新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

クトゥルーと暗号

 ブライアン=ステイブルフォードにThe Cthulhu Encryption というクトゥルー神話長編がある。エドガー=アラン=ポオの創造した名探偵オーギュスト=デュパンが活躍する作品だ。語り手は「モルグ街の殺人」や「盗まれた手紙」と同じくデュパンの無名の友人。シャーロック=ホームズの出てくる神話作品はよく見かけるが、デュパンが主役というのは珍しい。
 二月革命前夜のパリ、デュパンは病院で瀕死の狂女イゾルデ=レオニスに出会う。イゾルデはデュパンのことを「トリスタン」と呼び、幻夢境で暮らした日々のことを語った。デュパンは彼女を自分の家に引き取ることにする。彼女の背中にある刺青は海賊オリヴィエ=ルヴァスールの財宝への手がかりらしい。怪人サンジェルマン伯爵が現れ、自分と一緒に財宝を探そうとデュパンを誘う。語り手とサンジェルマン伯爵ショゴスに襲撃されるが、オベロンと名乗る謎の人物に助けられる。
 デュパンはイゾルデの話を聞き、彼女の生い立ちの秘密を解き明かそうとする。イゾルデは錯乱しており、その話は支離滅裂だったが、デュパンは少しずつ手がかりを得ていった。そして浮かび上がったのがエドワード=イングランドという海賊の名である。襲った船の乗組員に情けをかけることが多かったため、その態度を甘いと不満に感じた部下に叛乱を起こされてモーリシャス島に置き去りにされたという人物だ。何とかモーリシャス島を脱出した彼はマダガスカルに辿りつき、そこで死んだということになっていた。
 またカンホジ=アングレなる人物がイゾルデを養っていたらしいことも明らかになる。カンホジ=アングレはマラータ王国の提督だった人で、たびたび西洋列強の船を襲っては戦果を挙げていた。彼を海賊と見なすべきか軍人と見なすべきかを巡り、英語版ウィキペディアで論争が起きているが、いずれにせよ西洋列強の艦隊に対して生涯無敗であったため現在のインドでは評判がよいようだ。
 またしてもショゴスが攻撃してきたが、不思議な力を発揮したイゾルデに退けられた。魔法によって束の間の正気と活力を得たイゾルデに導かれるまま、デュパンたちはブルターニュ地方の水没都市イスを目指すことになる。サンジェルマン伯爵もついてきた。財宝が欲しいのは無論のこととして、彼はデュパンに興味があるのだ。
 一行はとうとうオベロンの館に到達し、イゾルデは自らの過去を思い出した。彼女が長い期間を幻夢境で過ごしたのも、オベロンの実験の一環だったのだ。デュパンたちを迎え入れたオベロンは自分の正体を明かした。彼こそは海賊エドワード=イングランドであり、生き延びて英国に帰還した後はエドワード=ケリーと名乗っていた。すなわち、いわずと知れたジョン=ディーの助手である。なお『ネクロノミコン』のアラビア語版は訳書に過ぎず、サンスクリット語版こそが真の原典であるという驚愕の設定がここで出てくる。
 君こそはディー博士の転生した姿であり、自分と手を組むべきなのだとオベロンはデュパンに告げる。デュパンはオベロンの誘いをはねつけるが、禁断の知識を探求し続けた果てに怪物化したオベロンが暴走を開始してしまった。サンジェルマン伯爵も助太刀してくれるが、絶体絶命だ。そのとき、イゾルデの呼びかけに応えて現れた幽霊船――カンホジ=アングレが駆けつけてきてくれたのだ。この場面はかなり格好いいのだが、登場したカンホジ=アングレはまるでヨガ行者のような姿だった。もはや海賊でも提督でもなく、仙人と化しているようだ。
 オベロンは消滅し、魔法が切れたイゾルデは息を引き取った。デュパンたちがイゾルデの遺言に従って彼女を埋葬しようとすると、地中からルヴァスールの宝の箱が出てくる。イゾルデの感謝の印だったが、中にはわずかな金貨とダイヤモンドが入っているだけだった。長い歳月のうちに、ルヴァスールの宝もほとんど使い果たされてしまっていたのだ。「さんざん苦労したのに、これっぽっちか……」とぼやくサンジェルマン伯爵
 こうして冒険は終わり、一行はパリに帰還したが、その後も語り手は夢を見ることがあった。夢の中で語り手はカンホジ=アングレの船の甲板におり、そこにイゾルデが佇んでいるのを見る。彼女の表情まではわからなかったが、きっと幸せに違いないと語り手は思った。もちろん、ただの夢だ。それでも、その夢が永遠に失われないことを彼は願わずにはいられなかった。
 クトゥルーに海賊に暗号と、お好きな方にはたまらない組み合わせだろうが、いささか詰めこみすぎではないかという印象も受ける。物語はなかなか緊迫感があるが、デュパンが主役だからか。これがホームズなら、むしろ安心感が勝ってしまうだろう。

The Cthulhu Encryption: A Romance of Piracy

The Cthulhu Encryption: A Romance of Piracy