新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

年下の先生

 ラヴクラフトはダーレスにアルフレッド=ガルピンの指導を任せていたと先日の記事で申し上げた。*1その経緯をガルピン本人が振り返っているので、訳出してみよう。

小説の執筆に取り組んでいた私は、実践的な指導をしてくれる人を紹介してくれないかとハワードに頼んだ。結局その小説は完成しなかったのだが、おかげでオーガスト=ダーレスとの長く楽しい交友が始まることになり、生身のラヴクラフトを知る人間と語らえることをダーレスの側でも喜んでくれた。ダーレスがラヴクラフトの遺著管理者として彼の未完の仕事を引き受け、かくも見事に進めてくれたことは両人にとって不滅の栄光となるものだ。生前には思いもよらなかったほど確固とした不朽の名声をラヴクラフトが享受できるようになったのはダーレスのおかげであり、私とダーレスの友誼がラヴクラフトとの古く懐かしい絆を今なお保ってくれると感じられるのは私の喜びである。
"Memories of a Friendship"

 新ナチ派のガルピンと反ナチ派のダーレスが激しく論争するという出来事も実はあったのだが、二人の関係が総じて良好だったことがガルピンの回想からは窺える。ガルピンもダーレスもウィスコンシン大学マディソン校の出身だが、ラヴクラフトが引き合わせるまで二人の間に面識はなかった。
 ラヴクラフトとガルピンが知り合ったのは1917年のことである。ガルピンに対するラヴクラフトの評価は高く、「ガルピンは私と物事の考え方がまったく同じだが、知的には彼のほうが数段上」と述べたこともある。またラヴクラフトはガルピンに対して飲酒の害を戒めるために"Old Bugs"*2という小説を書いている。ダーレスがグッゲンハイム奨学金をなかなか取得できずにいるとき、ラヴクラフトはガルピンの名前を引き合いに出して「彼ほどの秀才でも失敗したほどですから、よほど難しいのでしょうね」と慰めた。
 ラヴクラフトの没後、ガルピンは欧州で音楽家として活動し、さらに母校マディソンの教授となっている。なお彼は1901年生まれなので、実はダーレスのほうが八つも年下だった。