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主にクトゥルー神話のことなど。

ラヴクラフトとゲーム

 ゲームにおけるラヴクラフティアンの純正主義についてダニエル=ハームズが論じたことがある。

そもそも、ゲームなんてどれもバカげているとラヴクラフトなら考えそうなものだ。

Purism in Lovecraft Gaming: A Rant | Papers Falling from an Attic Window

 ずいぶん強烈な言葉だが、これはいわゆる純正派に対して釘をさしたものだ。クトゥルー神話の要素をゲームに取り入れるのはいいとして、それこそがラヴクラフト派の正統であるかのように称するのは欺瞞であるということであり、問題意識としては機械伯爵さんに通じるものがあるだろう。

 別に私は、ゲームでそういった扱いを行っていることに文句を言う気は毛頭ない。
 しかし、ダーレスをダシにして、いかにも「私はダーレス版のパチモンではなく、ラヴクラフト正統なんだよ」という態度をとりながら、こういった修正を「何の断りも無く」行っていることには、ちょっと首を傾げざるをえない。
 ゲーム用の概念であれば、堂々と書いてしかるべきだろう。

時間城年代記:クトゥルフ神話TRPG

 そのことを最初に断った上で、ゲームに対するラヴクラフトその人の見解を見てみたい。ハームズは何を根拠としたのだろうか。ラヴクラフトは1932年2月3日付のジェイムズ=F=モートン宛書簡で次のように述べている。

パズルとかゲームというものはせいぜい余分な知性の副産物に過ぎませんが──あいにく私は余分な知性など持ち合わせていません。もちろん、下等な種類のゲームはバカげたものと適切なものの区別がつかないほど貧弱で歪な物事の見方しかできない人間が逃避するための手段に過ぎません……。

 ここでラヴクラフトが念頭に置いているのはTRPGではなくチェスやチェッカーのたぐいだろうが、何にせよ散々な言われようだ。だが、同じ書簡でラヴクラフトは次のようにも述べている。

私がパズルに興味を持てない理由は、ゲームやスポーツに無関心である理由ときわめて似通っています――精神的エネルギーが余っていないので、自分と関係があるわけでもなければ見返りが得られるわけでもない目的に頭脳の力を使うわけにはいかないのです。そのことを私は我知らず恨めしく感じております。私が精神を集中して考え事をするときは――神経衰弱の一歩手前の状態にある人間にとっては非常に過酷な作業です――骨を折った分だけ有形の報酬が必ず欲しいのです。報酬というのは、歴史的・科学的・哲学的な好奇心が満たされることや、創造や洞察を通じて美的な喜びが得られることや、均整のとれた独創的な図像や印象が具体化することです。

 要するに、精神力に余裕がないから節約する必要があるということだ。知的なエネルギーが有り余っている人間なら無駄遣いしてもかまわないのだろう。ちなみに、この手紙をラヴクラフトからもらったモートンクロスワードパズルが趣味だったが、ハーバード大学で学士号と修士号を同時に取得したほど優秀な人物でもあった。
 ラヴクラフト自身はゲームに手を出さなかったかもしれないが、彼の関係者にはチェスの愛好家が多い。カパブランカと引き分けたことのあるダンセイニ卿は別格としても、ダーレス・ライバー・バーロウらもチェスが得意だった。ラヴクラフトは1934年5月26日付のヘレン=V=サリー宛書簡でロバート=バーロウのチェスの腕前を褒めている。