりたい」とうそぶく。ゴットフリートのことをダメ男呼ばわりしているが、彼が窮地に陥るたびに加勢してやり、「あんたみたいなアホは一人じゃ生きていけないんだから、利口な人間がそばにいてやる必要があるよね。私とか」とツンデレなことを口走ったりする。
 前述したようにゴットフリートはスレイマン大帝に傷を負わせたことがあり、そのためオスマン帝国の大宰相イブラヒム=パシャは軽騎兵隊の指揮官ミハログルに彼の抹殺を命じる。ミハログルは猛禽の翼を鎧に飾り、キリスト教諸国からは死神のように怖れられるオスマン帝国最高の殺し屋だ。彼は破壊と殺戮の限りを尽くしながらゴットフリートを追跡し、逃げるゴットフリートはウィーンに辿りつく。中欧全土を併呑しようと目論むスレイマン大帝は数十万の大軍を率いて親征し、ウィーンを攻める。しかしゴットフリートらの奮闘によって包囲は失敗に終わり、兵站が枯渇したオスマン帝国軍は撤退していく。ミハログルはゴットフリートを亡き者にしようと罠を仕掛けるが、レッドソニアはその罠を逆用してミハログルを討ち取り、彼の首を大帝に送りつける。大帝国を築き上げて「壮麗者」と呼ばれたスレイマンだが、ゴットフリートとレッドソニアからの「ささやかな贈物」を目の当たりにした一瞬、その栄光は確かに崩れ落ちたのだった――と語られて幕となる。
 スレイマン大帝やイブラヒム・ロクセラーナなど史実の人物が次々と登場する。ハワードによると、ミハログルも実在したという。ただし彼が第一次ウィーン包囲の直後に死んだというのはハワードによる仮構で、本当はその1年か2年後にオーストリアで戦死したらしい。ハワードにとって"The Shadow of the Vulture"はお気に入りの作品だったらしく、「キャラクターを創造するのがこんなに楽しかったことはありません。僕が描いた登場人物の誰よりも、ゴットフリートとレッドソニアは真に迫っているように思えます」と彼は1933年3月6日付のラヴクラフト宛書簡で述べている。
 この話自体はクトゥルー神話大系とは関係ないのだが、スレイマン大帝は「黒の碑」にも名前だけ登場し、二つの物語を結びつける役割を果たしている。こちらを表とすれば「黒の碑」は裏ということになるだろうが、あるいは忠臣蔵四谷怪談のような関係というべきか。

黒の碑(いしぶみ)―クトゥルー神話譚 (創元推理文庫)

黒の碑(いしぶみ)―クトゥルー神話譚 (創元推理文庫)