新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

ヨグ=ソトースとウムル=アト=タウィル

銀の鍵の門を越えて - そっちはそっちの気晴らし、こっちはこっちの気晴らし
 この記事の本筋とはあまり関係ないのだが、ウムル=アト=タウィルは本当にヨグ=ソトースの化身なのかという問題がある。もう10年以上も前にクトゥルーMLで指摘されたことだが、要は「銀の鍵の門を超えて」の記述が曖昧なのだ。
 ラヴクラフトの作品でウムル=アト=タウィルへの言及があるのは、ホフマン=プライスの「幻影の王」を書き直した「銀の鍵の門を超えて」だけである。そして「銀の鍵の門を超えて」にはヨグ=ソトースへの言及は一箇所しかない。第4章、ランドルフ=カーターが「窮極の門」を通り抜けた後の場面である。そのくだりを以下に訳出してみた。

それは無限の存在そして自己という「一にして全」「全にして一」の状態だった──単一の時空連続体に属するのみならず、存在の際限なき全領域の──限界がなく、空想も数学も等しく超越する最後にして完全な領域の──窮極にして活力ある精髄に連なるものだった。もしかすると、それは地球上の秘密教団がヨグ=ソトースと呼び、それ以外の名前でも知られている神格なのかもしれなかった。ユゴスの甲殻生物が「超越者」として崇拝し、渦巻星雲の霧状頭脳が翻訳不可能な印によって知るものだ──だが、こういった想念がいかに浅薄で取るに足らないものであるかをカーター局面は瞬時に理解した。

 窮極の門を超えたところにいたものはあくまでも「至高存在」(the Being)であり、それがヨグ=ソトースと同一のものかもしれないというのはカーターの憶測に過ぎない。しかも、カーターはその憶測をすぐさま「浅薄で取るに足らない」として却下している。ウムル=アト=タウィルが至高存在の顕現であることは確かなのだが、至高存在の正体がヨグ=ソトースであることまでは「銀の鍵の門を超えて」だけからは断定できない。
 では、なぜ今日ウムル=アト=タウィルがヨグ=ソトースの化身と見なされているのかというと、これがよくわからない。窮極の門の彼方にいるものはヨグ=ソトースだと最初に断定した人物がいるはずなのだが、それが誰なのかはわからない。どうやらダーレスではないようだし、ラヴクラフトが書簡でそう述べているというわけでもなさそうだ。リン=カーターが怪しいと私は睨んでいるのだが、彼はウムル=アト=タウィルをヨグ=ソトースの化身ではなく侍従長と見なしている。