新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

イブ=ツトゥルを崇めよ、選択は無意味だ

 ジョン=タインズといえばゲーム界の大御所だが、彼がブライアン=ラムレイへのオマージュとして書いたクトゥルー神話短編"The Nullity of Choice"がSingers of Strange Songs に収録されている。イブ=ツトゥルを崇拝する男による猟奇殺人を描いた作品だ。
 一人目の犠牲者は"The Horror at Oakdeene"の主人公だったマーティン=スペルマン。彼はオークディーン療養所の看護師だったのだが、1936年の正月にイブ=ツトゥルを招喚した結果、廃人になってしまった(参照)。
 タインズによると、スペルマンがオークディーン療養所の庭で射殺されたのは1990年代の半ばであり、彼は60年間も入院し続けていたことになる。なお70年代を舞台としてスペルマンを登場させた"The Night Music of Oakdeene"という短編をジョゼフ=S=パルヴァーが書いており(参照)、これとタインズの作品を矛盾なくつなげて読むことが可能だ。ラムレイの原作と合わせて、いうなればスペルマン三部作だろう。
 連続殺人事件の捜査に当たる警官たちの掛け合いと犯人の独白が交互に出てくるという構成で"The Nullity of Choice"は進行する。殺されるのは超常現象を経験した人々。この世の秩序に外れるものは消去されなければならないというのが犯人の信念であり、宇宙の一切を見通しているとされるイブ=ツトゥルは彼にとって秩序の象徴なのだ。

私は我が主イブ=ツトゥルの如くなるであろう。私の住む世界は私を経験し、自らの逆転を経ねばならぬ。角はならされ、荒削りな表面は磨かれるべし。意味をなさぬものは、非凡なる完成という目眩く一瞬において正されるべし。科学のゴミ箱は空になり、後に残るは自然の理に従うものばかりであるべし。ありえざるものをこの惑星の表面から跡形もなく消し去り、人類が心中に一切の疑念を抱かず生きる世としよう。

 つまり、あらかじめ定められた運命に一切が従い、個人の意思による選択など無意味になるのが宇宙の理想像というわけだ。そういうことを考える人は大概ヨグ=ソトース信仰に走りそうだが、代わりにイブ=ツトゥルを崇めるというのが斬新である。
 彼が4人目を殺そうとしている現場を警察が押さえる。もはや自分はイブ=ツトゥルと合一していると豪語していた犯人だが、それだけに弱点があった。流水だ。撃たれて川の中で絶命した彼の魂は、イブ=ツトゥルのいる異次元に運ばれた。

森が開け、空地に神の姿が見えた。衣で隠された足で立ち、緩やかに旋回しておられる。衣が胸のところで蠕動しているのは、その下で無貌の魔獣がうごめき、内なる活力を貪っているからである。私は浮かび上がり、空地へと漂っていった。己の顔が消えてなくなり、背中の肉が裂けて巨大な翼が伸びるのを感じる。我が主イブ=ツトゥルよ、おそばにまいります。

 というわけで、イブ=ツトゥルを崇めるものの成れの果てが夜鬼だったのだ。あるいは彼がいまわの際に妄想しただけなのかもしれないが、黄衣の王の力に囚われた人間がバイアクヘーになるという説もタインズは唱えているから、そのような解釈を好む人なのだろう。

Singers of Strange Songs: A Celebration of Brian Lumley (Call of Cthulhu Fiction)

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