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主にクトゥルー神話のことなど。

ダンセイニとカパブランカ、そしてアレヒン

 もう11年も前になるが、ダンセイニ卿はキューバの大棋士ホセ=ラウル=カパブランカとチェスの対局で引き分けたことがあるという記事を書いた。
byakhee.hatenablog.com
 念のために断っておくが、二人は対等な立場で指したわけではない。カパブランカは数十人の相手と同時に指しており、いうなれば指導対局だった。それでも不世出の天才たるカパブランカとの対局で引き分けにまで持ちこんだことは非常に価値ある戦果といえる。ダンセイニもさぞかし誇りに思ったに違いない。
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 カパブランカは1942年にニューヨークで急死した。まだ53歳だった。このときダンセイニが彼を悼んで作った詩がエドワード=ウィンターのサイトに載っているので訳させていただく。

今や憩える精神は
その洞察の明瞭さ
鋭利なること空前なり
ここに横たわるのは誰ぞ?

往時その計略は
ヒンデンブルクにも引けをとらざれど
ただ棋戦に興じるばかりにて
何人をも害することなし

 カパブランカをドイツの名将パウル=フォン=ヒンデンブルクと並べつつ、その知性は誰も傷つけることがなかったと称えている。当時は第二次世界大戦の最中であり、そのことが反映された詩なのかもしれない。翌1943年にダンセイニが発表した作品にも同様の傾向が見られる。

無益なことだと人はいう
チェスに興じる穏やかなる夕べ
その興奮も 勝利も そして和睦も
何ら役には立たぬことであると

されど もし人々を討つことを志すものが
すべて代わりにチェスを指したとすれば
今や死者の上に灰燼と帰したる都も
なお健在であったろうに

 ところで、カパブランカとの対局を振り返った自叙伝でダンセイニは彼のことを「当時の世界チャンピオン」と呼んでいるのだが、これは正しくない。対局が行われた1929年、カパブランカはもうアレクサンドル=アレヒンに王座を明け渡していた。15年も経ってからの回想なので十中八九は記憶違いだろうが、もうひとつ可能性があるのではないかと私は考えている。
 卓越した知性で人を傷つけることがなかったとダンセイニはカパブランカを称えたが、その点アレヒンはナチスの協力者として評判が悪い。彼は元々ロシアの人で、革命の時にフランスへ亡命したのだが、今度は戦争でフランスが第三帝国に占領されたため、なし崩しに協力する羽目になったという経緯がある。
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 戦後のアレヒンは不遇だった。ナチスの走狗として国際大会からは追放されたも同然となり、ポルトガルエストリルで政治警察の監視下に置かれながら最後の日々を過ごした。煙草銭にも事欠くほど貧窮した挙句、ホテルの一室で遺体となって発見されたが、その時の状況が異様なものだったため、ソビエト連邦工作員に暗殺されたという噂が流れることになった。なおフリッツ=ライバーの「モーフィー時計の午前零時」ではアレヒンの終焉の地をリスボンとしているが、これは正しくない。
 1929年の時点でカパブランカが世界チャンピオンだったとダンセイニが1944年に記述したのは、もしかしてアレヒンなど王者とは認めないという意思表示だったのではないだろうか? だが過去に遡って選手権を剥奪するというのは、きわめて厳しい措置だ。果たして彼がそこまでアレヒンを嫌っていたのかは定かでなく、ダンセイニに詳しい人の意見を聞いてみたいところだ。

モーフィー時計の午前零時

モーフィー時計の午前零時