新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

私はぼんやりとそれをポケットに突っ込んだ……だが何ということだ、エリオット、それは実物の写真だったんだよ!

 えらく長ったらしいタイトルだが、これはジョアンナ=ラスのクトゥルー神話短編の題名である。原題は"'I Had Vacantly Crumpled It Into My Pocket...But by God, Eliot, It Was a Photograph from Life!'"といって、ラヴクラフトの「ピックマンのモデル」からの引用である。
 物語の舞台はニューヨーク、主人公はアーヴィン=ルービンという男。彼の職場の同僚であるジューン=クラマーから無名の語り手が聞いた話という体裁をとっている。ルービンは小さな出版者に勤めているのだが、食事の最中にも本を読んでいるような男で、彼とコミュニケーションをとろうとするクラマーの試みはことごとく失敗に終わっていた。ところが、ある日そのルービンがクラマーに「彼女はどんなところに連れて行ったらいいと思う?」などと訊ねてくる。どうやら彼に彼女ができたらしいのだ。
 ルービンが彼女に出会ったのは、セントラルパークの近くを散歩しているときだった。黒い毛皮の外套を着た彼女はベンチに腰掛けてラヴクラフトの本を読んでいた。ルービンは彼女に近づき、お読みになっている本は1939年のものほど完璧ではありませんと話しかける。ルービンが指しているのは、アーカムハウスから1939年に刊行された『アウトサイダーその他の物語』のことだろう。彼女はルービンの話に耳を傾けてくれ、二人は交際するようになった。
 とある日曜日の夕方、ルービンはクラマーのアパートに駆け込んできて助けを求める。彼女が自分の家にやってくるのだが、他にも友達を呼んであると嘘をついてしまったというのだ。だから自分の友達として家に来てほしい──仕方なくクラマーは知人とのブリッジを打ち切ってルービンの家に行く。寒々としたルービンの家で二人はじっと待っていたが、彼女は一向に来なかった。ルービンはひたすら無言で本を読み続け、クラマーは徐々にいたたまれなくなっていく。この場面は実際には何も起きていないのに、おそろしく雰囲気が薄気味悪い。
 とうとうクラマーは辞去することにするが、家を出たところでルービンの彼女に出くわす。しかしクラマーはそのまま駆け出し、地下鉄の駅まで辿り着くと泣きはじめた。こう書くとクラマーの行動はいささか突拍子もなく思われるだろうし、ルービンの彼女は無表情な美女として描写されているだけで別に怪物ではないのだが、クラマーがルービンの家に留まらなかったのが何の不思議もなく感じられるような不気味さを作り出すことにラスは成功している。
 その日からルービンは会社を何日も休んだ。ようやく出社するようになっても遅刻気味で、彼に話しかけようとしても取りつく島がない。いなくなる三日前、ルービンは物置部屋でクラマーに向かって叫ぶ。
「クラマーさん、僕らは結婚するんだ! でも誰にもいわないでくれ。誰にも知られたくない──この職場で働いている雑魚どもには知られたくないんだ! 奴らはただの腑抜けで、間抜けで、何も知りやしない。文学のことなんかわかっていない! 奴らは何もわかっていない!」
 そしてルービンはもうクラマーと話そうとはしなかった。クラマーはやむを得ず「おめでとう」とだけ声をかけて立ち去る。ここでクラマーの話は終わりなのだが、無名の語り手は後日談を付け足している。ある冬の朝、語り手自身がルービンを目撃したのだ。例の恋人と思われる若い令嬢がルービンと連れ立って公園に入ってきたが、語り手の見た彼女の姿は夕暮れの空気の中に溶けこんでいくところだった。彼女の黒い外套は何も覆っておらず、黒いスカーフは何も包んでおらず、帽子は黄昏の空の一部となり──そして彼女の紫色の眼はひたすら明るさを増し、二つの惑星のように輝いていた! その翌日、ルービンが雪の中で凍死しているのが発見された。
 それから数日後、またしても語り手は彼女を見かける。彼女はベンチに腰掛けて本を読んでいたが、その本はオウィディウスの『恋愛術』であり、おかげで一切の出来事が悪い冗談に見えてしまった。だが語り手が道を渡ったときには、もう彼女は立ち去っていた──と物語は締めくくられている。
 紫に輝く二つの眼という描写、犠牲者を凍死させて返すという行為から察するに、彼女はおそらくイタカの眷属だろう。だが、そのことはあまり重要ではない。自分だけの世界に閉じこもっていたルービンの荒涼たる人生と哀れな運命──これは実はリチャード=アプトン=ピックマンの運命の変奏であるように思われる。しかし食屍鬼となって幻夢境に去ったピックマンの場合とは異なり、ルービンの物語には何の救いもない。結構おっかない話だ。1964年に発表された作品で、Cthulhu 2000 に収録されている。

Cthulhu 2000: Stories

Cthulhu 2000: Stories