『ラヴクラフトの怪物たち』の下巻にはニック=ママタスの「語り得ぬものについて語るとき我々の語ること」が収録されている。彼のクトゥルー神話小説が邦訳されるのは、これが初めてだろう。
- 発売日: 2020/01/17
- メディア: Kindle版
フレムゲンの家を訪問したジムは薬を盛られ、気を失ってしまう。ジムが意識を取り戻したとき、フレムゲンは彼から血を採り、なにやら儀式を行おうとしているところだった。子孫の血さえあれば、時空を越えてキャバナー=ペインの肉体に精神を転移させることができるのだとフレムゲンは説明する。
「俺の曾祖父は作家としては凡庸だったし、妻を捨てて蒸発したろくでなしだ。彼に何の興味がある?」
「いや、彼のことはどうでもいい」
キャバナーを踏み台にしてラヴクラフトの身体を乗っ取るというのがフレムゲンの計画だった。この作品の題名はロバート=ブロックの「ポオ蒐集家」を踏まえたものなのだろうが、崇拝する対象に自分が成り代わろうとする点が斬新だ。
「ラヴクラフトがいつ何をしたかは詳しく記録されているからな、彼の人生をたどるのは難しくない。私が『超時間の影』や『狂気の山脈にて』を書くのだ!」
いかれている。キャバナーは1928年にラヴクラフトと面会しており、フレムゲンはその時にラヴクラフトと精神を交換するつもりだった。フレムゲンが得意げに喋っている隙にジムは縛めを引きちぎって飛びかかる。ジムとフレムゲンは一緒に時空を飛び越え、キャバナー=ペインの身体に入ってしまった。キャバナーと血のつながりがあるジムのほうが優位で、キャバナーの身体を支配したのは彼だった。
人間がタイムトラベルをするのはやはり賢明なことではなかったらしく、時空をうろつき回るものの注意を惹いてしまう。そいつが何であるのかは明言されていないが、おおかたティンダロスの猟犬の類だろう。ジムは間一髪で現代に舞い戻るが、フレムゲンはキャバナーの身体ごと怪物に食い殺されてしまった。
儀式に使われていた蝋燭が倒れ、フレムゲンの家に火がついていた。ジムは代金を取り、その場に手紙を置いて脱出する。お目にかかれて楽しかったとラヴクラフトの手紙には書いてあったのだが、結局キャバナーとラヴクラフトは会わずじまいになってしまったのだから、その文章も歴史に合わせて変化したかもしれない。だが、確認する勇気はジムにはなかった。
炎上する家を出たジムは空を見上げた。空気の澄んだバーモントの夜空では無数の星が輝いている。ありえないほど眩く、冷たく、無情な星々。ラヴクラフトがこの星空を見たら、美しいと思ったんだろうなとジムは考えるのだった。それとも怖ろしいと思っただろうか……。きれいな締めくくりだ。なお、Pseudopodで朗読を聞くこともできる。
pseudopod.org