新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

最高の瞬間

 ロバート=E=ハワードに"The Supreme Moment"という短編がある。非常に短いが、なかなか強烈な話なので紹介しておこう。この作品はハワードの生前には公表されず、死後数十年を経てから『クトゥルーの窖』(Crypt of Cthulhu)でようやく日の目を見た。まだ邦訳はない。以下に粗筋を記すが、物語の核心および結末に触れているので御注意いただきたい。また、この作品が収録されている『クトゥルーの窖』の25号(1984年ミカエル祭号)を私にくれたダニエル=ハームズに感謝する次第だ。
 ザン=ウラーという老学者を国家の指導者たちが訪問する。突如として赤道附近で発生した菌類が人類を危機に陥れているのだ。あらゆる生物を侵食し、沃野を不毛の荒地に変えながら猛烈な勢いで広がっていく黴を食い止めることができるのはウラーだけだった。彼の発明した化合物なら死の黴を駆除できる。その化学式を公開してくれたら何でも代償を払うという訪問者たちに、ウラーは己の人生を語りはじめた……。
 ウラーの人生は苦難と迫害に満ちたものだった。母親は彼に飲ませるためにミルクを盗んで牢屋に入れられ、そのまま戻ってこなかった。孤児院で育った彼は低賃金の仕事に就き、健康を損なった上に身体障碍者となる。彼は苦学の末に研究者となったが、彼の発表した進化に関する学説は学会の嘲笑と宗教界の憤激を引き起こし、彼の家は暴徒に襲撃された。
 ウラーは死の黴の脅威に何年も前に気づき、その有効な対策となる化合物を発明していたが、世間は彼を笑いものにするばかりだった。そして今や死の黴は地球を覆い尽くそうとし、権力の頂点にいるものたちが彼の助力を乞いに来ている。しかしウラーは自分の発見のデータをすべて破棄しており、化学式は彼の頭の中にしかない。どんな手を使ってでも化学式を白状させてやるという権力者たちを前に、ウラーは言い放った。
「この瞬間のために私は生きてきた。私を見捨て、痛めつけ、苦しめ抜いた世界。その世界が私の思うままだ。だが、まだ絶頂ではないぞ」
「私は世界を救える唯一の人間だ。間違いなかろう? 私を蹴飛ばし踏みつけてきた世界、私に何も与えてくれなかった世界、私はその世界の救い主になるのだ!」
「さあ諸君、これが私の復讐、最高の瞬間だ!」
 そして人類を救える化学式を教えないまま、ウラーは自らの命を絶った。銃声が悪魔の哄笑のように反響していた……。ハワードの文明への呪詛と破滅への渇望が感じられる一編である。また、彼の反資本主義的な側面が反映されていると指摘する人もいる。*1