新・凡々ブログ

主にクトゥルー神話のことなど。

カパブランカ対ダンセイニ

 1929年4月12日、ダンセイニ卿はキューバの大棋士ホセ=ラウル=カパブランカとロンドンでチェスの対局を行い、引き分けた。その棋譜はネット上で公開されている。
www.chessgames.com
 白がカパブランカ、黒がダンセイニだ。この対局のことをダンセイニは自叙伝While the Sirens Slept で語っている。エドワード=ウィンターのサイトからの孫引きになるが、そのくだりを以下に訳出してみた。
www.chesshistory.com

その年の初春、おそらく史上最高の棋士であり当時の世界チャンピオンだった*1カパブランカがロンドンにやってきて、セルフリッジで公開対局を行った。それは多面指しで、ロンドン近隣の七つの州からそれぞれ3名が選ばれてカパブランカの相手となった。ロンドン近隣の七つの州とはすなわちイングランド最強の七つの州だといってよいだろう。カパブランカを相手にもっとも善戦した州には賞品を贈るとセルフリッジ氏は申し出た。私はケント州代表の一人になるよう依頼を受けていた。私たちは細長い部屋で卓に向かって一列に座り、私たちの周囲には観衆が詰めかけていた。カパブランカ氏はその列に沿って歩きながら指すのだった。自分が代表に選ばれたのはケント州チェス協会の会長だからではないということを私は証明したくてたまらなかった。そのためには、少なくとも1時間半は持ちこたえなければならなかった。自分がオープニング*2に疎いことは前にも申し上げたとおりだが、もちろんカパブランカはすべての盤で白番を持っており、あらゆる科学の中でもっとも複雑な理論に匹敵すると思われるオープニングを選んできた。すなわちルイ=ロペスである。私の4手目は早すぎたが、それがどれほど由々しきことか私は理解していなかった。この単純な失策に乗じたカパブランカはたちまち優位に立ち、私は1時間半も持ちこたえられそうになくなってしまった。私はそこから粘りはじめ、ポーン1個を犠牲にすることによって、自分がはまりこんだ泥沼から抜け出した。だがポーン1個を損してカパブランカと指すのでは見通しは暗かった。奇妙にも私は失策のおかげで助かった。というのも、カパブランカが指したような正統派ルイ=ロペスの複雑さに巻き込まれていたら、私が易々と打ち負かされていたであろうことは疑問の余地がないからである。だが時計の針は進み、私はまだ指し続けていた。とうとう私はポーンの損を取り戻し、4時間かけて勝負は引き分けに終わった。私の左隣の選手に対して、カパブランカはかなり渋々とドローを認めた。引き分けは0.5ポイントと見なされるので、ケント州はカパブランカに対して1ポイントを獲得したことになる。またハートフォードシャーの選手が一人カパブランカに勝ち、ケントとハートフォードシャーはどちらも1ポイントで並んだ。そこでカパブランカに勝った選手と、引き分けた私たち2名はいずれもセルフリッジより賞品を授与された。なぜならカパブランカは残りの選手にことごとく勝ったからである(原註──これは正しくない。引き分けた選手が他にも2人いた)。賞品が手渡されるとき、「お好きなものがありましたらお知らせください」と店の人がいってくれた。包装された箱の中に商品は入っており、特に選り好みするつもりはないと私は返事をした。だが家に帰ってから箱を開けてみると、出てきたのはカクテルシェーカーだった。非常にすてきなカクテルシェーカーではあったが、棋士にとっては無用の長物だった。まるで南国の人にトナカイ用の馬具を贈るようなものだ。そこで私は前言を撤回するために手紙をしたため、何か他のものにしていただけないだろうかと訊ねた。そして実際に取り替えてもらえたのだが、代品は見たこともないほど大きく有用な魔法瓶で、15年近く経った今でも相変わらず役に立ってくれている。その年、私とカパブランカの対局は『タイムズ』のチェス欄に掲載された。

 ダンセイニは1928年にもカパブランカと対戦し、その時は負けている。したがってダンセイニ対カパブランカの通算成績はダンセイニの1敗1引き分けだが、たった一回でも引き分けられたのだから大したものだ──そう言わずにはおられないほど、カパブランカとの引き分けは価値のあるものだった。

世界の涯の物語 (河出文庫)

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*1:これは間違い。当時の世界チャンピオンはアレクサンドル=アレヒン。

*2:チェスの定跡のうち、白が形を決めるもの。黒が形を決めるときはディフェンスと呼ばれる。