新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

人々がただ信義のみによって生きていた時代

 ロバート=E=ハワードが1933年9月頃に書いたラヴクラフト宛の手紙から。西部辺境は正義のない弱肉強食の世界だというラヴクラフトの言葉に反発している。

エドガー=アラン=ポオが貧窮して死んだ場所は西部ではありません。もしも彼が西部で暮らしていたら、誰かが彼のために鹿を仕留めてやったり、彼に家の建て方を教えてやったり、彼が家を建てるのを手伝ってやったりしたことでしょう。

 続けて母方の祖父の話をするハワード。南軍の勇士だった祖父はハワードの憧れだったようで、彼は敬意をこめて「アーヴィン大佐」と呼んでいる。

1860年代にテキサスへやってきた僕の祖父は農場を経営して大いに稼ぎ、金貸しの仕事もするようになりました――金貸しというと、金袋の上に屈みこんでいる猫背ののらくら者を連想するかもしれませんが。祖父の仕事場は彼の店だったり玄関先だったり馬上だったりしました――どこにいても仕事はできたのです。150マイル離れた牧場から牧童がやってきて自己紹介したとします。祖父はその男とは何の面識もありません。彼が必要な金額をいうと、大佐は袋を開けて彼にお金を貸し与えます。彼は返済の期限を決めて立ち去ります。証人もいなければ証文もなく、何の手続きもしません。自分がいくら貸したのか大佐が把握していないことも2回に1回はありました。それでも、その時代には大佐は1セントも失うことがありませんでした。お金を借りた人たちはちゃんと返しに来たのです――テキサスで、返済を強制する法律もなければ、返さなかったからといって人々から蔑まれることになるような証人もいない場所と時代でしたが。そのような正直さが『良心』や『公正』の証でないとしたら、いったい何が証になるのか僕にはわかりません。もちろん最終的には大佐は財産をなくしてしまいました――ビジネスのことをよく心得ている利口な紳士たちが開化された地域からやってきて、テキサスにもあふれかえるようになったからです。でも、古き良き時代の人々が相手なら祖父は1セントも損しませんでした。

 多分に美化されているきらいはあるが、野蛮な地にも正義と信義はあるというハワードの信念がよく表れた文章だ。また、愛する西部辺境を貶されて反駁せずにいられないあたりもハワードらしい。

「クトゥルー神話」事始

 「クトゥルー神話」なる用語はダーレスが考案したものであり、ラヴクラフトは使ったことがないというS.T.ヨシらの説は本当に正しいのかと考察する記事を森瀬繚さんのブログで読める。
molice.hatenadiary.org
 ラヴクラフトが「狂気の山脈にて」の執筆に際して作成した覚書には"Cthulhu & other myth"と書いてあり、これこそが「クトゥルー神話」の起源なのではないかと森瀬さんは論じている。こういう指摘は海外では見かけたことがなかったのだが、最近になってジョン=D=ハーフェレのA Look Behind the Derleth Mythos で同様の主張がなされた。

A Look Behind the Derleth Mythos: Origins of the "Cthulhu Mythos"

A Look Behind the Derleth Mythos: Origins of the "Cthulhu Mythos"

 ドン=ヘロンがハーフェレ本人の承諾を得た上で当該の主張を紹介しているので、ご興味のある方は参照されたい。
www.donherron.com
 ハーフェレが反例として挙げた史料は森瀬さんとは異なり、ラヴクラフトがロバート=バーロウに宛てて書いた1931年7月13日付の手紙である。当時ラヴクラフトはバーロウと知り合ったばかりだったが、この手紙には"Cthulhu & his myth-cycle"(クトゥルーと彼の神話群)という言葉が出てくる。クトゥルーを神話大系の代表と見なす考え方が1930年代の初め頃にはラヴクラフトと愉快な仲間たちの間で何となく定着していたのだろう。
 ちなみに、このバーロウ宛書簡はアーカムハウスの書簡集には収録されておらず、タンパ大学出版会から刊行されたO Fortunate Floridian: H. P. Lovecraft's Letters to R. H. Barlow でしか読むことができない。この本を編集したのは例によってS.T.ヨシとデイヴィッド=E=シュルツなのだが、ヨシの説に反駁するためにヨシの本が使われるという光景もおなじみのものだ。それだけヨシが公正で克己的な人物であるということなのだと思う。

ラヴクラフトの駄洒落

 タイプライタを打ってくれるのであればウィリアム=ラムレイの面倒を見てやってほしいとラヴクラフトはダーレスにいったが、結局「アロンソタイパーの日記」の原稿は自分で清書した。友達を頼らなかった理由はラヴクラフト自身が1935年10月23日付のダーレス宛書簡で説明している。

時間さえあれば、ここ2年ばかり温めている構想(アーカムの話です)を作品化するつもりです。最近は他人との合作はしないことにしていたのですが、先日その方針に反して正直者のビル=ラムレイ爺さんの原稿を書き直しました。ラムレイは自分の作品を発表したがっているのです。タイプライタを打つのはバーロウに頼もうかと思ったのですが、忌々しいことに私の原稿はあまりにも字が汚かったので私にしか読めなかったのです! 拙老の仕事が増えました! さて――私はその忌々しい代物(皮肉なことに「アロンソタイパーの日記」という題名なのですよ!)をタイプし、ビル爺さんが満足してくれることを願っております。あの風変わりな爺さんの小説をライトが何か採用してくれるといいのですが――でも、この作品が受理されるかは疑問です。

 タイプとタイパーをかけた駄洒落が出てくる。コツさえつかめばラヴクラフトの字は楽に読めたとフリッツ=ライバーは回想しているが、悪筆であることは本人にも自覚があったのだろう。
 「アロンソタイパーの日記」の初出はウィアードテイルズの1938年2月号だが、掲載に至った裏にはダーレスの尽力があったという。タイプライタこそ打たなかったもの、しっかり手伝ったわけだ。ただ残念なことに、すでにラヴクラフトはこの世の人ではなかった。
 なおラヴクラフトの手紙にある「アーカムの話」が何なのかは謎だ。1935年10月以降に執筆された作品は「闇をさまようもの」しかないが、その舞台となっているのはアーカムではなくプロヴィデンスだし、ロバート=ブロックの「星から訪れたもの」の続編として書かれた作品だから、2年越しの構想というラヴクラフトの言葉とは整合しない。ラヴクラフトが早死にしたことによって書かれないまま終わった作品ではないかと思うと、惜しい気がする。

世話を焼きたがる男

 「インスマスを覆う影」の原稿を読んだダーレスは、知り合いの画家に挿絵を描いてもらうことを思いついた。ラヴクラフトは1932年2月2日付の手紙で「自分は果報者だ」と感謝しつつ「出版のめどが立っていない作品に絵をつけるというのは気が早すぎないでしょうか?」と懸念を表明している。ダーレスは2月6日に返事をした。

心配は御無用です、絵を描いても報酬があるわけではないということは画家にきちんと知らせてありますから。来週の頭には絵ができあがりますので、そうしたら原稿を返送いたします。ですが「インスマス」を書き直さないならライトのところに送るべきだと私はやはり思うのです。やってみてもいいでしょうか?

 ずいぶん気前のいい友達がいたものだが、この画家というのはフランク=ユトパテルである。当時ユトパテルはダーレスと知り合ったばかりで、彼の家から3キロしか離れていない隣町に住んでいた。
 時は流れて1936年、ウィリアム=L=クロフォードが「インスマスを覆う影」の単行本を出版し、その表紙絵と挿絵を手がけたのはユトパテルだった。彼は4年前の絵をとっくに捨ててしまっていたため、新たに描き直す必要があったそうだが、ダーレスが取り持った縁ということになるだろう。この『インスマスを覆う影』はラヴクラフトの生前に刊行された唯一の単行本となったが、そこにはダーレスは間接的ながら関与していたわけだ。
 ラヴクラフトはユトパテルの絵をおおむね気に入っていたようで、1936年4月9日付のダーレス宛書簡では彼のことを「真の奇才の持ち主であり、ウィアードテイルズの常連画家でも彼に及ぶのはランキンくらい」と称賛した。またロバート=バーロウに宛てた手紙でも「ザドック爺さんにヒゲがないこと以外は完璧」「この本の取り柄といえるのはユトパテルの絵だけです」と述べている。
 話をダーレスに戻すが、ウィアードテイルズ以外の雑誌にも「インスマス」の原稿を売りこむべきだと考えた彼はストレンジテイルズの編集長ハリイ=ベイツに口を利いてあげている。さらに、タイプライタを打つのが苦手なラヴクラフトに代わって今後は自分が原稿を清書しようかと申し出た。「インスマスを覆う影」は2万2150語の作品で、それほどの長さがある原稿をタイプライタで清書するのはラヴクラフトにとっては相当な苦行だったはずだが、1分間に100語を打ったというダーレスにとっては4時間足らずの作業でしかない。
 挿絵の手配をしたり編集部と交渉したり、はたまた原稿の清書まで引き受けようとしたり、ダーレスが再三ラヴクラフトの世話を焼こうとしていたことが窺える。要はラヴクラフトが執筆に専念できるよう、一切の雑事を自分が肩代わりしようということだろう。タイプライタに関するダーレスの申し出に対して、ラヴクラフトは次のように返事をしている。

もしも無償でタイピングの仕事をしてくださるというのでしたら、ニューヨーク州バッファローにウィリアム=ラムレイなる奇人が住んでおりますので、彼の面倒を見てやってくれないでしょうか。ラムレイはタイプライタを持っておりませんので。

 ダーレスの動機はあくまでも「もっとラヴクラフトに小説を書いてほしい」ということだったはずなのだが、ラヴクラフトはそれを慈善事業と誤解したようだ。なお、後にラヴクラフトはラムレイのために「アロンソタイパーの日記」を代作している。

もしもダーレスが「インスマスを覆う影」を書いたら

 「インスマスを覆う影」の原稿を読んだダーレスはラヴクラフトにいくつか意見を述べたようだ。その手紙は残っていないが、ラヴクラフトの書いた返信から内容の推測することができる。ダーレスが提案したのは――

  • 主人公がインスマスの血を引いていることを早い段階で示唆しておく。
  • ザドック爺さんの話は短く切り詰める。
  • 主人公の末路を示すために、彼以外の人物による「後記」をつける。

 ラヴクラフトは1932年1月28日付の手紙で次のように返事をしている。

拙老の「インスマスを覆う影」に対する丁寧で啓蒙的な分析に深く感謝いたします――ご指摘いただいた事柄のいくつかは至極しっかりした根拠があるように思われます。より直截に血脈の話をして前兆とすることは自分でも考えたのですが、あまりにも早く主人公の真の先祖を感づかせてしまうことになりそうだったのでやめました。インスマスに関する情報はもっと微妙で段階的な紹介の仕方をしてもいいのではないかとも思いましたが、さらに話が長くなってしまうに違いありませんから採用しませんでした。もっと優秀な作家ならザドックの物語を短くできるのでしょうが、私には無理です――私は何度も試行錯誤を繰り返し、ようやく現在の形に辿りついたのですから。出来事を取り上げる順序は変更するくらいなら、今のままにしておいたほうがマシなようです――ですが「編者による」後記というのは悪い考えではなさそうですね。

 ダーレスの提案も決して間違ってはいないと思うのだが、実行するに当たってはラヴクラフトが指摘したような問題があることも確かだ。後にダーレスが書いた「ルルイエの印」には、このときの彼の意見がいくらか反映されているように思われる。
 なお、ラヴクラフトは続けて「この原稿は編集部には送らず、友達に読んでもらうだけにしましょう。君の分析を皮切りとして、みんなの意見は全部ありがたく頂戴します。そして、いつか原稿を書き直すことがあったら必ず参考にさせてもらいます」と述べている。相変わらず彼は後ろ向きなのだった。

軌道に乗るどころではなかった経営

ダーレスの罪と罰
 いろいろと突っ込みどころの多い文章なのだが、細かい話をひとつ。

アーカムハウスの経営が軌道にのった、1940〜50年代には

 1940〜50年代にアーカムハウスの経営が順調だったというのは正しくない。1939年から49年までの10年間にダーレスがアーカムハウスに注ぎこんだ私財は2万5000ドル(現在の数十万ドルに相当)に上り、金策に駆けずり回るダーレスの姿を間近で見たというサム=モスコウィッツの証言もあるほどだ。
 1950年には印刷所への支払いが間に合わないのではないかと危ぶまれたが、その時デイヴィッド=H=ケラーが大金を提供してくれたためアーカムハウス九死に一生を得た。締まり屋として有名だったケラーがそんなに気前よく振る舞ったとは驚くべき話だ――とピーター=ルーバーはArkham's Masters of Horror で余計なことを述べている。
 ケラーについては前にも記事を書いたことがある。*1彼がダーレスに救いの手を差し伸べたのは頼まれたからではなく、アーカムハウスの苦境を知って自発的に申し出たのだそうだ。ダーレスにお金を渡すとき、ケラーは次のように述べたと伝わっている。
「私はね、人を見る眼があるのが自慢なんですよ」
 ケラーの言葉はアーカムハウスに対する最高の賛辞だったとダーレスは回想している。なお、ケラーから借りたお金を彼は後に全額返済した。
 いかにも細かい話ではあるのだが、そんな初期からアーカムハウスの経営が軌道に乗っていたなどといわれてしまうと、もっとも苦しい時期に陰から支えてくれたケラー博士を無視されたような気がして私はおもしろくないのだった。

ミュルダー異聞

 ゴットフリート=ミュルダーといえばフォン=ユンツトの友人であり、かの悪名高い『無名祭祀書』を出版した人物だ。彼は1858年にメッツェンガーシュタインの精神病院で死去したとされているが、これらはすべてリン=カーターの設定である。元々の設定がどのようなものであったのか、ラヴクラフトがウィリス=コノヴァーに宛てて書いた1937年1月10日付の手紙を見てみよう。

ミュルダー教授がまだ生きているとは知りませんでした――願わくは彼の発見を公表した後も生き続けてほしいものですが、ヨグ=ソトースが執念深い性格であることは有名ですからね。ミュルダー教授の住所を知りたいのですが――もちろんハイデルベルクの旧居ではいけませんよ。いうまでもなく、彼のような学究はナチス政権下では祖国を追われざるをえないからです!

 本来ミュルダーはフォン=ユンツトの友人どころかラヴクラフトの同時代人だった。ダニエル=ハームズが『エンサイクロペディア・クトゥルフ』で指摘しているように、ラヴクラフトとコノヴァーの文通の内容をよく知らなかったカーターが適当に設定をこしらえたのだ。
 ラヴクラフトとコノヴァーの設定によると、ミュルダーはナチスに迫害されて亡命した学者であり、1937年の時点では旧支配者の秘密を世間に発表しようとしている最中だった。これはこれでおもしろそうなのだが、『エンサイクロペディア・クトゥルフ』ではカーターの説を全面的に採用し、それがラヴクラフト・コノヴァー説と異なることは文末の註釈で軽く触れるにとどめている。カーターに対するハームズの敬意が感じられる。
 なおミュルダーのファーストネームがゴットフリートだというのもカーターによる設定であり、ラヴクラフト・コノヴァー説ではヘルマンであるとされている。してみるとミュルダーは二人いたということであり、ヘルマンはゴットフリートの子孫だと考えれば辻褄が合うのではないか。フォン=ユンツトにも子孫がいるくらいだから*1ミュルダーにいてもおかしくないだろう。