新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

俺の先生

 ダーレスに助言してもらうことをラヴクラフトはブロックに勧めたが、ダーレスの指導は容赦がないことで知られており、ブロックも「ラヴクラフトさんの猿真似をするな」と釘を刺されることになる。ラヴクラフトがブロックを励まして曰く――

くじけてはいけませんよ。ダーレスはとても厳しいかもしれませんが、行き過ぎているように見えても彼の指摘には価値があるのですから。

 先輩が師範代の立場で後輩の指導をするあたり、この頃のラヴクラフトと愉快な仲間たちは「ラヴクラフト・サークル」と呼ぶにふさわしい活動をしていたわけだ。もっとも、自分がサークルを主宰しているという意識はラヴクラフト自身にはなかったのだろう。
 ところでダーレスは先輩の指導を受けていない。ラヴクラフトが自らダーレスの原稿を読んで文法や設定の点検をすることは頻繁にあったが、他の人がラヴクラフトから指導を委託された形跡は見られないのだ。適当な先輩がいなかったというのが最大の理由だろうが、ダーレスがウィスコンシン大学マディソン校の英文学科で学ぶ身だったことも大きいだろう。正規の高等教育機関で文学や創作の勉強をしている以上、そこの先生たちにダーレスの指導は任せておけばいいとラヴクラフトは考えたのだろうと思う。
 マディソンにおけるダーレスの指導教員はヘレン=C=ホワイトという人で、ラヴクラフトとダーレスが交わした手紙にも彼女の名前が出てくる。1932年2月6日付の手紙でダーレスはラヴクラフトに原稿を送り、次のように述べている。

この作品はホワイト准教授に見てもらいました。ウィリアム=ブレイクの研究者として有名な人です。なかなか口やかましい講評をもらってしまいましたが、私はおおむね納得しています。ただ"she being"のような言い方はするべきではないという意見には賛成できません。

 ここで問題になっているのは独立分詞構文のことだろう。ラヴクラフトは2月8日にさっそく返事を書いて「私もホワイト先生に賛成です」と表明した。彼によれば、以下のような理由があるそうだ。

このような言い回しはおよそ慣用的ではないため、文そのものに読者の注意が引き寄せられてしまい、想像を働かせる妨げになります。作家の目的は芸術を隠す芸術であるべきで、したがって悪目立ちすることは常に避けなければなりません。

 秘すればこそ花なのだと能楽師みたいなことを言い出すラヴクラフト。ダーレスはまだ納得していなかったようで、18世紀には普通に使われていた用法だと反駁している。ラヴクラフトは2月13日付の手紙でさらに諭した。

君が特異な表現を好むことは私も承知していますが、そういう表現はほとんどが作品のテーマに沿っており、それゆえ悪目立ちはしません。ですが今回の例は文章の他の部分と調和していなかったので、ホワイト先生も私もそこで引っかかってしまったのです。もしも文章全体が18世紀風だったら自然に見えるでしょう。

 いかにも文法に拘るラヴクラフトらしい指導だ。ラヴクラフト自身が古めかしい言い方を好む人だったと思われがちだが、彼はきちんと考えながら表現を選んでいたのだということが窺える。
 その後ホワイト先生は正教授に昇進し、ダーレスがグッゲンハイム奨学金を申請したときは推薦人になってあげた。ダーレスにとっては恩師というべき人である。今日、彼女を記念した7階建てのビルがウィスコンシン大学にあるそうだ。